麻生太郎副総理兼財務相が、記事の訂正と謝罪を求める通知書を西日本新聞社(福岡市)に送ったことが報じられた。
記事は、「菅総裁が麻生氏に、党役員人事で麻生派の河野太郎氏起用を打診した際に『おまえと一緒に、河野の将来まで沈めるわけにいかねえだろ』と声を荒らげた」としたものである。
攻防の概要は、「記事にあるような発言をした事実はない」「記事を執筆した記者から取材を受けた事実はない」「記事の訂正と謝罪を強く求める」と抗議した麻生氏に対し、西日本新聞社はマスメディアの定型句「記事は十分な取材に基づいている」と反論していることである。
真偽は不明ながらこの小咄的報道が成立するのは、麻生氏周辺が「首相という立場的に目上の人にあのような言葉遣いはしない人」としていることに対して、受け手である読者には《麻生氏ならば「言いかねない」若しくは「言ったかもしれない」》との認識があることであるように感じられる。
昨今は、事実を誇張することを「話を盛る」と云い、バラエティ番組では盛んに見られる。しかしながら、バラエティで「盛る」ことが容認または笑いに変えられるためには不可欠の条件が必要で、1は「対象者が同席している場合」、2は「ツッコミで「盛り」を和らげ・修正してくれる人が存在する人が居る」ことである。1の場合には「盛り」の応酬・訂正で場を盛り上げ、2では「盛り過ぎやろ」や「ホンマカ」のツッコミを機に「盛り過ぎでした」で一件落着という進行になるが、2条件のどちらも無い場合には、単なる悪口となり「盛られた話」は事実となってしまう。
マスメディアの報道も先に挙げた2条件のどちらも満たさない一方通行であるために、盛られた悪口は事実と捉えられて独り歩きを始めてしまう。
いかに、麻生氏が福岡県の飯塚、火野葦平描く「花と竜」の川筋者にルーツがあるとしても、小学校以来学習院で学ぶとともに会社経営や日本青年会議所の会頭などの組織運営に携わった経歴を見る限り準公式の場で「おまえ」という言葉は使用しないであろうことを考えれば、西日本新聞の記事には「盛り」の気配が濃厚に思える。
記者の取材先が本人や同席者であるとは考えられないので周辺取材や伝聞に基づいていると考えるのが適当と思うが、伝聞には伝聞者の「盛り」が含まれているのは避けられないことは心しておく必要があったように思う。
「おまえ」や「沈める」等のセンセーショナルな字句を使用しないで「拒絶」や「断固拒絶」という言葉で会談の場を描写すれば、ニュース性は十分にある内容になったであろうが、発言を「盛った」ことでニュースとしての価値まで失ったように思える。「話を盛る」ことに違和感を持たない世代の記者が増えるにつれ、今後とも「客観的に伝えればニュースとして価値ある事実が、盛ったためにフェイクと化す」ことは増えるのではないだろうか。