家庭ゴミの不法投棄と愛国心

2006-05-04 04:43:36 | Weblog

 テレビで放送(06.4.2)していたことだが、高速道路のサービスエリアに置いてあるトラッシュ・ボックスと言うのか、ゴミを捨てる箱に明らかに家庭から出たと思われるゴミが詰め込んであるといったことがあって、それがゴールデンウイークといった車の通行量が飛躍的に増大する期間になると、一挙に増えて、サービスエリアでは処理に手間がかかり、捨てていく人間のエチケットのなさを嘆いていた。

 ところが家庭ゴミを捨てて行くのはサービスエリアだけではなく、国道沿いのコンビニのトラッシュボックスでも起ることで、連休中に交通量が増えるとゴミも増えるとコンビニの店員がテレビカメラの前で証言していた。家庭ゴミは持ち込まないようにといった貼紙をするコンビもあるという。

 行楽の途中で家庭ゴミを捨てるとなると、前以て準備して車のトランクなりに積まなければならない。そのようにまめったいことまでして、サービスエリアや国道沿いのコンビニに捨てて行く。日本人の勤勉さがポイ捨てにも変わらずに発揮されているのかと思うと
却って感心させられるが、このような公徳心のなさが世界的に高い技術を持っていると言われる日本人のもう一つの顔となっている。

 富士山を世界遺産登録にと名乗りを上げたいが、登山客が年々捨てていくゴミの山の凄さに汚された富士はその資格を得ることができないらしい。富士山が日本のシンボルと誰もが言うが、実態は日本人の公徳心のなさのシンボルとなっているのではないだろうか。2009年の世界遺産登録に向けて行政やNPOがボランティアを募ってゴミ処理したり、人間の手で荒らされた場所にブナの木を植林して環境保全に努めていると言うことだが、そうしなければならない姿自体がどこか狂っていて悲しい。

 保守派の単細胞な政治家に言わせれば、だから学校で子供の頃から「国と郷土を愛する」心を養う必要があるのだと言うだろうが、教えたって何の役にも立ちはしない。平気でゴミを不法投棄する人間にしても、愛国心はいくらでも表現できるからだ。いわば公の場では愛国心ある人間を演じつつ、ごく個人的な場で社会常識に反する人間を演じることの両立は自由自在なまでに可能である。

 例えばグループで登山する。世話役が「自分で出したゴミは自分で持ち帰ってください」と集合したときと下山の折りに伝える。言われたから、ほぼ全員が従うだろう。言われなければ、勝手に捨てていく。しかし解散場所で解散して世話役の目が届かない個人に戻ったとき、車を使ったりの帰路の途中でサービスエリアやコンビニのトラッシュボックスにこっそり捨てていくのはまだましな方で、信号で止まった車の中から中央分離帯の植え込みや、あるいは人目のない雑木林にでも通りかかれば、そういった場所に投げ捨てたりする始末に終えない者もいる。信号機のある交差点の手前の中央分離帯や道路際の雑木林などは不法投棄の絶好の場所で、例えるなら都会の富士山といったところとなっている。

 場所に応じて自己を演じ分けることができる以上、愛国心は相対的価値しか持ち得ない。胡散臭い政治家でも愛国心を口にすることができるのはそのためである。愛国心がその程度の情操なら、教えても意味はない。

 繰返し言っていることだが、〝自己を愛する〟(自己愛、あるいは利己心)が人間の本質であって、〝国を愛する〟(愛国心)は二義的・三義的な位置にある。〝自己を愛する〟ことと〝国を愛する〟ことの利害が一致した場合は、〝国を愛する〟を一義的な位置に据えるが、しかし〝自己を愛する〟に従わせた〝国を愛する〟であって、両者間に少しでもズレが生じた場合は〝自己を愛する〟が頭をもたげて、それを優先させる。

 従って、〝国を愛する〟を自己を愛する〟を上回る有効な価値とするためには、戦前の日本がしたように心理的な洗脳の方法を用いて信じ込ませて従わせるか、あるいは大日本帝国軍隊が洗脳と同時に用いることもあった物理的強制力によって従わせるか、いずれかの方法があるが、従う者の主体性を奪って強制で従わせ・強制に対して従う社会化(「個人が所属する集団の成員として必要な規範・価値意識・行動様式を身につけること」『大辞林』三省堂)と、そのような社会化を内容として成り立たせた社会にどれ程の価値があるのだろうか。それぞれの行動様式は所詮、グループで登山した場合の世話役の効果とたいして変わらない結末を演ずるぐらいのことしか望めないだろう。

 表向きは天皇の忠実で勇猛果敢、規律正しい帝国軍人であっても、集団で飲みに出かけてだらしなく酔い、嫌がる酌婦にしつこく抱きついたりした一般化していた裏向きの姿を
抱えてもいた。厳しい訓練や規律一辺倒の抑圧から解放されて、その反動が常軌を逸する醜態となって現れたものだろうが、戦前の愛国心はその程度の社会化しか生み得なかった。

 そういった醜悪な姿は戦後もかなりの間サラリーマンが同僚たちと繁華街に飲みにいき、酔うほどに大企業の社員ほど自分たちは何様だといった態度で喚いたり、お互いに肩を組み合って歩道一杯に我が物顔にのし歩いて他人の迷惑を顧みない昼間とは違う顔を見せるといったことで続いた。

 言われたからするのではない、あるいは従わせてさせるのではない、社会のルールに一人一人が主体性をもって関わっていくことで〝自己を愛する〟自己愛・利己心をもその制約下に置く姿勢を持ち得なかったなら、公徳心の問題はいつまで経っても解決しないだろう。〝主体性〟とは、「自己の意志・判断によって、自ら責任を持って行動する態度のあること」と辞書(『大辞林』三省堂)に書いてある。そう、すべては自分が決める行動にかかっている。

 それでも社会のルールを越える者は跡を絶たないだろう。社会の一員としての主体性をいつまでの持ち得ない人間がいるからだ。

 だとしても、愛国心にしても元々相対的価値しか持ち得ない上に一人一人が社会のルールを守る市民としての行動を取れていなければ、口先だけの約束事であり続ける。口先で愛国心を示すことができるからこそ、陰で薄汚い乞食行為をやらかしている人間ほど、愛国心を言い立てることになる。「責任」ある態度で「自己の意志・判断」に従って社会に関わっていくことがすべての基本とならなければならない。そのことは学校の生徒がテストの点を上げることよりも大事なことである。〝愛国心〟以前に問題としなければならないことがたくさんある。

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