日々はつれづれ

旅に出たいと思いつつ、過ぎていく日々のつぶやき。

3月11日の顛末

2011年03月13日 | 日々のたわごと
被災された方々に心よりお見舞い申し上げます。
一日も早く安心した日常が送れるようになるよう、お祈りいたします。


3月11日午後3時少し前。
私は上野駅地下鉄銀座線のホームで電車を待っていました。
小さな揺れから始まった地震はやがて床がうねるように。
向かいに停まっていた電車もゆらゆらと揺れていました。
しかし地下だったせいか立てないほどの揺れでもなく。
だからこんな大きなものだっとは思ってもみませんでした。

2回目の地震はまだ地下鉄の改札付近。
情報を得ようとそこまで戻ったのですが直後では分かるわけもなく。
このときすでに携帯電話は通じませんでした。
私の電話はソフトバンク。一番つながらない電話です。
なので改札外の公衆電話で先方に連絡を入れ、とりあえず地上へ。

地上ならば携帯のワンセグも入るのでそれで大きな地震があったことを知りました。
1回目と2回目では震源地が違うことも。
それでもこの段階では電車が動くまでどこかで時間をつぶそう、とのんびりと構えていました。
しかしマルイをはじめデパートなどは閉鎖され入ることができず。
地下鉄に戻りトイレだけ借りてタクシー乗り場へ行くことに。
これが午後4時くらいの時です。

タクシーの列はどんどん延びていきましたが、幸い私は前半のほう。
だから待っても2~3時間だと思っていたのです。
けれども時間と共にどんどん列の進みが遅くなり。
やがてJRの駅もシャッターが下りて閉鎖。
待ち時間が3時間を越える頃には前後の方々とお話しするようになりました。
ひとりでいる人も何人かいたので、みんなで交代しながらトイレに行けたり。
おまけにホッカイロやお菓子などをいただきました。
私は飴のひとつも持っていなかったので、代わりに情報を提供することに。
このとき一番つながったのがワンセグとツイッター。
帰宅困難者のための避難所の案内なども始まりました。

地震直後に送られたらしいメールが届いたのは夜7時前。
さらに父の携帯(ドコモ)とつながったのが夜8時。
兄(ソフトバンク)とは相変わらず通話もメールもつながりません。
このあたりで歩くことにした方、迎えの連絡が取れた方などが離脱。
それでも最悪今日中にはタクシーに乗れるのでは、と思っていました。
前後の方々で同じ方面の人は相乗りしようと固まっていたし。

しかし夜10時になっても少ししか列は進んでおらず。
なまじ待ち時間も長く、乗り場も見えているだけに無駄に時間が経ってしまいました。
近くの避難所はもう満杯だということでしたし。
列にはお年寄りも子供も遠方の方もいます。
それに比べて私は歩いても20km弱くらいのはず。
とりあえず荒川を越えよう、と決断したのは日付も変わった午前1時。
随分と遅い決断でした。

まだ道には歩いている人も多く。
スカートにヒールで9時間ほぼ立ちっぱなしの後の歩きはとてもゆっくりでした。
でも荒川を越えたあたりでタクシーを捕まえることができ。
家にたどり着いたのは午前4時半でした。
友人の中には会社の窓が割れ、8時間歩いて帰った人。
会社にとどまり、翌日のお昼頃ようやく自分の子供に会えた人。
山形の蔵王に旅行に行って、新潟まわりで帰ってきた人など様々です。
古いマンションの11階の兄の家も食器棚が倒れ散乱し、ドアが壊れていたそうです。

家では父がいつでも避難できるよう準備していました。
そこで改めて被害の大きさ、壊滅という言葉のすさまじさを認識しました。
今でも身体に感じるかどうかのものから少し揺れるくらいまでの余震が続いています。
うちでこのくらいなら、被災地はどれほどのものかと思います。
また、幼い頃水害で体育館に避難したことがありますが、あの床の固さと冷たさは今でも覚えています。
真夏でもそうだったのです。
現在どれほどの不安と寒さがあるのか想像もできません。
そして改めて今まで大きな災害に遭われた方々の苦難と復興の努力に頭がさがる思いです。
人は自分で経験してみないとわからないことは多いです。
でも想像して心を寄せることはできます。それが思いやりだと思っています。
私にできることならばできるだけ力になりたいと思っています。

一日も早い復興を願うばかりです。
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