大相撲は伝統だ文化だ品格だと言う程大層なスポーツなのか(1)

2009-01-28 12:46:06 | Weblog


 怪我で3場所連続休場していたため場所前まで引退も囁かれていた朝青龍が春場所に出場したものの復活を危ぶまれていたが、14勝1敗の圧倒的な強さで見事優勝。横綱同士の優勝決定戦で対戦相手白鵬を倒して優勝を決めた後のガッツポーズが品格ないと横綱審議委員会が横槍なのか、イチャモンなのか、ケチをつけたのか、批判の言葉が出たという。
 
 26日の「YOMIURI ONLINE」≪朝青龍のガッツポーズ「行き過ぎ」、横審委員から厳しい声≫が次のように伝えている。

 <大相撲初場所後の横綱審議委員会が26日、両国国技館で行われ、復活優勝した朝青龍が千秋楽の土俵上で派手なガッツポーズをしたことについて、各委員から厳しい意見が出された。

 海老沢勝二委員長は「朝青龍は体力や精神力も充実し、よく頑張った。全体的に非常に盛り上がった場所」と評価する一方、「伝統ある大相撲で、あのようなパフォーマンスは行き過ぎ」と複数委員からガッツポーズを問題視する声が上がったことを明かした。

 指摘を受けた武蔵川理事長(元横綱三重ノ海)は、横綱本人と師匠の高砂親方(元大関朝潮)に注意することを約束したという。

 沢村田之助委員(歌舞伎俳優)は、「(今回欠席した)山田洋次委員(映画監督)からも『結果は認めたいが、横綱の品格はゼロと言ってほしい』と電話があった。今までの横綱でガッツポーズした人なんか一人もいない」と厳しい意見。

 「僕は気にならなかった」という新委員長の鶴田卓彦委員は、「相撲は神事という意見に立てば行き過ぎという声もある。だが、一般の人はどう受け止めているのか」と寛容な姿勢を見せた。>………

 山田洋次監督が扱うテキヤの世界はアウトサイダーの世界でありながら、監督自身がアウトサイダーに徹し切れなかったから、車寅次郎を葛飾は柴又の実家、寅屋というインサイダーの世界、常識的な生活空間に度々帰すにことになり、寅次郎をアウトサイダーの世界とインサイダーの世界を往ったり来たりさせることになったのだろう。所詮、監督の中では常識的的世界に優先順位を置いているらしい。

 私自身は朝青龍は嫌いな相撲取りに入るが、周囲の偉い方々が朝青龍に対して伝統だ、文化だを振りかざすから、ここのところ朝青龍が優勝するよう応援している。

 新委員長の鶴田卓彦委員のみが擁護。だが、現在の「相撲は神事」なのか。明治神宮の横綱の土俵入り奉納は神事の名残を今の時代にとどめる痕跡に過ぎない。もし「相撲は神事」であるなら、横綱の月給が基本給と手当で月282万円、本場所手当てが20万円×6場所、締めて400万円以上。十両の給料でさえ月103万円だそうだが、どう解釈したらいいのか。

 相撲協会自体は親方株(年寄株)の売買を認めていないにも関わらず、ウラで億単位で売買されている事実はどう解釈したらいいのだろう。

 相撲取りが階級に応じて収入を得る、親方株が取引されているという事実は「相撲は神事」ではなく、人間世界の一つの営利であり、その営利は勝負事で成り立っていることを証明して有り余る。

 勿論相撲の歴史は古い。日本書紀によると垂仁天皇の時代の発祥だということだが、単に発祥が古いというだけのことで、勝ちをカネで購う営利行為となって以来、神事を離れて、勝負事の領域へと足を踏み入れたはずだ。

 また勝負事だからこそ、時代時代の人間の血を沸き立たせ、引き継がれ、今の時代に存在し得ていると言える。神事であるなら、正月とかの時期に限られた神社で無償行為として行われることになったろう。

 勝負事だから受け継がれた。もし日本人の感性にのみ訴える勝負事なら、外国に伝えられることはない。また、外国人の観客は存在し得ないこととなる。勝負事という人類普遍の価値観に支えられて現在に至っている。鎖国時代が長かったから、外国に伝わらなかったことが結果として日本人のみの中で伝えられてきただけのことで、日本人のみの精神性・文化性に訴えて歴史的に蓄積され、伝統となったと言うわけではないだろう。

 勝負事だから、八百長や意図的な白星献上や勝ち越しに協力する手抜き相撲――結果としての無気力相撲が存在することになる。もし八百長が伝統となっていた大相撲と言うことであったなら、八百長は伝統からのものとなるが、伝統からではあるまい。あくまでもカネで褒賞される勝負事だからあり得る八百長と言うことであるはずだ。

 ガッツポーズは外国生れの文化である。今では日本人も殆どのスポーツで勝者はガッツポーズを見せる。その点で内外の差はなくなった。日本の大相撲では品格のない仕草とされるが、モンゴル相撲では勝者は大鷲が羽を広げて舞う姿を真似て手を大きく広げ、全身をゆったりと上下に揺らす舞いを勝利の証とする。

 朝青龍は白鵬と違ってモンゴル相撲の出身者であり、両手を広げるポーズで勝利を祝う文化を血としてきた。本人の感性としては正直な自然発生的感動行為であろう。何しろ怪我で3場所連続休場した上に場所前の稽古の調子が芳しくなく、大方の予想では初場所に出場しても持たないのではないかと危ぶまれていたところへもってきての日を重ねるごとに強さを増していった末の賜杯獲得である。場内のファンもそのガッツポーズに応えて拍手し、歓声を送り、共に朝青龍の勝利を祝った。

 ところが横綱審議委員会のお偉い方たちはお偉いがためにだろう、地位獲得や賜杯獲得といった名誉だけではなく、何百万円という収入・カネも無視できない大きな動機の一つとして勝敗がカネで購われる勝負事であることを忘れて「品格がない」と言う。

 紛うことなき現実のこととしてあるカネを褒賞とする勝負事としての側面を消し去ること自体が既にキレイゴトの始まりだが、その上に伝統だ、文化だを振りかざす。あるいは神事だと言って決まり切った型に押し込めようとすなら、自分たちが信じている伝統そのもの、文化そのものに戻すべきだ。即ち神社の境内のみに土俵を設けて、そこで神に奉納する神事として執り行う。勿論、勝敗がカネで購われることはあってはならない。何しろ神事なのだから。

 さらに外国人力士を入れないで、日本人力士のみで成り立たせるべきだろう。勝ち負けの動機にカネの要素が入らなくなったなら、誰が真剣に勝負するだろうか。アマスポーツの世界でも勝負をスリリングなものにし、面白くするためにカネの要素が入り込んでいる。
 
 名誉という動機のみでは競技する者は自身を強くし記録を上げる、トレーニングのみならず栄養管理をも含めた準備に事欠くことになるだろう。カネの要素が入ってこそ、肉体的・能力的な準備を万端に整えることができる。名宵はその先にある。

 昨年の北京オリンピックで金メダルを獲った日本のアスリートのその競技能力・頑張りを誉めそやし持て囃す報道が続いたが、彼らに国や国内オリンピック委員会、あるいは各所属の競技連盟がどれ程カネをかけただろうか。カネなくして、彼らの名誉もなかったはずだ。

 人間、伝統や文化のみでは生き得ない。また名誉のみでも生き得ない。カネを得てこそ、名誉は生きてくる。利害の生きものであり、生活の生き物だからだ。伝統や文化を振りかざすことが生活の利害と一致させ得る者のみが、伝統、文化を言い立てる。

 テレビに出て言えば、偉そうに見えるから、その人間の主張すべてが正しいことを言っていると錯覚させるご利益をもたらことになる。

 日本の政治家・官僚が自身は薬にもしていないのに日本の歴史だ、文化だ、伝統だを言うのは自分たちを偉い人間に見えるために、現実には今の時代の空気しか吸うことが不可能であるにも関わらず、さも自分たちが日本の歴史・文化・伝統を大切にし、その空気の中で生活し、活動しているか錯覚させようするからだろう。

 実際に相撲を取る者が伝統や文化で相撲を取っているわけではなく、名誉のみならずカネといった経済的利益を大きな動機として相撲を取っているのに、取るわけではない運営側の人間が伝統・文化を言い立てる。口で言うだけで自分たちを偉い人間に見せることができるからで、それが連中の生活の利益となっている。

 その代表的な一人に元NHK相撲解説者・現在相撲ジャーナリスト、且つ日本福祉大学客員教授だとか言う杉山邦博を挙げることができる。

  大相撲は伝統だ文化だ品格だと言う程大層なスポーツなのか(2)に続く

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大相撲は伝統だ文化だ品格だと言う程大層なスポーツなのか(2)

2009-01-28 12:07:22 | Weblog


 1975年春場所千秋楽で大関貴ノ花(現在の貴乃花親方の父親・故人)との優勝決定戦での北の湖の横綱時代の敗戦が八百長だと疑惑報道した「週刊現代」の記事に対して日本相撲協会の北の湖前理事長と協会が発行元の講談社などを相手取り損害賠償請求した裁判が昨年(08年)の10月半ばから開始し、各テレビ局のワイドショーが競って取り上げた。それが朝青龍の横綱としての品格問題と重なり、大相撲は日本の国技だ、伝統だ、文化だという言葉が飛び交った。

 何日か正確な日付を記さないままに録画を文字に起こしたものだから、何日放送のTBSテレビ<みのもんたの「朝ズバッ」>か不明のままだが、裁判で証言した後の当時はまだ協会理事長だった北の湖に記者がインタビューしているから、八百長疑惑裁判が開始されたほぼ直後の日付なのは間違いないと思う。この番組中の言動を通して、杉山邦博が如何に伝統だ文化だを言う資格のない人間か、自分を偉く見せる利害行為からの振りかざしに過ぎないかを証明してみる。解説及び感想は( )付の青文字で記した。

 先ずは既にご存知だろうと思う17年前の1991年に録音されたカセットテープが流される。

 二子山元理事長「君ら、よく聞けよ。親方衆、これは重大なことだ、親方衆。若い親方衆、今での相撲を見てみろ。師匠、何とも思わんか。その勝ちで喜んでいるのか。それで手を叩いているのか。お目出とう、お目出とうって。逆に叱らなきゃならないですよ。

 皆様方にお忙しい中、今回来て貰った、ことは、無気力相撲について、出席していただいたところであります。」――

 (17年前に国技館であったある会議の席だそうだで、親方衆と十両以上の関取全員を集めた「異例」の緊急会議で、テープは30分に亘る長さだとか。)

 二子山元理事長「よーく耳の穴を掃除して、右から入ったら左へ抜けないように、左から入ったら右へ抜けないように頭の中で止めていただきたいと思います。――」

 出羽の海親方(元佐田の山・無気力相撲を見定める観察委員会の観察委員長)「全然自分は関係ないと言う人も、一杯いると思います。いると思うんですけど、ここのところ、非常に一二、私の感じとしては多くなってきたんじゃないかと思っています。優勝とか大関になろうというときでも、何回挑戦しても跳ね返される。夜も寝れない。心臓ドキドキする。そういう思いを何回も何回もして、獲ち取るもの。これが得難いものなんですよね。

 それを簡単にカネで手に入れるってことは、もうこれは稽古も何もしなくていい。まあ、床山とか若い者頭だとか、どういうのか分かりませんけど、何しろそれを仲介した人ですね。ええ、それも相当な処罰を得ます。場合によっては、若い衆はクビになるかも分かりません。床山とか、そういったものも廃業させられると思います」

 「観察委員会」なる組織があったこと自体が伝統だ、文化だで相撲が行われていないことの証明であろう。人間の利害行為に入る勝負事の一つに過ぎないということである。しかも「観察委員会」なる組織が存在していたにも関わらず、カネのやり取りがあったと言っている。)

 ここで八百長裁判の原告である北の湖前理事長、どう証言したのか記者に聞かれて、
「膝の怪我とか庇って相撲を取ると、膝で庇ったりして相撲を取ると、力が入っていないような感じに見えますからね、それと八百長は別だと、そのように申し上げました」

 これは一般論を述べたに過ぎない。本来なら、「断じて八百長ではなく、カネの遣り取りもありませんと、そのように申し上げました」と言うべきだろう。しかしそう答えずに、一般論を裁判で述べた。)

 再びテープ。出羽の海親方「絶対にあってはならない。故意による無気力相撲が一部の不心得者によって行われたことは許されないことであります」

 ここでみのもんたが元NHK大相撲解説者、現在相撲ジャーナリスト、且つ日本福祉大学客員教授だとかいう杉山邦博に聞く。

 みの「今のテープを聴いての感想を」
 杉山「いや、本当に厳しさで定評のあった二子山理事長がホントに危機感を感じてですねこれはどうしても放っていられないぞと言うね、その現れで、まさに赤裸々な、もう胸の内をお弟子さんや、それから協会全員の前で吐露していらっしゃいますよね。ええ」

 みの「出羽の海の発言を繰返し説明、そういう発言で出てくるんですけど――」
 杉山「つまり、今巷間では八百長という言葉が使われていますが、流布していますが、協会ではその言葉は一切使われていませんで、気力のない相撲、あるいは故意による相撲ということですが、そのテープの中にもございますように故意によるっていうのは、これはもう、わざとと言うことですよね。このわざとの場合も、ただ、今場所勝つよとか、来場所どうするって言ってんじゃなくして、金銭の遣り取りがあったかのような、今話が聞かれましたよね。これはホントーに私はね、もう情けなくて、何とも言いようがありません。ええー」

 (みのはテープを聴いた範囲内で八百長、もしくは無気力相撲が存在したかどうかの判断を尋ねたのである。それを曖昧にしたまま、「これはホントーに私はね、もう情けなくて、何とも言いようがありません。ええー」と自身の感情表明に変えている。この合理的な判断の回避は普段言っている伝統だ文化だが客観的な合理的判断を欠落させているからこそできる物言いであり、そこから生じている情緒的な把握への転換であろう。いくら長年相撲解説者を務めていたとしても、合理的判断に常に厳しくあろうとしていたなら、できない回避だからだ。)

 みの「そうすると、今八百長疑惑っていうのは、じゃあ本当にあったのかっていうふうにつながってきちゃう可能性ありますよね」
 杉山「そうなんですよね。それであのう、このテープの中で過去のことを云々する人がいるかもしれないけれども、そういうことを言っていたら先に進まないんだと、と言うか、絶滅しなきゃいけないんだということを強調していますよね。

 それからもう一点は、あの、今、師匠みんなに言っているけど、果して師匠がそれぞれの弟子に伝えているかどうか、あなた方は呼び出されて注意された、その師匠がお弟子さんに、直に取った力さんに伝えていますかってことまでおしゃってますよね。そのテープの中にね、ええー」

 (ここでも八百長相撲、あるいは無気力相撲があったかどうかの判断を回避している。部屋の親方の指示による取組、あるいは他処の親方から持ちかけられて双方の親方が承知している取組ということなら、「直に取った力さんに伝え」るも何もないだろう。すべての可能性を考えることができない物言いも合理的判断能力の欠如が原因しているからで、そんな人間が伝統だ、文化だを振りかざす。)

 みの「八百長疑惑の裁判ですけど、これ(テープ)がもし提出されるとなると、相当影響出ますね」

 杉山「私は、あの専門家ではありませんので、先生(弁護士の道歩みが出演している。)のお話を伺いたいんですが、ま、少なくとも心証的には、こういうことがかなり多く行われていたで・・・・(声を強めて強調する)あろうと思われても仕方がないですよね」

 (専門家に聞かなければならない判断とすることで自らの合理的な判断は回避した上で、「少なくとも心証的には、こういうことがかなり多く行われていたで・・・・あろうと思われても仕方がないですよね」と他者の推測の判断にとどめることで自らも推測の判断に逡巡させる二重の合理的判断の回避を巧妙に試みている。)

 杉山「実は17年前の平成3年のノートなんですが(と古びた大学ノートを取り出して見せる。)今、テープでお聞きいただいた3日後に初日が始まったんですね。秋場所の初日。ちょっとここを見ていただきたいんですが(とノートの余白を示す。)、私はここに『待ったをしたら、罰金5万円』という制度もこのときできたんですよね。時間一杯から。『敢闘精神欠如に』(と読み上げ、)二子山理事長の、ええー、『厳しい通達のスタート』。で、『内容すこぶるよく、気迫十分』と書いてあるんです。

 つまり、これはですね、この通達が、3日前にこういうことが行われたことによって、その秋場所の9月場所、ここで書いてあります、平成3年9月場所なんですが、相撲が内容が如何によかったかと。私もそう思って、一行コメントをこう残しているんですが。ですから、ま、そういう意味では危機感にもう、充満してますので、九州場所は(と言ってから、声を強めて)間違いなく、私は素晴らしい展開すると思うんですけれども、それにしましても、今の話にちょっと戻らせていただきたいんですが、裁判は北の湖のと貴ノ花の33年前の相撲がどうあった、っていう話なんですね。私は今のこれだけ厳しい師匠であった、協会のトップだった二子山さんの、あの姿勢をみなさん、ご覧なる、お聞きになったら、とてもじゃないけども、北の湖と貴ノ花は協会切ってのクリーンだった二人の相撲が、私は八百長だったとか、あるいは気力を欠いた相撲だったとは、(言葉を強める)到底信じられません。そのことだけは申し上げたい」

 「『待ったをしたら、罰金5万円』という制度もこのときできた」。結果的に「内容すこぶるよく、気迫十分」の相撲がその場所を通して展開された。としても、無気力相撲と指摘される取組はその後も続いていたし、手を突く振りをして突かなかったり、待ったしたりは現時点でもいくらでもあることなのだから、厳しく注意された当座の場所のみ守られたとしても意味はあるまい。継続性を維持してこそ初めて意味が生じる。日本福祉大学客員教授までしていながら、合理的な判断を持ち得ず、自慢する。)

 みの「ここへ持ってきて、400万円、用意しろ、しないと、変な噂が流れたりねぇ、誰も証言台に立たない。勝手に流れている話ですからねえ」

 杉山「あの、若貴の兄弟の弟さんが初優勝したときにしても、これはもう本当に土俵上で引退定年退職直前のお仕事として天皇杯を手渡した、涙ぐみながら顔も真っ赤にして渡したのがこの土俵の二子山理事長だったんですよ。それを手にしたのが貴及花だったんですよね。後の貴及花は。そういうことを考えるとね、確かに私は無気力相撲ががあったんであろうということは色んなとこで情報としては分かりますけども、今巷間裁判の場に上げられている、この相撲に関しては、私はあり得ないと思っています」

 みの「逆にあれですね。杉山さん、取材によると、そこであった無気力というものが非常に一掃されて、必死の土俵がこれから繰り広げられるようになった。審判制度も大変厳しくなって、そして来たと。だから、若の花(ママ)だの北の湖だの、何だと、一線がそんなことあり得ないよという。逆に逆実証になるかもしれませんよね」

 (みのにしても、人間は不正な利害感情からいくらでも抜け道をつくり出すという合理的な判断ができない。振込め詐欺犯だけが新たな手口となる巧妙な抜け道を拵えるわけではない。)

 杉山「そうありたいですよね」
 みの「まあ、それは裁判所がどう判断するか、もし、証拠提出されたらですね・・・・、厳しい話、もう一度聞けますか」

 再びテープの声を流す。

 みの「厳しい、まあ、ね、話という、あったわけですよね。ですから、その場所っていうの、大変いい相撲が展開されたということなんですけれどもねえー。まあ、いずれにしても、それははっきりしなけりゃいけない。ま、記事の、さっき与良さんがおっしゃったように、確か書かれていることですね、それ以外は随分はっきりしちゃっている」

 与良(正男・毎日新聞論説委員)「勿論証言の事実も関連事実として偽証の対象になり得ることはあるんです」

 (いきなり「偽証」に持っていく見事な合理的判断。)

 みの「どうもありがとうございます。しかしそれにしても凄い取材ノートですね」
杉山「いや、いや、そんなこと」

 与良「これはありがたいものを。ボクはホント、記者の先輩として見せていただいた感じがします」

 杉山「いや、恐れ入ります」と頭を下げる。

 みの「道さん、どうですか」と弁護士の道あゆみに話を振る。
 道「これ何か、この事件、ある意味。劇場化している、って言うんですか?私がこの前何気なく行ってみたら、その傍聴人の物凄くて、びっくりしたんですけれども。で、本来いつ法廷で出されるべき、ま、証拠、であるとか、その出廷すべき証人が、何か事前に記者会見をしたりとかですね、そういった形でマスコミに証拠を流しているんで、私たちも、それに翻弄されてしまうんですが。しかし、問題はですね、あの、この週刊誌が書いた記事、そこでテキジされた(摘示〈てきし〉暴き示すこと、また、かいつまんで示すこと『大辞林』なのか)事実が果して真実なのか。あるいは真実と信じるべき相当な理由があるようなことなのかどうか、っていうことなんですね。過去のずっと昔の八百長相撲かどうかって、この記事を見なければ分からないので、その週刊誌の事情の真偽に左右されてはいけないじゃないか、というふうに思います。まあ、記事に何と書かれているかだと思うんですね」

 (記事の内容も把握せずにごく当たり前のことをごく当たり前に言ったに過ぎない。これでコメンテーターが務まるのだから、楽なものである。)

 与良「心証の部分が大きいかもしれないんですね、元々メディアの報じる側から、この確証を把えると、我々、あの、報じる側の方が苦しんですよ。この種の裁判と言うのはね。なぜなら、要するに、その、あの、取材源を誰から聞いたってことを明らかにできないからですね。それを講談社が仮に明らかにしなかったら、このメディアとしての責任を問われるということなるんで。

 そこの難しさ、っていうのは、我々、その報じる側からするとね。まあ、これはボクはどっちが正しいかっていうことを、僕は裁判をもうちょっと見ていこうと思ってますけども。だから、もう、次々と講談社側としてあね、ありとあらゆるものを出していくっていう、まあ、戦法だと思うですよね」

 (これもごく当たり前のことをごく当たり前に言ったに過ぎない。)

 みの(杉山に)「当時、実際取材なさってるんですよね」
 杉山「はい・・・・・」(以上)

 (再度言うが、相撲取りは伝統や文化で相撲を取っているわけではない。名誉と金銭的褒賞を大きな動機とした勝負事として行っている。勝負事だから、ファンも集まる。もし神事の域を出ない競技であったなら、一部の特定のファンしか惹きつけなかったろう。勝ちをカネで購う営利行為だからこそ、相撲取りは必死にもなるし、八百長相撲も行う。自分が白星を献上して貰うこともあるから、必要な相手に白星を献上することもある。すべて伝統だ、文化だ、品格だといった問題とは別次元のプロ競技に過ぎない。

 「品格」を問題とするなら、ガッツポーズよりも朝青龍の不必要・過剰なダメ押しを問題とすべきだろう。伝統とか文化とは関係なしに、競技者のマナーに反するからだ。それをガッツポーズを品格ないと問題とし、ダメ押しは不問に付すのは見事と言うしかない合理的判断でとなっている。)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする