ミャンマー姉妹難民認定認否/裁判官は独裁政治の実際を認識できないらしい

2009-01-21 10:09:29 | Weblog

 昨1月20日(09年)の「毎日jp」記事≪難民認定:ミャンマー国籍の姉妹、判断分かれる 東京地裁≫が次のようなニュースを伝えていた。

 <ミャンマー国籍の50代の姉妹が国に難民認定を求めた訴訟で、東京地裁(定塚誠裁判長)は20日、姉を難民として認め、妹の訴えは退けた。妹は控訴する方針。

 判決によると、ミャンマーで弁護士と公務員だった姉妹は日本に不法滞在していた04年、国に難民認定を求めた。06年に不認定となり、東京入国管理局が07年に退去強制令書を発付したが、姉妹側はミャンマー民主化を求める団体で活動していることを理由に「帰国すれば迫害される」と主張していた。

 定塚裁判長「姉は軍政府が強く嫌悪している民主化活動を支援する弁護士であり、自らも活動していた。帰国すれば迫害を受ける事情がある」として姉を難民と認定した。一方、妹については「政治活動は間接的なものにとどまり、反政府活動家として迫害を受ける恐れはない」と判断した。【銭場裕司】>……………

 日本の裁判が姉と妹の立場の違いを異なるとしつつも、基本的人権を保障された同じ個人としての扱いをしているのに対して、言論の自由を極端に制限して自由な表現活動を許さず、政治に対する批判を認めないミャンマー軍政が果して姉と妹の立場の違いを認めて、姉と共に一旦国外に逃亡し、姉と共に難民申請した妹を政治的に無害の個人だと認めるかである。

 しかも難民申請の理由を妹にしても「帰国すれば迫害される」としたことで、軍政当局を自由な言論を行う者を迫害し、弾圧する危険性ある者の立場に置く宣言をしたのである。軍政当局はそういった妹を「政治活動は間接的なものにとどま」っていたとしても、帰国後「反政府活動家として迫害を受ける恐れはない」とすることができるだろうか。

 また、独裁政治は国民の自由な言論、自由な表現活動を制限することで国民の手足を縛り、その見返りに自らの手足の自由を得て可能とする恣意的政治システムを自らの体制を守る重要な手段とするが、国民の自由な言論、自由な表現活動を監視する方法として当局官憲による直接的監視と民間人を使った動静を探って密告させ、報酬を与える間接的監視とがある。

 直接的監視と間接的監視、特に後者は、民主的裁判が国民の自由な言論、自由な表現活動を逆に認めることとなって独裁政治の障害事項でしかなく存在しないことから、密告内容の審理が民主的裁判を経ずに密告者の密告を鵜呑みに行われて厳しく処罰される密告の危険性を密告者自身が知っていて、そのような危険な密告が自分に及ばないための用心から密告という自分の仕事に熱心であることを示すことで体制に対して忠実であることを常に証明する必要性、衝動に駆られやすく、報酬を得る目的からもちょっとした言動を体制批判だと密告するデッチ上げの横行を社会は必然化し、そこから一歩進んで当局から依頼された密告者でもないのに密告される立場に置くよりも密告する立場に置いて自身の安全を図る共通の態度を社会的傾向として蔓延化させ、私的密告者までが横行することにもなる。

 完璧な密告社会の成立である。ミャンマーにしてもかつての東ドイツのように密告社会となっていない保証はないはずである。独裁政治体制が崩壊して、明らかにされることが多いからだ。

 当然のこととして国民同士の間に疑心暗鬼が芽生え、上が強制しなくても自由な言論、自由な表現活動を自分から口を閉ざす形で自ら一層の制限を加え、間接的な監視媒体である密告者から離れたさらに間接的な暗黙の監視状態を相互に構築してデッチ上げの密告という増殖的悪循環を加速せしめることとなる。

 いわば帰国した妹が官憲に雇われているといないとを問わない密告者の手柄の餌食にならないという保証はあるのかということである。身の危険から政治活動を控えていたとしても、密告者から自分の身の安全を図ったり体制に対する忠実さを証明し、報酬を得るための生贄に祭り上げられることはないと断言できるだろうかということである。

 また軍政当局が国外に出て自由な言論、自由な表現活動の機会を得た姉が軍政に都合の悪いことを喋らせない人質に妹を利用しない保証もないはずである。

 徳川幕府が幕藩体制下の各藩大名に妻を江戸に住まわせて人質とした形式につながる自己安全策である。
 
 姉にしてもミャンマーに強制送還された妹の身を案じて、国外に出て折角手に入れた自由な言論、自由な表現活動を自ら抑圧して軍政批判の民主化活動を封印する可能性も考えられる。

 韓国入りした脱北者の中にはテレビに出るとき顔を隠す者がいるが、北朝鮮に残した家族・親戚に害が及ばないための必要措置であろう。ところが、難民認定の裁判を起こしたことで、顔も存在も在日ミャンマー大使館を通じてミャンマー当局に把握されることとなったに違いない。

 ミャンマーに対する民主化要求は日本政府も行っていることで、それは世界的に大きなうねりとなってより効果を持つ上に姉妹はミャンマー軍政の弾圧下にあった当事者でもあるのだから、例え姉一人の沈黙であっても大いなる損失と見るべきで、そのような損失は日本政府のミャンマーに対する民主化要求を弱めることはあっても、決して強めることにはならないはずである。

 東京地裁の定塚誠裁判長はミャンマーの軍政に対するだけではなく、独裁政治一般に対する認識が甘くできてはいないだろうか。

 例え反政府活動が間接的であったとしても、姉のこれまでの活動や立場から、妹まで迫害の恐れありとした方がミャンマー軍政に対する警告になり、その非情さを訴える有効な手段となるのではないのか。


 参考までに引用――

 弁護活動理由に難民認定 ミャンマー女性、妹は敗訴中日新聞/2009年1月20日 18時01分)

 「弁護士として民主化運動を支援していたため、帰国すれば迫害を受ける」として、ミャンマー国籍の50代女性が難民認定などを国に求めた訴訟の判決で、東京地裁は20日、難民と認め、強制退去処分を取り消した。

 定塚誠裁判長は、本国で武装勢力の弁護をやめるように軍から脅迫されたり、日本でも民主化運動を続けたりしていた女性の活動歴を指摘。「弁護士の反政府活動を強く嫌う軍政府当局に注視されているのは明らかで、迫害の可能性がある」と判断した。

 一方、母国で公務員だった女性の妹も提訴していたが、判決は「従属的、間接的な政治活動にとどまる」として難民と認めず、請求を退けた。

 判決によると、女性は1992年に来日。そのまま不法残留を続け、2004年に難民申請したが認められず、07年に強制退去処分を受けた。妹は97年に来日していた。(共同)
 ミャンマー人姉妹に明暗 難民認定訴訟msn産経/2009.1.20 18:26 )

 難民認定申請が認められず、強制退去処分を受けたミャンマー国籍の50代の姉妹が、国に不認定処分の取り消しを求めた訴訟の判決が20日、東京地裁であった。定塚誠裁判長は、ミャンマーで少数民族の活動を支援していた姉を難民と認めたが、妹の請求は棄却した。

 定塚裁判長は、ミャンマーでは反政府運動をする少数民族の支援をする弁護士の弾圧が続いていると指摘。姉が少数民族の刑事弁護をするなど反政府運動を支援していたことから「軍政府に注視されていることは明らかで、帰国すれば迫害される可能性があり『難民』に該当する」と結論付けた。

 一方、公務員だった妹は、目立った政治活動をしているわけではなく、迫害の恐れがないと判断した。

 判決によると姉妹は平成4~9年に入国、16年に難民認定を申請したが、18年に不認定処分となった。 
 難民認定、姉妹で明暗=ミャンマー人の強制退去訴訟-東京地裁時事通信社/2009/01/20-16:16)

 難民認定申請が認められず、強制退去処分を受けたミャンマー国籍の50代姉妹が、国に不認定処分の取り消しを求めた訴訟の判決が20日、東京地裁であった。定塚誠裁判長は母国で弁護士をしていた姉を難民と認めたが、元公務員の妹の請求は棄却した。

 定塚裁判長は、1988年の軍事クーデター以降、ミャンマーでは弁護士の弾圧が続いていると指摘。反政府の少数民族の刑事弁護を担当していた姉について「民主化運動への取り組みが、軍政府当局に注視されていたのは明らか」と述べた。

 一方、妹の活動歴は大勢が参加したデモに加わる程度で、帰国しても迫害の恐れはないとした。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする