反イスラム映画制作をキッカケとした過激反米デモはイスラム人の愚かさの表れ

2012-09-26 11:56:54 | Weblog

 イスラム教預言者ムハンマドを侮辱したとされる米映画をめぐり、アラブ各地で反米デモや暴動が発生している。9月11日には武装集団がリビア東部ベンガジで米領事館を襲撃し、駐リビア米大使と職員3人を殺害した。

 9月22日にはパキスタンのビロウル鉄道相が閣僚の身でありながら、映画の制作者を殺害した人物に個人として10万ドル(約780万円)の懸賞金を出すと発表。

 尤も本人は私人の立場で行ったものだと言っているそうだが、閣僚でありながら、閣僚自粛の政府の申し合わせを無視して靖国神社を参拝して、私人の立場での参拝だと言うのに似ている。
 
 映画の内容をインターネットで調べてみたら、イスラム教預言者ムハンマドを父親不明の同性愛者とした挙句に児童奴隷と婚外性交渉を宗教の名の下に擁護する人物として描いているそうだ。

 いわば怪しげな新興宗教の怪しげな教祖に仕立てたといったところか。

 例え映画製作がイスラム教を侮辱するための悪意に満ちた意図を持っていたとしても、法治国家に於いては名誉毀損等で上映差し止めの裁判を起こすという法に訴える行為に出るだろう。

 制作者国そのものを攻撃の対象として映画製作とは何ら関係のない人間を襲って、殺戮するといった野蛮なことはしない。 

 イスラム教預言者ムハンマドを侮辱したと怒りを募らせて集団で暴動に走り、関係のない第三者を殺傷するアラブ人たちの行動はイスラム教予言者ムハンマドを絶対者と位置づけ、その教えを絶対として、何者によっても侵すことを許さない一大権威としている妄信から発生している騒動であろう。

 だが、イスラム教予言者ムハンマドが絶対ではないことも、その教えが絶対でないことも、イスラム世界の独裁体制と人権抑圧が証明している。

 なぜなら、イスラム教予言者ムハンマドが絶対的存在者であり、その教えが絶対であったなら、イスラムの世界に独裁政治も人権抑圧も現れることはなかっただろうからである。

 もしイスラム世界の独裁体制と人権抑圧がイスラム教予言者ムハンマドの教えに従って現出せしめた正しい国の姿だということなら、2010年12月始まったチュニジアでの暴動によるジャスミン革命から、エジプトやリビア、イラン等のアラブ世界に波及した、アラブの春と称される対独裁体制闘争や打倒・政変はイスラム教予言者ムハンマドの教えに反する不遜な謀反ということになり、イスラム教予言者ムハンマドを絶対者の権威から引きずり下ろす反逆となる。

 かくかようにイスラム教予言者ムハンマドとその教えを絶対とするイスラム世界に於いて、このことを否定する国家の矛盾や社会の矛盾、あるいは人間存在の矛盾が存在するにも関わらず、それらの矛盾を無視してイスラム教予言者ムハンマドとその教えを絶対とする権威づけは無知蒙昧な狂信としか言いようがない。

 アラブ世界には女性の社会進出を阻む差別や女性の性や結婚に関わる差別等が存在するが、それらの差別はイスラム教予言者ムハンマドの教えによってイスラムの世界に現出した差別であろう。

 勿論この差別は西欧社会から見た場合の差別であって、イスラムの世界にとっては正当な扱い、正当な価値観ということであろう。

 なぜなら、イスラム教予言者ムハンマドの教えに忠実に従って現出せしめた正当な社会慣習だろうからである。

 もしそうでなかったとしたら、やはりイスラム教予言者ムハンマドの教え、その権威に背いてアラブの男たちが勝手につくり出した女性差別、社会的慣習ということになる。

 イスラムの世界では多くの国がこのような女性待遇を受け入れ、正しい社会慣習としている。

 だが、アラブの国の中にはこのような社会習慣、女性待遇を男女差別と見做して、差別撤廃を戦う女性が存在する国もある。

 いわば、彼女たちはイスラム教予言者ムハンマドを絶対者と見做さず、その教えを絶対だと権威づけていないことになる。

 イスラム教予言者ムハンマドが決して絶対ではなく、当然その教えも絶対ではない例として家畜の犬に対する価値観がある。

 西欧社会から見たなら社会的差別、イスラムの世界では正当な価値観としている社会的慣習として犬に対する扱いを見ることができる。

 テレビで見たシーンだが、2003年10月のイラクでハンドバックを開けて爆弾探知犬の検査を受けるよう米軍女性兵士に求められたイラク人中年女性が、それを拒否したことから騒ぎとなり、100人近くのイラク人群衆が集まって、不穏な状況となったため、米軍側が威嚇発砲して、群集を追い払った。

 イラク人中年女性は、拒否の理由として、「ハンドバックの中にコーランを持っていて、神聖なコーランをイスラムでは不浄とされている犬に嗅がせることはできなかったからだ」と、憤り声で激しくまくし立てていた。

 例えコーランにどのように立派な教えが書き込まれていようが、単なる印刷物に過ぎない。その教えを自己教養化して得た思想そのものに価値があるのであって、そうでなかったなら、コーランは単なる体裁、あるいは飾り物に過ぎない。例え、どこに行くにも常に持ち歩いている大切なコーランだと、価値観を置き、どのように権威づけていたとしてもである。

 だが、コーラン・聖書の類を体裁・飾り物としている人間程、体裁・飾り物でしかないことを否定する必要上、それらを尤もらしげに神聖化し、絶対的権威とする傾向にある。

 憤ってまくし立てたイラク人中年女性にしても、コーランの教えを自己教養化していたなら、犬に破かれるならともかく、臭いを嗅がれるぐらいで憤ったりしなかったろう。

 あるいは社会の矛盾を見て、イスラム教予言者ムハンマドにしてもその教えにしても絶対ではないと相対化するだけの客観的認識性を備えていたなら、愚かしく騒ぎ立てることはしなかったに違いない。

 イスラムの世界にだって犬以下の人間はいくらでもいるだろうに(日本には「犬畜生にも劣る奴」という表現がある)、それを無視して犬を不浄な生きものとする価値観にしても、イスラム教予言者ムハンマドの教えに従った社会的慣習としてあるものであろう。

 不浄な生きものであるからこそ、「Wikipedia」に、〈現在でもイスラム圏では牧羊犬以外に犬が飼われることは少ない〉と紹介されることになっているのだろうが、牧羊犬として社会や人間に役立つ、それなりの価値を有している。

 にも関わらず、不浄な生きものとして忌み嫌われている。

 西欧社会では犬は家族として、あるいは家族の友人として迎え入れられ、さらには視力障害者の生活補助の役を担う盲導犬、聴力障害者の生活補助の聴導犬、身体障害者の介助犬、さらに老人ホームの老人たち の心を癒すセラピー犬として尊ばれ、彼らの社会参加を促し、彼らの世界を広げて、健常者の世界に少しでも近づける優れた能力を発揮している。

 だが、イスラム教予言者ムハンマドは犬を不浄な生きものと価値づけたことによってイスラムの世界にも存在する各障害者の世界を犬の手助けを受けて広げ、健常者の世界に少しでも近づけて彼らの生命(いのち)をより十全とするという思想は育たなかった。

 先に例を引いた、〈現在でもイスラム圏では牧羊犬以外に犬が飼われることは少ない〉という現象がこのことを証明している。

 イラク戦争やその後の内戦状態のテロ攻撃、あるいはエジプトやリビアやシリアの反体制武力闘争等々で兵士のみならず、一般市民の間にも、多くの障害者を出しているはずだ。

 イスラム教予言者ムハンマドが絶対的存在でもなく、その教えにしても絶対ではないにも関わらず、絶対だと権威づけて他の価値観を許さない偏狭・無知なテロ同然の騒ぎを引き起こすのではなく、西欧社会の民主主義を、その社会特有の矛盾を含めて学んで、自らのイスラム社会にどのような矛盾が存在するか自省し、目を向け、人間存在のより良い状態を創り出すべく矛盾解消の方向にこそ力を注ぐべきだろう。

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