9月2日(2012年)日テレ放送の「たかじんのそこまで言って委員会」で、〈「名場面」スペシャル!未公開映像も蔵出し…〉なるコーナーが設けてあって、2012年5月20日放送の安倍晋三登場の場面を再放送していた。
5月20日放送分も視聴していて、自身の国家主義思想に基づいて相変わらずトンチンカンな、的外れの天皇制論を披露しているなと思ったが、今回自民党総裁選に安倍晋三も立候補、もし当選して首相になった場合、天皇中心主義を内面的思想とした国家主義の教育論・歴史認識を再度刷り込む機会を与えることになりかねない危険性から、番組でのその発言をブログに取り上げ、その天皇中心主義が如何にトンチンカンで的外れであるかを解釈してみることにした。
安倍晋三「そもそも田島(陽子)さんもですね、編集長(加藤清隆時事通信社解説委員長のこと)も、いわば天皇という仕組み、天皇、皇室、当然、認めていないんだと思いますね」
田嶋陽子「そう」
安倍晋三「経緯もね。そうでしょ?そういう人がですね、どうあるべきかっていう議論をするのはあまり・・・・」
田嶋陽子「そんなことはない」
安倍晋三「(手を振って)いや、いや、いや。最後まで聞いてください。これは理性万能でもないし、合理でもないんですよ。・・・・(聞き取れない)でもないんですよ。
これは私達は軽薄だと思ってるんですよ、そういう考えっていうのは。
ですから、むしろ皇室の存在は日本の伝統と文化、そのものなんですよ。まあ、これは壮大な、ま、つづれ織、タペストリーだとするとですね、真ん中の糸は皇室だと思うんですね。
この糸が抜かれてしまったら、日本という国はバラバラになるのであって、天皇・皇后が何回も被災地に足を運ばれ、瓦礫の山に向かって腰を折られて、深く頭を下げられた。
あの姿をみて、多くの被災地の方々は癒された思いだと語っておられたでしょ。あれを総理大臣とかね、私たちがやったって、それは真似はできないんですよ。2000年以上経って、ひたすら国民の幸せと安寧を祈ってきた、皇室の圧倒的な伝統の力なんですよ」
三宅久之「あのね、田島さん、安倍さんのこれだけ条理を尽くした話を、まだ分からない。これを分からないというのは日本人ではない」
田嶋陽子「話はわかるけど、正しいかどうかですよ」(以上)
そう、田嶋陽子が言う通り、安倍晋三の言っていることが論理的に「正しいかどうか」が問題となる。
安倍晋三は舌っ足らずなところがあって、全体的に発言が聞き取りにくいが、これは生まれつきの器質の問題だろうから仕方がないとしても、頭まで舌っ足らずでは首相の資格はあるまい。
【舌っ足らず】「舌がよく回らず、発音がはっきりしないこと。言葉・表現などが不十分なこと。」(『大辞林』三省堂)
天皇制は「理性万能でもないし、合理でもないんですよ」と言って、理性や合理主義からの価値づけを拒んでいるが、理性や合理主義で価値づけたわけではないその存在を国家の統治体制に組み込み、日本国憲法の第1章に置いていることを逆に証明している。
特に戦前は理性や合理主義で価値づけたわけではないその存在を国家統治の差配者としてタテマエ上、国家の頂点に立たしめていた。
ではどのような価値づけかと言うと、「皇室の存在は日本の伝統と文化、そのもの」だと価値づけている。
この「日本の伝統と文化」は、「壮大な、ま、つづれ織、タペストリーだとするとですね、真ん中の糸は皇室だと思うんですね」と言っている以上、茶道や華道といった社会的に部分的な伝統と文化ではなく、歴史全体を通して日本国家そのものを覆う伝統と文化――国家性そのものであり、当然、皇室をその中心に常に位置させることになる。
だがである。皇室という「糸が抜かれてしまったら、日本という国はバラバラになる」としたら、国民は皇室から自立できていない後進的存在ということになる。
それ程にも情けない存在なのだろうか。
2007年5月16日の安倍首相と小沢民主党代表の党首討論でも、安倍はオハコの天皇制論を展開している。
幾つかの朝日記事から。
小沢代表「首相は『日本の国柄をあらわす根幹が天皇制』だという。首相の描く『美しい国』の根幹には天皇制がある。それが敗戦によって、占領軍によって憲法や教育制度が改変され、『美しくない国』になった。だから自分たちの手で作り直さなければならないということなのか。
国や社会の仕組みの基準をすべて天皇制に求めるという考えを私は持っていない」
安倍首相「すべて天皇中心に考えているわけではない。
日本人が織りなしてきた長い歴史、伝統、文化をタペストリーだとすると、その縦糸は天皇だ」――
戦後民主化された現代日本に於いて小沢氏の遥かに合理性を備えた発言に対して安倍晋三は天皇の存在なくして日本の歴史・伝統・文化はなく、そのような国家性を現在も引き継いで、日本国家は存在しているとしている。
このような天皇中心によって紡ぎ織られた日本の歴史・伝統・文化の国家性を背景としているからこそ、「天皇・皇后が何回も被災地に足を運ばれ、瓦礫の山に向かって腰を折られて、深く頭を下げ」たことが、被災者の多くの心を癒すことができたとしている。
そして続けて、「あれを総理大臣とかね、私たちがやったって、それは真似はできないんですよ」と言って、天皇・皇后の存在の偉大さを訴えている。
だが、この主張に合理的な正当性をカケラでも見い出すことができるだろうか。
総理大臣と天皇・皇后の役目の決定的な違いを無視した合理性を欠いた、愚かしい発言に過ぎない。天皇・皇后がいくら「瓦礫の山に向かって腰を折られて、深く頭を下げ」たとしても、瓦礫の山が片付くわけではない。
被災者の多くが心を癒すことができたとしても、精神的な足しにはなっても、腹の足し(物質的な足し)になるわけではない。
これは総理以下の政治家の役目である。
それを同次元に扱う、自らの合理性の欠如に愚かにも気づかない。
だとしても、天皇・皇后の被災地訪問が多くの被災者の心を癒した事実は事実として存在し、否定できない。それが「皇室の圧倒的な伝統の力」だとしても、歴史全体を通して日本国家そのものを覆い、国家性そのものとなっている皇室の伝統と文化だと果たして言えるのだろうか。
その答は8月20日当ブログ記事――《12年日本敗戦日放送NHKSP「終戦 なぜもっと早く決められなかったのか」に見る指導者達の責任不作為 - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》に書いた。
〈天皇は大日本帝国憲法第1章天皇第1条で、「大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」、第3条で「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラズ」、第11条で「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」と、絶対権力者に位置づけられていたのである。
(中略)
当然天皇は自らのリーダーシップで臣下の意思を自らの意志するところへと纏めていく権力を示してこそ、絶対権力者の名に違わない態度となるが、逆に臣下に対してお伺いを立てる姿勢を示し、最終的には臣下の態度に従っている。
要するに後者の姿勢こそ、天皇の現実の権力を示しているずだ。大日本帝国憲法に規定された天皇の絶対者としての有効性が実際の政治権力者たちに効力を持たないとなれば、その有効性は実際の政治権力者たち以外の一般国民が対象となり、一般国民をして天皇の名に於いて国民統治を容易とする装置に過ぎないことになる。
要するに絶対者としての姿は一般国民にのみの通用となる。〉――
このことの確たる歴史的証拠を『小倉庫次侍従日記・昭和天皇戦時下の肉声』(文藝春秋・07年4月特別号)から挙げてみる。
〈昭和17年6月9日の日記の一節。〈御製(ぎょせい「天皇・皇族の作った詩文や和歌』〉天皇御下げになり。北方海戦に航母4隻撃破せられたる御趣旨の、有難き御製を遊ばされたるも、極秘事項に属するを以て、御歌所へも勿論下げず、御手許に御とめ置き戴くこととせり。〉――
〈半藤一利氏(昭和史研究家・作家)注〉「ミッドウェイ海戦の戦果は初め天皇にも敵空母4隻撃破と報告されたことが窺える記述。天皇はそれを受けていったんは御製(和歌)を作ったようである。実際には1隻撃沈しただけ。このときの御製が書かれていないのが残念である」――
大本営発表の情報操作は天皇にも及んでいた。ここには騙される存在としての天皇の姿はあっても、絶対権力者の姿はない。
いわば軍部や政治権力者たちが絶対権力者としての天皇を創り出して、その権力を一方では国民統治の絶対的装置としていたものの、天皇自身に対しては彼らにコントロールされる存在としての権力の二重性を担わせていた。
戦後の象徴天皇に於いても基本的な構造は変わらない。日本国憲法で天皇は「国政に関する権能を有しない」と規定していながら、外国に対する戦争犯罪の謝罪や友好関係の演出に内閣や宮内庁が中心となって「天皇のお言葉」を作成、それを天皇の口からアナウンスさせる天皇の政治利用を行い、国民統合の象徴という存在と政治利用に供する存在と、権力の二重性を持たせている。
前者の国民統治の装置が象徴と姿を変えた天皇に今なお機能させていて、それが被災地で地震・津波の犠牲となった死者を悼み弔う姿を見て、心癒される思いに駆られることになる。
だが、安倍晋三には天皇のこの権力の二重性という認識は一切ない。天皇主義者としたら認め難い認識であるからなのだろうが、但し自著『美しい国へ』で、「天皇は歴史上ずうっと『象徴』だった」と位置づけている。「天皇は『象徴天皇』になる前から日本国の象徴だった」と。
尤も例の如く「理性万能でもないし、合理でもないんですよ」の合理的精神を一切欠いた主張となっているのはごく当たり前のことと見做さなければならない。
容量の関係でダウンロードしたままになっている、2000年1月3日の自作HP――《「市民ひとりひとり」第7弾! 日本人はなぜ天皇を必要とするのか》で、天皇の権力の二重性を次のように書いた。
〈天皇とは何者か?
日本の歴史を『日本史広辞典』(山川出版社)を参考にひも解いてみよう。大和 朝廷で重きをなしていた最初の豪族は軍事・警察・刑罰を司る物部氏であった。
それを滅ぼして取って代わったのが蘇我氏である。蘇我稲目は欽明天皇に二人のムスメを后として入れ、後に天皇となる用明・推古・崇峻の子を設けている。
稲目の子である崇仏派の馬子は対立していた廃仏派の穴穂部皇子と物部守屋を攻め滅ぼし、自分の甥に当たる崇峻天皇を東漢駒(やまとのあやのこま)に殺させて、推古天皇を擁立し、厩戸皇子(聖徳太子)を皇太子にしている。このような皇室に対する恣意的な人事権は実質的な権力者が天皇ではなかったことの証明であろう。
親子である「蘇我蝦夷と蘇我入鹿は甘檮岡(あまかしのおか)に家を並べて建て、蝦夷の家を上の宮門(みかど)、入鹿の家を谷の宮門と称し、子を王子(みこ)と呼ばせた」と『日本史広辞典』に書かれているが、自らを天皇に擬すほどに権勢を誇れたのは、その権勢が天皇以上であったからこそであろう。
聖徳太子妃も馬子のムスメで、山背大兄王(やましろのおおえのお)を設けている。だが、聖徳太子没後約20年の643年に蘇我入鹿の軍は斑鳩宮(いかるがのみや)を襲い、一族の血を受け継いでいる山背大兄王を妻子と共に自害に追い込んでいる。
蘇我入鹿は大化の改新で後に天智天皇となる中大兄(なかのおおえ)皇子に誅刹されているが、後の藤原氏台頭の基礎を作った中臣鎌足(なかとみのかまたり)の助勢が可能とした権力奪回であるから、皇子への忠誠心から出た行為ではなく、いつかは天皇家に代って権力を握る深慮遠謀のもと、いわば蘇我氏に続く実質権力者を目指して加担したことは十分に考えられる。
その根拠は鎌足の次男である藤原不比等(ふじわらのふひと)がムスメの一人を天武天皇の夫人とし、後の聖武天皇を設けさせ、もう一人のムスメを明らかに近親結婚となるにも関わらず、外孫である聖武天皇の皇后とし、後の孝謙天皇を設けさせるという、前任権力者の権力掌握の方法の踏襲を指摘するだけで十分であろう。
藤原氏全盛期の道長(平安中期・966~1027)はムスメの一人を一条天皇の中宮(平安中期以降、皇后より後から入内〈じゅだい〉した、天皇の后。身分は皇后と同じ)とし、後一条天皇と後朱雀天皇となる二人の子を産んでいる。別の二人を三条天皇と外孫である後一条天皇の中宮として、「一家三皇后」という偉業(?)を成し遂げ、「この世をば我が世とぞ思ふ」と謳わせる程にも、その権勢を確かなものにしている。
藤原氏の次に歴史の舞台に登場した平清盛は実質的に権力を握ると、同じ手を使って朝廷の自己権力化を謀る。ムスメを高倉天皇に入内(じゅだい)させ、一門で官職を独占する。今で言う、ついこの間失脚したスハルトの同族主義・縁故主義みたいなものである。その権力は79年に後白河天皇を幽閉し、その院政を停止させた程にも天皇家をないがしろにできるほどのものであった。
本格的な武家政権の時代となると、もはや多くの説明はいるまい。それまでの天皇家の血に各時代の豪族の血を限りなく注いで、血族の立場から天皇家を支配する方法は廃れ、距離を置いた支配が主流となる。信長も秀吉も家康も京都所司代を通じて朝廷を監視し、まったくもって権力の埒外に置く。いわば天皇家は名ばかりの存在と化す。
そのように抑圧された天皇家が再び歴史の表舞台に登場するのは、薩長・一部公家といった徳川幕府打倒勢力の政権獲得の大義名分に担ぎ出されたことによってである。明治維新2年前に死去した幕末期の孝明天皇(1832~1866)に関して、「当時公武合体思想を抱いていた孝明天皇を生かしておいたのでは倒幕が実現しないというので、これを毒殺したのは岩倉具視だという説もあるが、これには疑問の余地もあるとしても、数え年十六歳の明治天皇をロボットにして新政権を樹立しようとしたことは争えない」と『大宅壮一全集第二十三巻』(蒼洋社)に書いてある。
天皇家と姻戚関係を結んで権力を確実なものとしていったかつての政治権力者は確実化の過程で不都合な天皇や皇太子を殺したり、幽閉したり、あるいは天皇の座から追い出したりして都合のよい天皇のみを頭に戴いて権力を握るという方法を採用している。そのような歴史を学習していたなら、再び天皇を頭に戴いて権力を握る方法を先祖返りさせた倒幕派が天皇と言えども都合の悪い存在を排除するために「毒殺」という手段を選んだとしても、不思議はない。
明治以降実質的に権力を握ったのは薩長・一部公家の連合勢力であり、明治天皇は大宅壮一が指摘したように彼らの「ロボット」に過ぎなかった。天皇を現人神という絶対的存在に祭り上げることで、自分たちの政治意志・権力意志をさも天皇の意志であるかのように国民に無条件・無批判に同調・服従させる支配構造を作り上げたのである。これは昭和天皇の代になっても引き継がれた。実質的な権力を握ったのは明治政府の流れを汲む軍部で、彼らの意志が天皇の意志を左右したのである。軍服を着せられた天皇の意志によって戦争は開始され、天皇の意志によって国民は戦場に動員され、天皇の意志によって無条件降伏を受入れさせられるという形を取った。
いつだったか、かなり前になるが、元首相のなかそね・やすひろくんは「天皇はいつの時代も象徴天皇だった」と言っているが、天皇主義者のなかそね・やすひろくんである。「象徴」とは聞こえもいい身贔屓な表現で、「象徴」を厳しい言い方で表現するなら、傀儡(かいらい)・操り人形・ロボットと言い換えることができる。そのことは孫に当たる天皇にさらに自分のムスメを嫁がせるという、限りなく天皇の血を薄める、いわばひ孫の天皇は天皇家の血を1/4しか受け継がず、権力者のムスメの血を3/4も受け継ぐ家父長制度下の自己血族化の作業が自ずと証明している。〉云々。(後略)
安倍晋三は同じ書で、「世界を見渡せば、時代の変化とともに、その存在意義を失っていく王室が多いなか、一つの家系が千年以上の長きに亘って続いてきたのは、奇跡的としか言いようがない」と書き、続けて前出の、「天皇は『象徴天皇』になる前から日本国の象徴だった」の合理性も何もない結論に至っている。
要するに権力の二重性を“象徴”という言葉に置き換えたに過ぎない。政治権力は時代時代の実質的権力者が天皇の名の下握り、天皇は実質的権力を何ら握らない権力の象徴として存在してきたのだという意味で、“象徴”という位置づけを行ったはずだ。
時代時代の権力者が権力志向から自分の娘を天皇に嫁がせて生んだ子どもを次の天皇に即位させ、血族として天皇が担っているとする権力を実質的に発揮する二重権力構造を歴史的に演じさせてきた天皇の「家系が千年以上の長きに亘って続いてきた」としても、単に権力掌握に利用されたというだけのことで、どれ程に意味があるだろうか。
「奇跡的」どころか、時々の権力者にとっては天皇家の血が連綿と続くことが権力掌握の利用価値として必要だったに過ぎない。自身が権力を握り、国民統治を容易とするための二重構造の存在として。
要するに頭が悪いから、自身では気づいていないだろうが、安倍晋三は日本の天皇制を説明するために、情緒的解釈か神秘的解釈でしか説明不可能であるゆえに、「理性万能でもないし、合理でもないんですよ」と、理性や合理性からの解釈を排除したのである。
この程度の判断能力しかない。この程度の歴史認識しかないのである。
安倍晋三自身がいくら否定しようとも、小沢一郎氏が「国や社会の仕組みの基準をすべて天皇制に求めるという考えを私は持っていない」と危惧しているように、合理性を欠いた認識で天皇、あるいは皇室を日本の伝統・文化の中心に据えた国の仕組み・社会の仕組みを志向した場合、合理性を欠いているが故に、その一点で民主主義や国民個々の基本的人権を危険に曝す恐れは決して否定できまい。
当然、再度日本の首相にすることは危険極まりないということになる。
現在以上に頭を良くしてから、期待不可能だが、出直すべきだろう。