≪財務省が大臣の財政演説で26カ所の訂正願≫(msn産経/2009.1.30 21:59 )
<中川昭一財務相が28日の衆院本会議で行った財政演説について、財務省が26カ所の訂正願を衆院事務局に提出したことが30日、分かった。実際に訂正するには衆院議院運営委員長や自民、民主両党の同委理事の了解が必要となる。しかし民主党は「尋常な数ではないので財務省に説明を求める」(渡辺周同委次席理事)と反発し、了解を先送りする異例の事態になっている。
財務省の訂正願によると、中川氏は「歳入」とすべきところを「歳出」と述べたほか、数字でも「7兆4510億円」を「7兆4050億円」などと2度間違えていた。「経済を守る」を「経済を図る」と述べ、日本語として成り立たない発言もあった。
財政演説で中川氏は「渦中(かちゅう)」を「うずちゅう」と誤読したが、幸い(?)漢字で書かれている速記録では読み方まで分からないため、財務省の訂正願には含まれていない。民主党内からは「演説を練習しないで臨む気の緩みの表れ。まさに政権末期だ」(中堅)という批判が噴出している。>………
政権末期の緊張感喪失を閣僚の一人として分け持っている財務大臣中川昭一の緊張感のなさを全身で熱演した末の言い間違え、誤読に違いない。
いいではないか。何しろ天下の東大法学部卒なのだから。基礎学力に関しては他人の見本となる磐石の強みを持っているはずだ。そうでなければ日本が学歴社会であることの意味を失う。今の子供に対して学力の低下を言い立てる資格は十分にある東大卒の学歴と言うわけである。
最近の若者にも漢字が満足に読めないと批判できるだけの学力を受験教育で授かり、さらに上の学力を東大の4年間で身につけているはずだ。
但し手渡された原稿を目を一度も通さずにぶっ続け本番で読み上げたとしたら、なかなかの度胸だ。これも東大出身の心臓というわけなのか。
尤も読みの合理性から言ったなら、「渦中(かちゅう)」は「うずちゅう」と読むべきではなく、「うずなか」と読むべきではなかったろうか。「asahi.com」によると、「金融危機の“うずちゅう”」と高らかにかどうか知らないが、読み上げたということだが、“うずちゅう”を「渦中(かちゅう)」のことだと頭の中で翻訳して理解するまでにかなりの時間を要する。本人はアル中だとの噂があるが、そのせいで「うずちゅう」を「渦中(かちゅう)」という正しい言葉と意味に辿りつく前に余分なことに「アル中」という言葉を思い浮かべてしまって、いたずらに時間を取られるといったことも起こりかねない。
“うずなか”と読んでくれたなら、“うず”はストレートに「渦」という漢字に辿りつけるし、 “ちゅう”も「中」へとたちまち変換可能、頭の中での翻訳にさして時間は要しない。遥かに合理的な読みではないか。
「相殺(そうさい)」を「そうさつ」と慣用読みとするのは、「相殺(そうさい)」の「殺(さい)」を「殺人」の「殺(さつ)」に当てて読み出した間違いからではないだろうか。かくかように慣用読みとして本来の読みとは異なる読み方をする漢字が相当に存在する。
「言質(げんち)」を「げんしつ」、「病膏肓(こうもう)に入(い)る」を「こうこうに入る」、「消耗(しょうこう)」を「しょうもう」、「刺客(しかく)」を「しきゃく」等々。
05年9月の小泉「郵政選挙」のときは、マスコミも政治家も誰もが、「刺客(しかく)」と言わずに「しきゃく、しきゃく」と言っていた。いわば「刺客(しきゃく)」が正しい読みとなっている。
時代を受けて漢字の読みは変るということである。「渦中(かちゅう)」を「うずちゅう」と読み上げても差し障りはないわけである。何と言っても東大法学部卒の財務大臣中川昭一が国会という国の代表者たちが雁首を揃えて集まる場で読み上げた“読み”なのだから。
だが、意味をより簡明に読み取る言葉の合理性から言って、天下の東大出に逆らって悪いが、何しろ短時間の情報の伝達と解読・処理が必要とされる情報社会なのだから、このような時代の要請に応えるためにも頭の中での翻訳化の時間を少しでも省く必要上、既に触れたように「うずちゅう」よりも、「うずなか」と読む方がいいのではないのか。
偉大な財務大臣中川昭一を差し置くことになるが、ここに「渦中(かちゅう)」を今後「うずなか」と読むように提案する。「渦の中にあることを言うんだな」と簡単に意味が取れるではないか。
中川昭一財務相は上記26カ所の訂正願を提出した財政演説の結びで、<戦後荒廃から立ち直り、石油危機を乗り越えた歴史を振り返り、「日本人に乗り越えられない困難はない」と強調、政府の施策への理解と協力を求めた。>と述べたと別の「msn産経」が伝えていたが、景気と言うものは循環するものだから、日本人でなくたって、結果としては何人であろうと乗り越えることになる。症状が軽ければ、回復は早くなるし、重ければ回復までに時間がかかる。
政治の側の当然の対策は不況が国民生活に与える不安や打撃を如何に和らげるか、症状を少しでも軽くして、如何に短時間に回復に持っていくかを図ることであろう。いわば政治がどうのように有効、且つ実効性ある力を発揮していけるかどうかという問題であるはずである。
政治の問題であるのに、それを抽象的な把え方で「日本人に乗り越えられない困難はない」と国民一般の資質の問題としている。戦前の大日本帝国軍隊の戦略・戦術のすべてに亘る劣弱性が問題であるのに、それを「欲しがりません、勝つまでは」といった精神論で国民に我慢を強制したのと同じ類の狡猾・巧妙な問題のすり替えに過ぎない。こういった合理性も東大卒ならではの合理性なのだろう。
また好況期に大手企業のみが過去最高益を得たものの、その利益を国民に還元しないといったことではなく、経済的果実・富を如何に国民により平等・公平に再配分するかも政治の務めであるはずである。2002年2月から2007年10月まで続いた戦後最長の景気のときは自民党政治はそのことを怠った。そのツケも加わった今回の「100年に一度の経済危機」ということではないのか。
このページの画像は最初に引用した「msn産経」記事と同じページに貼り付けてあった麻生首相の写真で、そのどこにも「100年に一度の経済危機」は見えない、仕事を失い、住まいを失った者の不安にしても影さえも射していない、困窮の「渦中(うずなか)」から遠く離れた、これぞまさしく麻生太郎流の「楽観主義」を絵に描いた何とも言えない爽やかな顔に感心してちょっと文字を加えてみた。
「悲観主義は気分によるものであり、楽観主義は意志によるものである。好きな言葉であり、ある哲学者の言葉です。未来は、私たちがつくるもの、我々がつくる。未来は明るい。そう信じて行動を起こす。そうした意志こそが未来を切り開く、大きな力になるのだと思っております。国民の皆様のために、明るい日本をつくりたい、そう強く考えております。」(麻生内閣総理大臣年頭記者会見/09年1月4日)
早急な具体策と早急にして具体的な実行力以外は何も望まない。派遣会社や請負会社の業界団体が「3月までに40万人が失職」との試算を明らかにしたと昨30日にNHKがニュースで伝えていた。