安倍首相が東日本大震災二周年となる昨日3月11日、首相官邸で記者会見を開いた。冒頭、次のように発言している。
安倍首相「あの東日本大震災から、2度目の3月11日を迎えました」
数え方からしたら、2度目になるのかもしれないが、厳密には巨大地震・巨大津波に見舞われた2011年3月11日が最初の3月11日で、今年で3度目の3月11日になると思うが、違うのだろうか。悪夢の起点はあくまでも2011年3月11日であって、その日を1度目としなければ、復興への覚悟が定まらないように思える。
安倍首相「昨年12月の総理就任以来、私は、毎月、被災地を訪問してまいりました。2年を経た今でも、多くの皆様が仮設住宅での暮らしを強いられています。『いつまでこんな生活が続くのか?』先が見えないことへの不安の声を被災地で何度も耳にいたしました。福島では、多くの方々が今も福島第一原発事故の被害に苦しんでいます。子供たちは屋外で十分に遊ぶこともできません。被災地の厳しい現実から目を背けることはできません。東日本大震災は、今もまだ現在進行形の出来事であります」――
安倍晋三は安倍晋三らしくなく、「東日本大震災は、今もまだ現在進行形の出来事であります」と、被災地に対する自らの認識を客観的に的確に提示している。
東日本大震災が「現在進行形」だということは、復興が未だ途上で、多くの被災者の生活の不安や生活の不自由、生活の苦悩が癒されずに続いているということを意味する。
では、現在進行形を過去形とするどのような政策を提示するのだろうか。早くも期待に胸が膨らむ。
いや、焦ってはいけない。客観的認識に基づいた被災地の現状把握が続いた。
安倍首相「一部ではありますが、復興住宅の建設も進み出しました。被災した工場を再び立ち上げた方もいらっしゃいます。その光は、未だ微かなものかもしれません。しかし、被災者の皆さんの力によって、被災地には希望の光が確実に生まれつつあります。この光を更に力強く、確かなものとしてまいります。全ては実行あるのみです。その鍵は現場主義です」――
最初に生活の不安や不自由、苦悩を抱え、未だ苦しんでいる被災者の状況を伝え、一転して「希望の光が確実に生まれつつあ」る状況を伝えている。
当然、「希望の光」を見い出しているのは一部被災者に限られていることになる。
これが全体的な「希望の光」なら、「2年を経た今でも、多くの皆様が仮設住宅での暮らしを強いられています。『いつまでこんな生活が続くのか?』、先が見えないことへの不安の声を被災地で何度も耳にいたしました」とか、「福島では、多くの方々が今も福島第一原発事故の被害に苦しんでいます」といった言葉は出てこない。
そして「この光を更に力強く、確かなものとしてまいります」と言っている以上、現在進行形を過去形とする、その政策方法論としての「被災者お一人お一人が生活再建に取り組める環境」の整備、「住まいの復興工程表」の取り纏めは、それが「現場主義」をカギとしようがしまいが、「確実に生まれつつあ」る「希望の光」を見い出している一部被災者を対象とした政策を意味することになる。
要するに小平が唱えた先富論「先に豊かになれる者から豊かになり、取り残された人を助けよ」と同じで、国家主義者らしい発想である。
小平の言葉は美しいが、しかし現実には中国は格差社会となっている。0以上1以下の数値のうち1の数値に近い程格差が大きいことを表し、社会的な警戒ラインは0.4とされるジニ係数の2010年度の中国は世界平均0.44を大幅に上回る0.61だと、2012年12月10日付「サーチナニュース」が伝えている。
都市部のジニ係数は0.56、農村部で0.6といずれも社会的警戒ラインの0.4を大きく上回る格差社会となっている。
いわば小平は国家を先ず富ませ、多くの国民を富から取り残す国家主義を地で行った。
そして日本の現在の経済に於いても円安・株高によって先ず富める者が富み、円安による輸入生活関連物資の高騰によって中低所得層の生活を圧迫し、格差を強めようとしているアベノミクスも国家主義を背景とした政策の展開であろう。
国家主義は国民を全体的に俯瞰するのではなく、一部のエリートのみを俯瞰し、重用する視野狭窄によって成し得る。
この矛盾を是正しようと企業に賃金アップをお願いしているが、アベノミクスが国家主義からの経済政策であることに変りはないし、企業は内部保留を手段とした自己保身に頑なな姿勢を維持、賃上げよりもボーナス等の一時金で自己保身を貫こうとしている。
また、「生活再建に取り組める環境」整備は今後の課題であるし、「住まいの復興工程表」は取り纏めたというだけのことで、両者とも具体的な形を取って一定程度成果を見ないことには希望と言える期待感は持てない。
さらに「希望の光」の確実な芽生えを一方で言いながら、その一方でその芽生えを阻害するいくつかの障害があることを後から提示している。最大の障害は人不足だと。
最初にいいことを言って、後から不足を言うのは情報操作による一種のゴマ化しであろう。最初に不足や不備を言って、次にそれをどのように解決していくかの対策なり政策なりを提示すべきが親切な姿であるはずだが、逆を行っている。
安倍首相「現場で不足をしているのは、『人』です。日本中からプロを集めることが復興を加速させる近道です。復興事業を担う自治体のマンパワーを増強するため、行政の経験者を積極的に活用します。高台移転の遅れには、土地買収や埋蔵文化財調査などの問題がありますが、これも専門家を投入して、加速させてまいります」――
「日本中からプロを集めることが復興を加速させる近道です」と簡単そうに言っているが、簡単にプロを集めることができれば、とっくに集めている。プロは現在の居場所に於いてもプロの人材として必要とされている存在であるはずだから、いくら復興のためとは言え、おいそれとは要望に応えることはできない。要望に応えて、本来の居場所で人出不足を起こしたら、本末転倒となる。集めるよりも、人材速成でいった方が早かったのではないのか。
地元の失業者の中には元々の自治体職員について歩くだけで仕事を飲み込んでいく柔軟な発想を能力とした者もいるはずである。そういった人材なら、学歴だ経験だを問わずに済むはずだが、如何せん、権威主義社会だから、柔軟な発想云々よりも学歴だ経験だを問う。
人出不足は前々から言われていた。2012年10月29日当ブログ記事―― 《会計検査院から復興遅れの原因の一つを指摘される政治の倒錯性 - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》にも書いたが、昨年12月の時点で会計検査院から、復興予算執行率48%余という低さの原因は公共事業急増に対する自治体職員不足によると指摘を受けている。
それを5カ月近く経過しても、「現場で不足をしているのは、『人』です。日本中からプロを集めることが復興を加速させる近道です」などと今後の課題だとしている。
このスピード感の無さは被災者一人一人の生活の不安や生活の不自由、生活の苦悩を掬い取って、そこから復興の全体像を政策していく方法ではなく、既に『希望の光』を見い出した者にさらに光を与えて復興を上から拡大していき、そのような復興の形を安倍政権の成果とするような国家主義的遣り方と考え併せると、地域間に応じて、あるいは被災者の置かれた環境に応じて、かなりの取りこぼしや格差をも成果とするように思えて仕方がない。