今国会で安倍首相の河野談話や靖国神社参拝の取り扱いに対する質問が行われている。河野談話を否定する立場を取っていること、靖国参拝に関しては「第1次安倍内閣のとき、靖国参拝をしなかったのは痛恨の極みだった」と何度となく悔しがって見せていたことを追及して、もし矛盾した発言をするようなら、その有言不実行性を炙り出し、国民の目に曝そうという魂胆なのだろう。
だが、矛盾した答弁をしていながら、今のところその有言不実行性を炙り出すことができていない。
このブログ記事では河野談話が日本軍による強制性があったとして謝罪していることを否定している安倍晋三の従軍慰安婦観を取り上げる。
2月7日(2013年)衆議院予算委員会。質問者である前原誠司民主党議員に対する答弁。
安倍晋三「整理をいたしますと、まずは、先の第一次安倍内閣のときにおいて、(辻元清美による安倍首相の「慰安婦」問題への認識に関する)質問主意書に対して答弁書を出しています。これは安倍内閣として閣議決定したものですね。つまりそれは、強制連行を示す証拠はなかったということです。つまり、人さらいのように、人の家に入っていってさらってきて、いわば慰安婦にしてしまったということは、それを示すものはなかったということを明らかにしたわけであります。
しかし、それまでは、そうだったと言われていたわけですよ。そうだったと言われていたものを、それを示す証拠はなかったということを、安倍内閣に於いてこれは明らかにしたんです。しかし、それはなかなか、多くの人たちはその認識を共有していませんね。
ただ、勿論、私が言おうとしていることは、20世紀というのは多くの女性が人権を侵害された時代でありました。日本に於いてもそうだったと思いますよ。二十一世紀はそういう時代にしないという決意を持って、我々は今政治の場にいるわけであります。女性の人権がしっかりと守られる世紀にしていきたい、これは不動の信念で前に進んでいきたいと思っています」――
安倍晋三は「20世紀というのは多くの女性が人権を侵害された時代でありました。日本に於いてもそうだったと思いますよ」と20世紀という時代のせいにして、罪薄めを謀っている。
携帯電話で写真撮影が手軽となって、それを利用した女性盗撮が時代的な風潮となっている。だからと言って、個々の盗撮を時代のせいとすることはできないはずだ。
要するに従軍慰安婦問題に関わる日本軍の責任を時代に転嫁している。20世紀という時代が悪いのであって、個々の日本軍兵士に罪はないのだと。
この狡賢い狡猾さ一つを以って安倍晋三の歴史認識のいかがわしさを十分に窺うことができる。
この、「人さらいのように、人の家に入っていってさらってきて、いわば慰安婦にしてしまったという」強制連行を示す証拠はなかったとする立場は安倍晋三一人のものではなく、保守系の多くの政治家・識者が同じ立場を取り、相互に持論としている。
持論であるから、いつどこの答弁や発言を切り取ろとも、同じ意味・内容を取ることになって、上記発言で十分だが、一度ブログに利用しているから、2007年3月5日の参院予算委員会の安倍答弁を取り上げてみる。
安倍晋三「河野談話は基本的に継承していきます。狭義の意味で強制性を裏付ける証言はなかったということです。
(中略)
ご本人がそういう道に進もうと思った方は恐らくおられなかったんだろうと、このように思います。また間に入って業者がですね、事実上強制をしていたという、まあ、ケースもあった、ということでございます。そういう意味に於いて、広義の解釈に於いて、ですね、強制性があったという。官憲がですね、家に押し入って、人攫いのごとくに連れていくという、まあ、そういう強制性はなかったということではないかと」
この答弁では、「官憲」と言って、巧妙に日本軍兵士を対象から外している。このような作為からも安倍首相の歴史認識のいかがわしさを窺うことができる。
業者が家に押し入って、人攫いのごとくに連れていった例はあったとしても、日本の官憲がそうしたことをした証言はなかったとしている。
但しその業者が単独で家に押し入って強制的に連行したのか、軍の指示で動いたのかでは話が違ってくる。
例えば福島の放射性物質除染作業で業者が2次下請けとか3次下請の親方のところへ単独で行き、下請に入れてくれるなら、作業員を集めるがどうかと相談し、オーケーを取ると、何人か作業員を集めて2次下請の下の3次下請に入ったり。3次下請の下の4次下請に入ったりする手口で作業員の頭をハネて利益を得るといったことをするが、この業者が暴力団をバックにしていたなら、そこにある種の強制性が働いて、例え人手が足りていても、その強制性を受けた否応もなしの承諾といった事態も生じる。
尤も最近は暴力団排除の社会的風潮から断る業者も多くなったが、時代が遡るに連れ、そのコワモテは半端でなく通用し、飲食店などは殆どがみかじめ料(用心棒代)として月々いくらと強制的に支払わされていた。
そして戦前の大日本帝国軍隊、大日本国帝国軍隊兵士は当時のヤクザに優るとも劣らない威嚇的存在であり、それ相応の強制性を備えていた。特に外地では恐れられた存在であったはずだ。何しろ中国では、生きている中国人捕虜を銃剣で突き刺す訓練をやらされたと証言している旧日本軍兵士まで存在する。
きっと、度胸試しだ何だといった口実で面白半分にそういった訓練をさせたのだろうが、相手を縛り上げた、あるいは両側の二人が左右の手をそれぞれ押さえつけた無抵抗な存在を自由に殺傷する行為は殺傷する側を意識の上で絶対的強者に高める。
「戦陣訓」は1941年1月8日に当時の東條英機陸軍大臣が示達した訓令だそうだが、そこに書いてある「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」自体が、俺達はそういう存在だとばかりに日本軍兵士の優越性を高める装置となっただろうし、その優越性と上官の命令は絶対服従の日本軍に於いて深く思想化していったはずで、当然捕虜は敗者として位置し、捕虜とした側は勝者としての位置に立たしめることになる。
敗者としての捕虜の生命(いのち)を勝者として敗者の宿命とばかりに死に至らしめるまで暴力的に面白いように、且つ自由に扱うのだから、その優越性が意識的には自分たちを絶対的強者に高めずにはおかなかったろう。
日本軍は特にその占領地に於いて恐れられ、そこに威嚇的存在として位置しているだけで絶大な強制性を担っていたことになる。
当然、従軍慰安婦を狩り立てる業者が日本軍の指示・命令によって動いていた場合、業者はその指示・命令に背くわけにいかず、指示・命令の遂行のみを負うこととなり、その遂行が何らかの障害を受けた場合、指示・命令の遂行以外に逃げ道はないのだから、日本軍が持つ威嚇的な強制性を利用するのが人情の自然な動きとなる。
中には日本軍の指示・命令で動いていない業者であったとしても、慰安婦をスムーズに狩り立てるために日本軍の指示・命令で動いているかのような口振りで動いた者もいたに違いない。
確実に言えることは、日本軍の指示・命令で動いていた場合の業者の強制性は日本軍の強制性を日本軍になり代わって業者が示威的に表現していたはずだということであり、そのように見るべきだろう。
いわば業者の強制性は軍の強制性を受けた、その反応だということである。相手によっては、例えば日本軍の攻撃で肉親が無残に殺されたりの経験を持つ場合、業者の強制性と軍の強制性がほぼイコールとなるケースもあったことは十分に考えることができる。
そこには問答無用の力学が働くことになる。
当然、文書で確認できる証拠はなかったからといって、強制連行はなかったとは言えない。例え日本軍兵士本人が「家に押し入って、人攫いのごとくに連れてい」くことはなかったとしても、日本軍の強制性を利用して業者がそれを自らの強制性として表現し、そこに問答無用の力学を働かせた場合、代理行為となって、間接的には日本軍の強制連行に当たるはずだ。
安倍晋三が「間に入って業者がですね」と言っているように、業者が日本軍の指示・命令で動いていた文書等は残っている。その一例を次の記事が取り上げている
《日本軍と業者一体徴集・慰安婦派遣・中国に公文書》(朝日新聞/1999年3月.30日)
日中交流の歴史を研究している神戸市の林伯耀氏(当時60歳)が中国人強制連行の資料収集を続ける中で、天津市の公的機関で発見、1944年から1945年にかけ、日本軍の完全支配下にあった天津特別市政府警察局で作成された約400枚の報告書が中心。
その中にある日本軍天津防衛司令部から天津特別市政府警察局保安科への通知書には、「河南へ軍人慰労のために『妓女』(遊女のこと)を150人を出す。期限は1カ月」、「借金などはすべて取消して、自由の身にする」、「速やかに事を進めて、二、三日以内に出発せよ」と、書いてあったという。
この二、三日以内に出発できるよう150人を集めろは日本軍の強制性を物語って余りある。
警察局保安科は売春業者団体の「天津特別市楽戸連合会」を招集し、勧誘させた。報告書には229人が「自発的に応募」と記されているが、性病検査後、12人が塀を乗り越えて逃亡、残ったうちの86人が「慰安婦」として選ばれ、10人の兵士と共にトラック4台が迎えにきて移送。移送中なのか、到着後慰安婦をとして勤めている間なのか、86人のうち、半数近い42人の逃亡が報告書には記されているという。
記事は報告書の記載として、徴集人数25人の他の派遣指示も取り上げている。
逃亡者が出たことは、「自発的」を装っているが、そこに日本軍の強制性が働いていたことの証拠となる。いわば日本軍の強制性が、断った場合の何らかの報復への恐れとして売春業者団体に作用し、それを受けた売春業者団体の強制性が「妓女」に及び、「自発的」という名の強制が働いたということなのだろう。
だが、多くが逃亡した。逃亡は従業と報酬を天秤にかけた損得で決まる。“借金棒引き・自由の身”は相当な報酬であったろう。だが、報酬を捨てて逃亡したということは、報酬のプラスよりも従業のマイナスが優ったことを意味する。“借金棒引き・自由の身”を問題としなかったということである。
一日中、朝から夜まで何十人もの将兵を相手にしなければならないと口コミか何かで洩れ聞いていたとしたら、従業を地獄と見て、売春業者を介した日本軍の怖さ、その威嚇性に一旦は従ったものの、地獄に見舞われることの恐怖が“借金棒引き・自由の身”の報酬に優って、逃亡以外に逃れる手段はないことになる。
その上、敗戦直後、機密文書や重要書類が米軍の手に渡ることを恐れて、陸軍省、海軍省共に野戦司令部や指揮官に向けて焼却の命令を出し、焼却しているのだから、文書で確認できなかったは事実を半分しか見ないことになる。
高村自民党副総裁が安倍晋三と同じように2月10日(2013年)夜の都内の講演で慰安婦の強制連行を否定している。《慰安婦、韓国に反論=自民副総裁》(時事ドットコム/2012/10/10-21:32)
高村正彦「韓国で日本の軍が直接的強制連行をした事実はない。韓国以外ではあったが、日本軍による軍法会議で裁かれた」
記事。〈自身が外相を務めていた1998年に日韓共同宣言をまとめた際、金大中大統領(当時)から「一度謝れば韓国は二度と従軍慰安婦のことは言わない」と説得され、「痛切な反省と心からのおわび」を明記したことを紹介。「国と国の関係で一度決着したものを蒸し返してはいけないし、蒸し返させてはいけない」と強調した。〉――
李明博韓国大統領が2012年8月10日竹島を訪問、天皇の訪韓は韓国独立を戦った死者に謝罪することが条件だとし、野田政権が竹島の領有権問題を国際司法裁判所に提訴する、しないの動きを見せていた頃である。
「韓国で日本の軍が直接的強制連行をした事実はない。韓国以外ではあったが、日本軍による軍法会議で裁かれた」と言っているが、インドネシアのオランダ人民間抑留所に日本軍兵士がトラックで乗り込んで、オランダ人女性を強制連行、慰安婦にした事実は抑留所視察の日本軍大佐に知れるところとなり、閉鎖されることとなった。
処罰に関してはオランダ軍によるバタビア(ジャカルタのこと。オランダ植民地時代の呼称)臨時軍法会議で終戦後の1948年、BC級戦犯として11人が有罪とされているが、〈日本軍は、当事者を軍法会議にかける事も処罰も行なわなかった。〉と「Wikipedia」には記載されている。
どこかの例を取り上げて「日本軍による軍法会議で裁かれた」としても、強制連行の事実は消えない。殺人の罪を刑務所で償ったとしても、殺人の事実は消えないのと同じである。
高村の発言は事実が消えるかのようなニュアンスとなっている。
さらに言うと、強制連行が「韓国以外ではあった」とする以上、韓国に於いても日本軍の慰安所が存在していた関係から、韓国では強制連行がなかったとすることはできない。
業者を介さずとも、日本軍兵士が直接強制連行を可能としていたはずだ。
直接強制連行を可能としていた例を挙げる。
既にいくつかのブログに記載されているが、戦争中旧日本海軍の主計官だった中曽根康弘元首相が『終りなき海軍』という本の中で次のように書いているという。
中曽根康弘「3000人からの大部隊だ。やがて、原住民の女を襲うものやバクチにふけるものも出てきた。そんなかれらのために、私は苦心して、慰安所をつくってやったこともある。」(同書第1刷98頁)
中曽根がインドネシアで慰安所設置に積極的に関わっていた資料が防衛省が公開している文書「海軍航空基地第2設営班資料」の中からも見つかっているという。
問題は慰安所建設に関わっていたことよりも、日本軍兵士が現地人女性を襲ったという事実である。数が多いから、慰安所の建設に至ったのだろう。一人や二人のために慰安所を建設するはずはない。
この多人数が現地人女性を襲い、強姦するという、別の意味での日本軍兵士の集団的な暴力的強制性が慰安所建設で、そこで働く慰安婦の数を満たすために直接強制連行する可能性は否定できない。
何しろ襲って強姦する直接的経験を積んでいるのである。兵士自身が自ら進んで強制的に頭数を調達しなかったとは言えないはずだ。
文書が存在しない事実だけを錦の御旗として従軍慰安婦強制連行を否定しているが、日本軍及び日本軍兵士が担っていた威嚇的な強制性から軍自らによる強制連行か、兵士自らによる強制連行か、あるいは日本軍の強制性を体現した業者を仲介とした強制連行かを読み取るだけの認識能力が示されてもいい時期に来ているはずだ。