終戦の日を前にして、大東亜戦争に関する報道が増えている。
報道の多くが依然として「開戦は政府の事変不拡大方針に従わなかった軍部の暴走」であるが、漸くにして「なぜ軍部が暴走したのか」という視点から考察する論者が散見されるようになった。
「軍人の暴走に依る開戦」論の多くが始点を1931(昭和6)年の柳条湖事件や1937(昭和12)年の盧溝橋事件に置いているのに対して、「なぜ軍部が暴走」論では始点を40年ほど遡った1895(明治28)年の「日清戦争後の三国干渉」にまで戻しているのが特徴的である。
云ううまでも無く三国干渉は、日清戦争の下関講和条約で日本が割譲を受けた遼東半島を独・露・仏の要求(干渉)によって清国に返還せざるを得なかったものである。
「なぜ軍部が暴走」論では、三国干渉が日露戦争を引き起こす引き金になったのみならず、世論が先軍志向に変化した転換点と捉えている。日本の遼東半島返還は、干渉した三国と事を構えるには絶対的に国力が不足しているという冷静な政治判断であったが、当時の最大メディアである新聞は挙って「弱腰政府の国辱外交」と煽り、日清戦争に出征・従軍した兵士、特に戦死者の家族を中心とした世論の「我々の流した血を無駄にした」との主張は、冷静な政治判断を不可能にするまでに変化してしまった。更には、自由民権のカリスマ的論者とされていた徳富蘇峰ですら変節したことに見られるように、識者・国民が政治家の行う外交・政治判断を信用しない・支持しない素地が拡大して、今様に表現すれば国民が「シビリアンコントロールを機能させない環境」を自ら選んだことになると思う。当時のメディアが多用したとされる「臥薪嘗胆」は、「軍人が頑張り・銃後さえ耐え忍べば」何時の日か政府が行なった屈辱を晴らせるという世論を形成して、日露戦争の勝利によって絶対的な日本と日本軍の不敗神話にまで成長したのではないだろうか。
1945(昭和20)年の終戦内閣首班の東久邇宮首相は記者会見で「一億総懺悔」と述べた。この背景には連合軍の戦争犯罪者追及をかわしたい意図があってのことかも知れないが、多くの国民が「大東亜戦争は国民の総意の下に遂行されたので、程度の差はあれ敗戦の責任は個々にある」との民意を代弁したものであるように思える。
その後、雨後の筍のように現れた「もともと開戦に反対した知識人」が、GHQに迎合して「戦争責任は軍部にある」と主張したことによって、世情が落ち着いた1960年代以降は「開戦は軍人の暴走論」が定説となったように思える。
終戦の日は、GHQ指示・東京裁判に立脚して構築された「太平洋戦争の定説」を「自分なりの大東亜戦争とは?」と考える日にしたいものである。
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