12年日本敗戦日放送NHKSP「終戦 なぜもっと早く決められなかったのか」に見る指導者達の責任不作為

2012-08-20 10:02:36 | Weblog

 8月15日(2012年)日本敗戦の日にNHK総合テレビ放送NHKスペシャル「終戦 なぜもっと早く決められなかったのか」を録画しながら見て、あまりにも無責任な人間たちが起こした無責任な戦争に思え、文字化し、8月17日《(1)2012年日本敗戦日放送NHKSP「終戦 なぜもっと早く決められなかったのか」全編文字化 - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》として、8月18日、《(2)2012年日本敗戦日放送NHKSP「終戦 なぜもっと早く決められなかったのか」後半文字化 - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》としてブログに載せた。

 今回は残されている文書記録や音声記録(=録音)に基いて再構成した、日本の権力構造に指導者として位置していた各登場人物の発言を取り上げて、自分なりの批評を加えてみたいと思う。

 HP――《ハナモゲラボ / 試行錯誤のPC人生》(8月18日)にNHK番組が伝えていた武官極秘電報について次のような記述がある。
 
 〈NHKの番組では、武官が掴んだこのヤルタ会談の情報を「今回(初めて)見つかった」と言ってましたが、これは恐らくストックホルムの武官だった小野寺信少将が送った電報の事で1996年の小説「ストックホルムの密使」でも描かれていた事だと思います。

 それ以前にも、様々な人の回想録でもこの武官電報について触れられているんですがどうしてNHKは「今回初めて見つかった」かのように冒頭で言ったのでしょうか。〉――

 だが、軍を含めた日本の権力上層部がこの電文情報に基づいてソ連参戦を前提とした戦争処理の言動に立っていないことのナゾは残る。

 記事題名を「指導者の責任不作為」とした。既に意味はご存知だろうがと思うが、念の為にその意味を書いておくことにする。

 【不作為】「自ら進んで積極的な行為をしないこと」(『大辞林』三省堂)

 当然、「責任不作為」とは役目上、自らが引き受けて行わなければならない職務に関わる責任を積極的に果たさない行為を言うことになる。

 総理大臣とか陸軍大臣、海軍大臣といったそれぞれの役割を負った指導者たちのそれぞれの役割を果たさない責任不作為はあまりにも倒錯的に過ぎ、何のためにそれぞれの役割に従事していたのか意味を失う。

 番組全体の構成は、ヨーロッパ駐在の海軍武官から昭和20年5月24日を始めとして、「ヤルタ会談でソ連は対日参戦を約束した」等々伝える極秘電報が日本に逐次発信されていながら、その情報に基づいた終戦処理を行わず、徒に戦争を長引かせた上に電報通りのソ連参戦まで招いて多くの犠牲者を出した日本の指導者たちの“責任不作為”をクローズアップするという形を取っている。

 上記以外の電報を列挙してみる。

 「7月以降、ソ連が侵攻する可能性は極めて高い」
 
 「7月末までに日本の降伏がなければ、密約通りソ連は参戦する」

 「私達は重大な岐路に差し掛かっている。この機を逃せば、悪しき日として歴史に残るだろう。

 確固たる決意を持って、戦争を終結に導き、和平への交渉に乗り出して欲しいと、切に願う」

 次いで日本の終戦処理案としての、本土決戦で米軍に一撃を与えて有利な状況をつくってから終戦工作に出るという、その具体性について考えてみる。

 戦争末期の1945年1月20日大本営制定の『帝國陸海軍作戦計画大網』によって本土決戦を策定、その準備を進めていくが、1942年6月5日~6月7日のミッドウェー海戦で日本側が大敗したことによって太平洋上の制海権を失い、1944年末には日本本土周辺の制海権・制空権共に失っている状況にあった。

 失った結果、日本各地は米軍の恣(ほしいまま)の空襲に曝されることになった。

 いわば日本本土周辺の制海権・制空権共に喪失した状況下の1945年1月20日に大本営は『帝國陸海軍作戦計画大網』を策定、米軍本土上陸を想定した本土決戦を最後の日本戦争勝利の手段と目した。

 少なくとも1944年(昭和19年)11月14日から開始されて106回も繰返され、10万人以上の死者を出した1945年3月10日の日本の首都・日本の中心に対する東京大空襲は日本自体が制空権を全く失った、軍事的にほぼ裸にされた状況を示していて、その時点で本土決戦は撤回されるべきだったが、終戦間際まであくまでも最後の勝利の手段として固持していたということは、元々本土決戦策が具体的根拠もなく、そうだから具体的工程に基づいて成功への道筋を描いた全体像があったわけでもなく、成算も勝算もない、単に強がって拳を振り上げた虚勢に過ぎなかったことを示しているはずだ。

 要するに確固たる勝利の戦略を全面的に失った中で縋りついた、見せかけは勇ましい、軍の体面を保つシナリオといったところだろう。本土決戦となれば、米側は被害を最小限に抑えるために陸上戦闘よりも空爆を多用するはずである。抗戦が手一杯で、反撃までいく可能性があっただろうか。

 こういった展開を予想した場合、当然、米軍側よりも日本側が民間人を含めてより被害が大きい消耗戦となるのは分かっていたはずだ。

 このことは沖縄戦に於ける日本側の人的被害が軍人と民間人合わせて18万人に対して米軍としては太平洋戦争全体で最大の犠牲であったということだが、1万2500人程だという記録があることを見ても理解できる。

 そもそもの日米開戦の出発点にしても、日本の国力の幾層倍もの大国アメリカを相手に戦争を仕掛けたこと自体が確固たる勝利の全体像を描いた上の行動ではなく、単に日本民族優越性の力を背景として拳を振り上げた強がりに過ぎなかったはずだ。

 当時の日米の国力の大きな差は多くが認識しているはずだが、HP――《欧州情勢と日米戦争経営状況》に次のような記述がある。
 
 〈1934年(注・1941年の間違い?)の開戦時の日米双方の国力は、生産力で見ると世界を100として見た場合、日本=7、米国=40程度になります(戦時で無理な生産をしているので、絶対比率が各国より増大しているので数字も大きくなります)。また、国力全体を含めた戦争遂行能力(経済力、工業力、資源、人口などの総合評価したもの)は、日本=6、米国=32程度になります。〉云々。――

 しかも日本は石油の6割以上をアメリカからの輸入に頼っていながら、1941年(昭和16年)8月にアメリカから石油の対日全面禁輸を受け、国内石油備蓄量が民事・軍事を合わせて2年分しかなかった状況下で真珠湾攻撃の日米開戦を決した。

 勝算も成算もなく大日本帝国陸海軍は対米戦争の拳を振り上げた手前、例え劣勢に立たされても、何で拳を振り上げたのだという批判を恐れる自己保身から降ろすに降ろせず、大本営は虚偽の戦果を発表してまでして拳の維持(=体面保持)まで謀ったが、一度そういった態度を取るとなおさら拳を降ろすことができなくなって、それが本土決戦、アメリカに一撃を加えてからという希望的観測に過ぎない改めての拳の振り上げを持ち出し、具体的根拠がないと分かっていても最後まで降ろすことができなかったのではないのか。

 もしこの見方が当たっているとすると、ヨーロッパ各地の駐在武官から日本に打電された「ソ連参戦間近」の極秘電報が最後まで表に出てこなかったのは自己保身と体面から降ろすに降ろせない、具体性も実現性もない米に一撃の本土決戦の拳を、それ以前のソ連参戦によって具体性も実現性もないことまで含めてウヤムヤにしてくれる機会と目論んだ疑いも出てくる。

 但しソ連参戦前に、これこそ予期もしていなかっただろう、広島(1945年8月6日)と長崎(1945年8月9日)に原爆を投下され、次は首都東京の可能性を疑ったはずで、長崎投下の前日の1945年8月8日、ソ連は対日宣戦布告を行い、8月9日午前零時を以って攻撃を開始、実際にも本土決戦の米一撃を、その非具体性・非実現性と共にどこかに吹き飛ばしてしまった。

 日本軍を実現可能性もない本土決戦・米一撃の拳から解放した瞬間でもある。

 あるいは実効性の証明がパスできた。

 このことは陸軍にとって幸いなことだったはずだ。

 米に一撃の本土決戦の拳が具体性も実現性も実効性も備えていたなら、何も本土決戦まで待たずとも硫黄島の戦いや沖縄戦で振り降ろしてもよかったはずである。

 あとで触れるが、本土決戦に備えるために沖縄に送る予定の部隊を送らず、ただでさえ手薄の戦力を削ったことになり、振り上げ、振り降ろすべき沖縄戦の拳を効果あらしめることはなかった。

 1945年2~3月の硫黄島の戦闘に於ける日本側死者は2万人弱、対してアメリカ側は7千人弱。少なくとも硫黄島の戦い、沖縄戦を、例え日本側の敗北に終わったとしても、互角に近い形で戦ってこそ、米に一撃の本土決戦は生きてくる。具体性も実現性も持ち得るはずだが、その逆であり、逆の反映としてある本土決戦の虚妄の拳でしかない具体性・実現性と見なければならないはずだ。

 本土決戦を考案した軍人が戦後肉声証言している。

 参謀本部作戦部長宮崎周一(録音音声)「ここ(本土)へ上がってきたときに。ここで一叩き叩けばね、えー、終戦というものを、ものに持っていく、その、動機が掴める。

 それがあのー、私が、その、本土決戦というものを、あれ(計画)を一つの、動機になるんだが」

 「Wikipedia」に宮崎周一に関して次のような記述がある。

 〈1944年10月、陸軍中将に進み、同年12月14日、帝国陸軍最後の参謀本部第1部長に就任する。第1部長に就任した宮崎部長はすぐさま戦線視察に発ち、マニラでは捷一号作戦失敗を確認し本土決戦準備に入る事を決意する。宮崎部長主導のもと本土決戦に必要な兵力を参謀本部が見積もったところ、50個師団という驚くべき数になり陸軍省軍務局との間で論争が起こったが、最終的には3回の大動員で師団44個、旅団16個、戦車旅団6個等合わせて150万人の動員を実行することになった。この宮崎部長の本土決戦主義は沖縄作戦にも影響し、第9師団の抽出後代わりに沖縄へ充当される予定であった姫路第84師団の派遣を、船舶輸送の不安定を理由に独断で中止してしまい、戦後、「沖縄の現地軍を見捨てた」と批判されることになる。

 戦後は1945年(昭和20年)9月2日、東京湾に停泊するアメリカ戦艦ミズーリ号の艦上で行われた降伏文書調印式に日本側全権代表団として参加。同年11月、史実部長に就任し、翌月、予備役に編入。1945年12月から1946年(昭和21年)12月まで第一復員省史実部長を務めた。〉――

 既に兵員不足を来していたことを考えると、何個師団を動員しようとも、単なら数合わせで終わる確率が高く、兵力の質という点で具体性も実現性も期待不可能だったはずだ。

 未成年者も含めた赤紙一枚の俄仕立ての素人兵を訓練期間もそこそこに切り上げて部隊に投入する程度である上に制空権・制海権まで失い、戦闘機の燃料まで枯渇状況で、松の根っこから油を搾った非生産的な松根油を代替燃料としていたお粗末な状況を見ると、計画だけ勇ましい拳にしか目見えない。

 このことは1945年1月20日大本営『帝國陸海軍作戦計画大網』による本土決戦策定約2カ月10日後の沖縄戦(1945年4月1日~6月23日)で兵員不足から未成年者を既に軍用に駆り立てていたことが証明する。

 〈沖縄本島地区における最終的な日本側の陸上兵力は、116,400人である。内訳は、陸軍が86,400人と海軍が1万人弱のほか、「防衛隊」と俗称される現地編成の補助兵力が2万人強である。陸海軍の戦闘員には、兵力不足から現地で召集された予備役などが多く含まれる。旧制中学校の生徒から成る鉄血勤皇隊や、女子生徒を衛生要員としたひめゆり学徒隊・白梅学徒隊なども組織された。〉(Wikipedia

 〈鉄血勤皇隊

 太平洋戦争(大東亜戦争)末期の沖縄戦に動員された日本軍史上初の14ー17歳の学徒隊。徴兵年齢に達していない少年を動員した。法的根拠がなかったため、形式上は「志願」とされ親権者の承認が無ければ動員が出来ないことになっていた。しかし学校が同意もなく印鑑をつくり書類を作成したこともあり、事実上強制であったような例もある。

 参加しなかった生徒の中には県立第二中学のように「配属将校が食糧がないことを理由」に生徒たちを家に帰したり、県立農林学校では「引率教師が銃殺される覚悟で生徒を家に帰した」という例もあった。〉(同Wikipedia

 不足は兵力だけではなく、武器も不足していた。米軍の空爆主体となるだろう戦いにどう抗戦するというのだろうか。

 当然、宮崎周一が言う「一叩き叩けばね」は根拠も何もない希望的観測に過ぎないことになる。強がりの拳でしかなかったということである。

 第2総軍参謀橋下正勝(録音音声)「もう国力も底を突いておるし、これが最後の戦いになると。

 それで一撃さえ加えれば、政治的に話し合いの場ができるかも分からん。できなければ、我々は、もう、ここで、えー、討ち死にするなり。

 南方の島と違う点は、島はそこで玉砕すれば終わりですがね、これはまだ本土続きですから、いくらでも援兵を送れると」

 「いくらでも援兵を送れる」からと、陸地続きの地理的優位性を言っているが、アメリカにしたって制海権・制空権を握っていて、艦船・輸送機で兵を補充すれば、地続き同然の地理的優位性を確保していることと変わらない。

 大体が国力が底を突いていて、どう満足な戦闘能力を持った援兵を送ることができるのか合理的に考える頭はなかったらしい。赤紙一枚でいくらでも兵隊を駆り集めることはできるが、アメリカ兵が所持している武器以上に性能の良い武器を与えることができるかも問題となる。

 次の男になると、頭を疑いたくなる。合理的判断能力なるものは一切持っていないらしい。

 松本俊一外務次官(録音音声)「この人(軍人)たちが世界の大勢、分かりますか。当時の外務省以上に分かるわけないですよ。それは外務省は敵方の情報も全部知ってるわけですからねー、裏も表も。

 それは知らないのは陸海軍ですよ。陸海軍でいくら明達の人だってね、外務省だけの情報、持っていません。外務省がなぜかならですね、そのー、敵方の放送も聞いてるんです。分析しているでしょう。

 日本の今の戦争の何がどうなっているか、みんな知ってますよね、外務省は」

 無残な敗戦を迎えてのこの発言である。「外務省は敵方の情報も全部知ってるわけですからねー、裏も表も」の状況にありながら、その情報を活かすことができなかった。何のために「裏も表」も知っていたのか意味を失う。

 また、「裏も表」も知っていたにも関わらず、原爆投下の事実やアメリカやイギリスに日本の暗号電文が解読されていた「裏」については知らなかった。

 戦争に負けてもなお軍人よりも自分たち役人を上に置く権威主義を以って自らの優越性の証明とする心理には敗戦に対して何ら責任を感じていない意識があることによって可能となるはずである。

 責任を感じ、反省する気持があったなら、軍人よりも上だ下だと言っている暇はない。責任の大小はあるだろうが、戦争を引き起こす政治権力の一翼を担っていた以上、例え小さな責任であっても、起こした戦争の愚かさ、その犠牲の大きさから見たなら、決して小さな責任で済ますことはできないはずだからだ。

 次に先に上げた、本土決戦の『帝國陸海軍作戦計画大網』を大本営の立場で策定した参謀本部作戦部長宮崎周一の戦後の肉声証言を見てみる。

 参謀本部作戦部長宮崎周一(録音音声)「物的、客観的情勢に於いて、大体に於いてできると。あるいは相当な困難、あるいは極めて困難。

 まあ、この三つくらいに分けて、これは俺も考えた。(本土決戦は)極めて困難。はっきりいう。聞けば聞く程困難。極めて。

 それじゃあ断念するかというと、それは断念できない、俺には。作戦部長の立場に於いて、そんなこと言うなんてことは、とても言えない。(一段と声を大きくして)思っても言えない」

 本土決戦には50個師団が必要だ、何だと、当時の日本の戦争遂行能力からしたら計画倒れな拳を振り上げたそもそもの張本人である。

 「(本土決戦は)極めて困難。はっきり言う。聞けば聞く程困難。極めて」と、本土決戦が実現可能性困難であるなら、その情報を軍上層部に具体的根拠を添えて伝え、説得するのが作戦部長としての責任のはずだが、「それじゃあ断念するかというと、それは断念できない、俺には。作戦部長の立場に於いて、そんな事言うなんてことは、とても言えない。(一段と声を大きくして)思っても言えない」と、職務上の責任不作為を得意げに誇っている。

 この倒錯性は異常ですらある。悪夢と言っていい。

 この責任不作為によって兵士と国民にどれだけ余分な犠牲を強いたのか、何ら反省する意識すら持っていなからこそ可能としている倒錯性であろう。普通の人間の感覚を備えてすらいない。

 この程度の頭の軍人を大日本帝国軍隊の上層部に抱えていた。悲劇そのものである。

 中国の前線視察から帰国した陸軍参謀総長の梅津美治郎が天皇に視察の上奏を行う。

 陸軍参謀総長梅津美治郎(構成シーン)「支那派遣軍はようやく一大会戦に耐える兵と装備を残すのみです。以後の戦闘は不可能とご承知願います」

 天皇は大きな衝撃を受け、内大臣木戸幸一に漏らす。

 内大臣木戸幸一(録音音声)「要するに往年の素晴らしい関東軍もなきゃ、支那総軍もないわけなんだと。

 碌なものはないという状況。艦隊はなくなっちゃってるだろう。それで戦(いくさ)を続けよというのは無理だよね。

 要するに意地でやってるようなもんだから、(天皇も)大変なんだよとおっしゃっていたよ」

 天皇はこのとき、戦争早期終結を決意したのだろう。

 梅津上奏から間もない6月22日、天皇自らによる会議の開催は極めて異例の事態だと番組が伝えている国家トップ6人の招集を天皇は指示した。

 6人とは内閣総理大臣鈴木貫太郎、外務大臣東郷茂徳、陸軍大臣阿南惟幾、海軍大臣米内光政、陸軍参謀総長梅津美治郎、海軍軍令部総長及川古志郎の面々である。会話は再構成による。

 天皇「戦争を継続すべきなのは尤もだが、時局の収拾も考慮すべきではないか。皆の意見を聞かせて欲しい」

 海軍大臣米内光政「速やかにソ連への仲介依頼交渉を進めることを考えております」

 東郷外務大臣がこれに同意を示した。

 天皇「参謀総長はどのように考えるか」

 陸軍参謀総長梅津美治郎「内外に影響が大きいので、対ソ交渉は慎重に行った方がよいと思います」

 天皇「慎重にし過ぎた結果、機会を失する恐れがあるのではないのか。

 よもや一撃の後でと言うのではあるまいね」

 陸軍参謀総長梅津美治郎「必ずしも一撃の後とは限りません」
 
 陸軍参謀総長梅津美治郎は本土決戦前の和平の可能性に言及した。だが、陸軍トップは陸軍大臣阿南惟幾であるはずで、阿南の意向を確認しなければならないはずだが、果たして確認したのだろうか。

 このことを無視するとしても、天皇は大日本帝国憲法第1章天皇第1条で、「大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」、第3条で「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラズ」、第11条で「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」と、絶対権力者に位置づけられていたのである。

 政治の実務を担う首相以下、陸軍大臣も海軍大臣も天皇の臣下である。帝国憲法の第4章 國務大臣及樞密顧問の第55条で「國務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ(天皇の行為に進言し、その責任を負うこと)其ノ責ニ任ズ」と書いてあろうが、絶対者天皇の臣下に過ぎない。

 当然天皇は自らのリーダーシップで臣下の意思を自らの意志するところへと纏めていく権力を示してこそ、絶対権力者の名に違わない態度となるが、逆に臣下に対してお伺いを立てる姿勢を示し、最終的には臣下の態度に従っている。

 要するに後者の姿勢こそ、天皇の現実の権力を示しているずだ。大日本帝国憲法に規定された天皇の絶対者としての有効性が実際の政治権力者たちに効力を持たないとなれば、その有効性は実際の政治権力者たち以外の一般国民が対象となり、一般国民をして天皇の名に於いて国民統治を容易とする装置に過ぎないことになる。

 要するに絶対者としての姿は一般国民にのみの通用となる。

 天皇のこの二重性(=二重権力構造)は歴史的に見ても伝統としているもので、その反映としてある当時の二重性(=二重権力構造)であろう。

 そしてこの二重性は現在でも、政治権力を持たない国民統合の象徴という形で続いている。

 この二重性によって、天皇は早期戦争終結を望みながら、政治指導者たちをその方向に向けてリードすることができず、結果として対ソ交渉にしても如何なる和平交渉も実現を果たすことができなかった。

 ここに大日本帝国憲法の天皇の絶対性から見た場合の天皇の責任不作為が存在する。

 但し権力の二重性から見た場合、責任不作為の謗りは当時の実質的政治権力者であるトップ6人にあるのは断るまでもない。

 その結果、日本自らの手による戦争終結ではなく、広島と長崎の原爆投下、追い打ちを掛ける形のソ連参戦という外部からの衝撃が突き動かした戦争終結であって、それが本土決戦による米一撃後の終戦交渉という振り上げた拳を自然消滅させ、その非現実性・非具体性諸共葬り去ることができて、軍部はその点での体面を保つことができた。

 天皇の終戦の聖断という名の終戦決意は実質的政治権力者が無能・責任不作為であるがゆえに不可能としたことを天皇に身代わりさせて可能とした結末であるはずである。

 なぜなら、天皇の権力に二重性を持たせていたなら、実質的政治権力者自身が当時の日本の戦争維持能力を客観的に判断して自ら決定しなければならない早期終戦であったはずだが、逆に日米開戦で妄信でしかない日本民族優越性を頼りに振り上げた強がりの拳を体面から最後まで振り降ろすことができなかった手前、天皇が身代わりを演ずる以外に戦争終結の手はなかったからだ。

 このことは番組が最後の場面で取り上げている肉声証言が証明してくれる。

 内大臣木戸幸一(録音音声)「日本にとっちゃあ、もう最悪の状況がバタバタッと起こったわけですよ。遮二無二これ、終戦に持っていかなきゃいかんと。

 もうむしろ天佑だな」

 外務省政務局曽祢益(録音音声)「ソ連の参戦という一つの悲劇。しかしそこ(終戦)に到達したということは結果的に見れば、不幸中の幸いではなかったか」

 自らが早期戦争終結を果たすことができず、国民の多くの命を奪った外部からの衝撃的出来事が与えた他力本願の戦争終結を以って、「天佑」だとか、「不幸中の幸い」だと広言する。

 責任不作為がつくり出した結末だと把える意識はどこを探しても見当たらない。国民の命、国民の存在など頭になく、あるのは国家のみだから、国家の存続を以ってよしとして、「天佑」だとか、「不幸中の幸い」だと言うことができる。

 天皇に戦争終結の任を頼るしかなかったのだ。

 外務省政務局長安東義良(録音音声)「言葉の遊戯ではあるけど、降伏という代わりに終戦という字を使ってね(えへへと笑う)、あれは僕が考えた(再度笑う)。

 終戦、終戦で押し通した。降伏と言えば、軍部を偉く刺激してしまうし、日本国民も相当反響があるから、事実誤魔化そうと思ったんだもん。

 言葉の伝える印象をね、和らげようというところから、まあ、そういうふうに考えた」――

 この言葉は最悪であり、醜悪そのものでる。

 「降伏」を「終戦」と誤魔化したのは軍部や国民を刺激しないためだともっともらしい口実を設けているが、降伏という事実を事実そのままに降伏と受け止めずに、あるいは敗戦という事実を事実そのままに敗戦と受け止めずにその事実を誤魔化すことで、軍人に対しても国民に対しても歴史検証の目を歪める作用を施したのである。

 だからこそ、日本人自身の手で戦争を総括する作業に取り掛かることができず、総括に関わる日本人による日本人自身の責任不作為を放置し、今以て侵略戦争を聖戦だとか、人種平等世界の実現を目的としたとか、あるいは総括しないままに国会で自分たちだけの戦犯の赦免決議(1953年8月3日)を一国主義的に行い、戦犯の名誉は法的に回復されている、A級戦犯は最早戦争犯罪人ではない、あるいは天皇制の維持だけを願った戦争を民族自衛の戦争だったと世迷言を口にする日本人が跡を絶たないことになる。

 戦争に無残に敗北をしてもなお、当時の国家権力者層は権力の二重性を持たせた天皇を頭に戴く国の形を望んだに過ぎないことに今以て気づかない。

 責任の所在がどこにあるのか認識もしない政治権力者たちの、認識しないがゆえの責任不作為は恐ろしい。


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