もうチョットで日曜画家 (元海上自衛官の独白)

技量上がらぬ故の腹いせにせず。更にヘイトに堕せずをモットーに。

金鵄勲章と九段の母

2020年05月22日 | 歴史

 同居人の蔑視を避け、「九段の母」をヘッドフォンで聞いていた。

 ♬「・・金鵄勲章が見せたいばかり・・」、ハテ、金鵄勲章の詳細を知らないと勉強した。金鵄勲章は、日本唯一の武人勲章とされ、武功のあった陸海軍人および軍属に与えられたもので、1890(明治23)年紀元節(2月11日)の「金鵄勲章創設ノ詔勅」によって創設され、「武功抜群ナル者」を「功一級」から「功七級」までの7等級に分けて授与したしたものであり、1947(昭和22)年の日本国憲法公布によって廃止されたことを知った。勲章名の「金鵄」は、神武東征の際に神武天皇の弓にとまった黄金色のトビ(鵄)が光り輝き、長髄彦の軍兵の目を眩ませたという伝説に基づいている。大東亜戦争中には中断されていた生存者叙勲制度が1963(昭和38)年に再開されて他の勲章の叙勲は再開されたが金鵄勲章は廃止されたままで、公の場での佩用すらも禁止されていた。金鵄勲章叙勲者は、名誉と年金の復活を求めて活動した結果、当時の中曽根首相の後押しもあって1986(昭和61)年には佩用が再び認められている。金鵄勲章は戦功に応じて授与されるため、将官や皇族軍人といえども相応の武功がなければ授与されなかった。受賞者は、延べ(重複受賞もあり)約100万人(日清戦争:約2000人、日露戦争:約10万9600人、第一次大戦:約3000人、満州事変:約9000人、支那事変:約19万人、大東亜戦争:約62万人)とされているが、各戦争における戦死者数や受勲の割合が必ずしも一致しないので、戦死=金鵄勲章という単純なものでは無く、武功が重視されたものの、武功の解釈が世相を反映して変化していることも考えられる。また、陸海軍大臣・参謀総長・軍令部総長としての功績も「武功」とされたことによって、寺内正毅陸軍大将(総理大臣・朝鮮総督)や米内光政海軍大将(総理大臣)のように前線に出ずに功一級を受けた例もある。 金鵄勲章の受勲者が尊敬されたことは、宮中席次において、金鵄勲章の功級は同じ数字の勲等よりも上位にあったことにも示されている。また肩書の記述では、職、階級、位階、勲等、功級、爵位、学位、氏名となり、資料には「枢密院議長元帥陸軍大将従一位大勲位功一級公爵山縣有朋」と例示されていたし、故郷にあった戦死者の墓碑銘も「陸軍伍長 勲六等 功六級○○」と記されていたことを思い出したが、終戦までの国民にとっては金鵄勲章に込められた報国を誇りとした心情は我々の想像を超える高見であったのだろう。

 現在の自衛官には定年後における生存者叙勲の道はあっても、戦死者に対する叙勲制度は無いように思える。殉職者に対する国家公務員災害補償法による一時金(賞じゅつ金)制度は有難いものであるが、功績を示すには不十分であるように感じられる。子孫が胸を張って父祖の功績を語り継げる証としても、金鵄勲章のような武功勲章・武人勲章は必要なのではないだろうか。


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