小泉式キレイゴトの教育論

2006-05-21 06:08:03 | Weblog

 基本は言葉の教育

 5月17日(06年)の小沢・小泉党首討論で、小沢民主党代表は持ち時間の殆どを教育問題に割いたという。小沢一郎が教育行政の責任は市町村教育委員会にあって、文科省が直接的な責任を負っていない、それを不備として突くと、小泉首相は国家が教育に責任を持てという民主党の対案を協議し、審議を進めていきたいと述べるにとどめ、不備としたことに関しては直接には何も言及せずにうまくかわしている。

 どうあるべきか、どうすべきかのデザインの作成とデザインに従った実際上の実践は深く戦略性の創造に関わってくる。外国の制度をマネして、あっちをいじり、こっちをいじりして積み上げていくことは日本人が最も得意とする分野であって、モノづくりには有効な方法で、大いに活用してきた。

 だが、モノマネの才能を与えられた代償なのか、天は二物を与えない宿命からなのか、人間活動に関わる全体的な理想図とその理想図を機能させていくルールの策定を兼ね合わせたデザインを前以て準備する戦略的創造性に関わる能力は歴史的・伝統的に欠いていて、否応もなしに人間活動の理想的な有機性(活動の全体を構成している各部分が互いに密接な統一と関連を持って影響し合い、発展し合うことで活動の全体そのものをも発展させていく状況)の獲得は不得手としている。阪神大震災時の初期活動の遅れ、救助活動の不手際はこのことの最も顕著な現れであろう。

 そのため、教育の姿と教育方法のあるべき姿をデザインすべき学習指導要領の内容自体が単なるスローガンの羅列か、それに近いもので終わり、実践活動に於いても、創造性の欠如がデザイン自体の不足を補うことすらできずなぞるだけで終わって、発展性も何も望めないこととなる。それを補って外国の制度と外国の技術のモノマネで日本の発展を戦前に於いても戦後に於いても曲がりなりにも支えてきた。

 但し、後に続く中国や韓国のモノマネ技術が安価な人件費や自国に有利な為替相場を武器に日本の経済発展を凌ぐところにまで急迫している。

 断っておくが、暗記教育はモノづくりと同じ工程を踏むもので、与えられた知識をなぞって記憶し、それをテストの回答としてつくり上げていくことでモノづくり同様に完了させることができるが、議論するために考えを編み出したり、考えを発展させて自分独自の主義・主張に創り上げて、それを自分の行動のスタイルとするといった自己活動に有機性を持たせて個を確立することには暗記教育は役立たないばかりか、逆に障害となる。

 党首討論では小沢一郎が「教育の基本的な責任はどこにあるのか」と問うと、小泉首相は「基本的に親にある。幼児期では、自分は認められている、愛されているということを十分に植えつける。これが教育の原点だ」と答えて、「家庭教育の視点ではなく、教育行政の仕組みで責任は、と伺った」(06・5・18『朝日』朝刊)とたしなめられる一場面があったようだ。

 「教育の基本的な責任」が「親」にあったとしても、「自分は認められている、愛されているということを十分に植えつける」を「教育の原点」とするのは、大切な要素ではあっても、情緒的に過ぎ、かつ単純に過ぎる。

 人間はコミュニケーションの生きものである。コミュニケーションによって「自分は認められている、愛されている」という感覚を得ることができる。親の歓びが子供に伝わり、それが子供の歓びとなって、相互に反射し合い、増幅効果を持つ。

 単なるじゃれ合いなら、ごく幼児の間はコミュニケーションを容易に成り立たせることはできるが、子供の各段階の成長を支えるには親が言葉によって表現されるそれなりの見識を持っていなければ、子供に伝えるにふさわしいコミュニケーションを失う。

 昨今よく言われる親子の会話の不在は言葉を伝える習慣を持たなかったか、伝えたとしても、それが子供の成長に合わせて発展していく言葉でなかったために伝えるだけの意味を失ってしまたっか、そのどちらかだろう。

 見識は観察力と判断力を備えて、初めて見識としての体裁を持つ。幼児期に親が仕掛ける単なるじゃれ合いも親の観察と判断によって子供の心理をそれなりに読む込み、それが子に関わる情報として積み重ねられてコミュニケーションに反映し、コミュニケーションは少しずつ新たな中身を加えたものへと変化していく。情報の読み取りも子供の成長に合わせたものとなり、次の成長へと導いていく。

 いわば単なるじゃれ合いも、親の見識の程度で子供に伝わるコミュニケーションの質・内容がおのずと異なってくる。

 小泉首相は後で、「『教育の基本で思い出すのは、しっかり抱いて、そっと降ろして歩かせると言う言葉だ』と教育の持論を語った」(同記事)ということだが、勿論これは単なる身体的動作を言っているのではなく、十分に愛情を注いだ上で、社会に送り出してやることの形容であろう。

 だが、「しっかり抱いて、そっと降ろして歩かせる」だけで教育問題は解決するだろうか。

 「しっかり抱いて、そっと降ろして歩かせる」には親自身がそれなりの言葉・それなりの見識に裏打ちされた内容あるコミュニケーション能力を備えていなければ、子は親から受け継ぐべき社会性をさして受け継がないままに社会に出ることとなって、果たして力を持ち得るだろうか。

 だとしたら、それなりの言葉・それなりの見識を持たない親がいくら「しっかり抱いて、そっと降ろして歩かせ」る愛情の経緯・育みを踏んだとしても、さしたる意味を成さないことになる。

 親が内容ある言葉を持っていることによって、子供は自然と親の言葉を伝え受け、自らも内容ある言葉を持つに至る。親が内容ある言葉に裏打ちされたそれなりの見識を持っていることによって、子供は親の見識を受け継ぎ、親子の関係と並行させながら、学校社会等の人間関係を通してそれを発展させていく。

 逆に親が言葉の能力に貧弱で、言葉らしい言葉を持たず、見識といったらお笑いテレビ番組を酒を飲みながらか、何か菓子をぱくつきながら馬鹿笑いして頭に叩き込む番組から得た知識程度であったなら、それが子が受け継ぐべき言葉となり、見識となる。

 つまり、「しっかり抱いて、そっと降ろして歩かせる」育みは親がそれなりに内容のある言葉を持っているかどうか、それなりに内容のある見識を備えているかどうかによって意味と力が影響を受ける。となれば、親の言葉、親の見識がより重要でより基本的な問題となってくる。

 例えば親が子供の絵本を読んで聞かせてやる。親が言葉を持っているかどうか、それなりの見識を備えているかどうかで、同じ言葉を読むにしても子供への伝わり方が違ってくる。読み聞かせが大事なのではなく、親が言葉・見識を持っているかどうかが重要なポイントとなってくると言うことである。読み聞かせしなくても、子供と散歩に出たとき、言葉・見識を持っている親は花の咲いている景色や木々の様子、空気の吹き心地など様々に語りかけるだろうし、子供は親の語りかけに応じて自分の言葉を口にする過程で新たに言葉を覚え、親の発する情報を頭に積み重ねていく。

 要するに読み聞かせはコミュニケーションの一つの形式でしかない。

 ことさら説明するまでもなく、言葉や見識は親となって初めて持つわけではない。幼児のときからの親との触れ合いによって伝えられ、成長と共に親以外の他者、兄弟や友達、その他の人間との直接的コミュニケーション、あるいはテレビや書物・映画を媒介とした間接的コミュニケーションを通して獲得し、その積み重ねによって内容を整えていく。

 学校で教師が教科書をなぞるだけの知識を生徒が暗記し、テストの回答に当てはめる暗記教育が主で、教師対生徒・生徒対生徒の各種議論(=言葉の闘わせ)を通して対人感受性や自己認識能力を高め、生徒それぞれの考えを確立させていく機会の提供に時間を費やすことなく、これといった言葉・見識を獲得できなかった子供が親となり、子供を持って、その子に対して内容あるコミュニケーションを成り立たせる内容ある言葉・見識を期待できるだろうか。

 こう見てくると、「教育の基本で思い出すのは『しっかり抱いて、そっと降ろして歩かせる』と言う言葉だ」だけでは済まない問題だと言うことが分かる。読み聞かせと同じように、「しっかり抱いて、そっと降ろして歩かせる」も、子育ての基本ではなく、一形式に過ぎないからだろう。

 つまり、教育の責任は「基本的に親にある」ように見えて、一人の人間が子から親に成長する中間に介在する学校教育が常に重要な役目を担う。

 子供は初期的には親の言葉を受け継ぎ、受け継いだ親の言葉を土台として、自らの言葉を形成していく。その親の言葉が鉄筋の数を減らし、直径も細くして組み立てた偽装マンションの耐震強度が不足した土台みたいにいい加減ものであったなら、子供の言葉もそのいい加減さを受け継ぎいい加減な言葉しか獲得できない。そこへ持ってきて学校で暗記教育によって、言葉をつくっていく議論の機会、言葉を闘わす機会を与えらずに符号とたいして変わらないコマ切れ知識を植えつけられるだけで大人となっていき、自分の子供に自分の言葉として伝えていく。その悪循環を断ち切るとしたら、学校が教育方法を変えるしか道はないのではないだろうか。

 日本の教育はどうあるべきかの政策を論ずる国会の場で、「幼児期では、自分は認められている、愛されているということを十分に植えつける。これが教育の原点だ」とか、「しっかり抱いて、そっと降ろして歩かせる」子育てが大切といった情緒的なアプローチは言っている小泉首相自身は得意な気分に浸れるだろうが、様々な問題を抱えているからこそ党首討論の対象となっていることを考えると、そのような立脚点からは何も解決の方法は見い出せるはずもなく、キレイゴトの一言に尽きる。一国の総理大臣がこういった発想しかできないのだから、情けない内容としか言いようがない。経済大国・政治三流国という冷評が当然な受け止めにも思える。

 経済大国・政治三流国に加えて日本の政治・外交に戦略なしといった評価も世界と比較して政治家なりの、官僚なりの言葉・見識を持たないことの帰結であって、将来親となる言葉を持った人間を育てる教育、あるいは将来親となる人間に言葉を持たせる教育をしてこなかったことの欠陥が親から子に延々と繰返されてきて、それが政治や外交、あるいは危機管理その他の日本人の活動に有機性を与えない原因となっているのだろう。

 如何に教育が大切かである。勿論暗記教育ではなく、言葉の獲得の教育である。永久に日本の教育からは望めない項目なのかもしれない。

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