ネット右翼

2006-05-07 07:03:30 | Weblog

 〝ネット右翼〟なる言葉を新聞で初めて知った。

 「数年前からネット上で使われ出した言葉だ。自分と相容れない考えに投稿や書き込みを繰返す人々を指す。右翼的な考えに基づく意見が殆どなので、そう呼ばれるようになった」(『萎縮の構図6・炎上 他人のブログをはけ口に』06.5.5『朝日』朝刊)

 「他人のブログに攻撃コメントをしつこく投稿する行為をいさめる意見を載せた」ところ、批判のコメントが殺到したと言う。「あなたは勘違いしている」、「なぜ非を認めないのか」。回答せずに無視すると、「『このまま逃げたらあなたの信頼性はゼロになりますよ』。反論すると、再反論が殺到した」。「議論の場から一時も離れることを許さない」。

 「炎上」とは批判コメントが殺到して制御不能に陥る状態を言うとの解説があった。執拗な嵩にかかった批判コメントの殺到に攻撃を受けた者が自分の意見が通じないもどかしさから反論が面倒臭くなったり煩わしくなったりして自分の意見・主張を控えたり、抑えてしまう。それでもブログを閉じることでしか攻撃を止めることができないところまで追いつめられて、最終的には閉じることとなる思想・言論の自己意志からではない縮小状況を「萎縮の構図」と把えている。

 思想・言論の自由が保障されているに関わらず、自分と「相容れない考え」という理由で批判の攻撃を受けて自分の意見・主張を「萎縮」させていき、ついには自己の意見・主張を沈黙状態に置かざるを得ない。民主主義国家なのに、何とも窮屈な話である。

 相手にしてもインターネット上から退場させて沈黙させることが自己の考え・主張の最終的な正しさの証明とすることができるのだろう。このことは自分と「相容れない考え」の存在を許さず、排除する形の思想・言論の自由の抑圧行為に当らないだろうか。

 「違う意見を認めよ」ということがもっともらしげによく言われる。「少数意見を認めよう」という声もよく聞く。自己の主義・主張に真っ向から反したなら、例え少数意見だろうと、意見〝自体〟を認めないことは許されるのではないだろうか。少数意見だから、弱者の立場にあるとしているだろうが、少数意見が多数意見とならない保証はないし、意見〝自体〟の否定がその者の生存権まで侵すことになる否定は何人でも許されていないからだ。

 生存権を侵さない範囲内でそれが少数意見だろうとなかろうと自分と「相容れない考え」を「相容れない」ゆえに決して認めることができない価値態度は自己の信念に関わってくる権利として誰もが許されているはずだということである。自分と「相容れない考え」が自己が信念としている意見・主張と異なっている場合は、それを批判する自由も、弾劾する自由も誰もが権利として許されてもいるはずである。

 「相容れない考え」に簡単に同意することの方が節度・信念のなさが問われることとなり、信用できない。

 但し〝誰もが〟ということは、ことさら断るまでもなく〝相互性〟として与えられている権利だということである。いわば自分と「相容れない考え」を主張する権利は相手方にも与えられている。どこがどう「勘違いしている」のか、どこがどう「非」なのか、合理的な説明を伴わせてという条件付きで、「あなたは勘違いしている」、「なぜ非を認めないのか」と批判する資格は誰もが有するが、そのような条件を無視・排除して、そこに自己と「相容れない考え」を「相容れない」という価値観のみで感情的に封殺する意志を見せた場合、他人の思想・言論の自由を抑圧・否定することとなって、権利侵害に当る。合理的な説明を伴わせることで批判・非難に節度を持たせることが可能となる。

 現実の右翼に置き換えて言うと、害戦車を動員してスピーカーを使って大音量に怒鳴ったり、詰ったりするのは、合理的な説明を伴わせているとは決して言えず、威嚇を力として相手を圧倒・屈服させようとする心理的暴力意志を露にしたもので、許されることではないことは言うまでもない。

 もしも合理的な説明を伴わせずに逆に「あなたは勘違いしている」、「なぜ非を認めないのか」と言われたら、素直に納得するのだろうか。納得すまい。相手を納得させるためには、合理的説明を絶対条件としなければならない。条件としないとき、自分が納得できないことを他人に要求する矛盾を侵すことになる。

 いわば自己と「相容れない考え」を認めない権利は誰もが有するが、「相容れない考え」を主張する権利も誰もが有している。自己主張の展開(思想・言論の自由)が許されるとするなら、相手の自己主張の展開(思想・言論の自由)も許す相互関係になければならない。自己主張(思想・言論の自由)ばかり認めて、他人の自己主張(思想・言論の自由)を認めないのは、憲法が保障する〝すべての国民は〟という相互性を破るもので、一方的権利の要求となる。それに自分が「相容れな」くても、「相容れ」るとする人間の存在は否定できないだろうから、それを無視したなら、自己価値の強要・押し付けとなり、独裁行為そのものとなる。

 当然相互に「相容れない考え」が並存することになるが、それらの「考え」が社会的秩序を成り立たせる必要条件としてあるもので、どちらかの「考え」を選択し、決定しなければならない場合は、人類のチエが生み出した〝多数決の原則〟に任せるしかない。それが民主主義というもので、〝多数〟を示した「相容れない考え」に従うしかない。

 現実世界には自分と「相容れない考え」の法律・規則の類、あるいは社会的な習慣に従わなければならないことはザラに転がっている。

コメント (1)
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