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もうチョットで日曜画家 (元海上自衛官の独白)

技量上がらぬ故の腹いせにせず。更にヘイトに堕せずをモットーに。

総理補佐官の今井尚哉氏を知る

2020年07月28日 | 与党

 アメリカのシンクタンクが、今井尚哉総理補佐官が対中融和派のキーマンの一人であるとする報告を国務省に提出したことが報じられた。

 報告は、有力なシンクタンク「戦略国際問題研究所」が国務省の支援を得て2年間に及ぶ調査の末に作成したもので、日本における中国統一戦線工作部の影響力と成果について纏めたものとされている。この中で、日本の対中融和勢力の中心人物として、二階俊博自民党幹事長とともに内閣総理大臣秘書官兼補佐官の存在を挙げている。二階幹事長については習主席の国賓招待の旗振り役として中国擁護の姿勢が鮮明であるとは知っていたが、アメリカが注視する今井補佐官について良く知らなかったので調べてみた。今井氏は1982(昭和57)年通産省入庁、2012年の第2次安倍内閣に安倍総理に乞われて政務担当の総理秘書官に就任、以後一貫して官邸勤務を続け2019年の第4次安倍内閣で政策企画の総括担当補佐官を兼務している。シンクタンクの報告では、今井氏が安倍首相に対して中国の一帯一路構想やアジアインフラ投資銀行(AIIB)に融和的な姿勢を取るよう説得しており、二階幹事長と同等の影響力があると分析している。更に二階派と呼ばれる派閥も実態は「二階・今井派」であるとして、両氏の思想と行動が一体であることをも示唆している。田中角栄氏の政務秘書を23年間務めた早坂茂三氏、橋本・小泉両政権で総理補佐官を務め先日中国ウイルスで死去した岡本行夫氏など、退任後にメディアで活躍した秘書官や補佐官は知っているが、自分のような素人は現役総理補佐官の動向については良く知らない。しかしながら、政界では、ロシアとの共同経済活動や中国の一帯一路やAIIBへの参加に積極的な今井氏は、影響力の大きさから「影の総理」と見る向きもあるともされており、報告作成の趣旨に照らせば二階氏・今井氏に中国統一戦線工作部の影響力が及んでいる懸念が込められているのではないだろうか。

 昨日のブログで、文部科学省の地理歴史科主任教科書調査官である中前吾郎氏の明らかな偏向と、氏が構築したとされる「省庁をクロスドメインする親中北ネットワーク」が霞が関・永田町で無視できない勢力になっていることを懸念したが、今回の調査・分析を見る限りあながち穿った見方ではないように思える。二階派にはIR汚職で起訴された秋元司議員も所属していたことから、中国統一戦線工作部と傀儡企業の注力の方向が、中前氏のネットワークを介した一体・同根であるように感じられる。自分はこれまで立憲民主党などが中国の意をくんでいると書いたが、考えてみれば政策決定に殆ど影響力を持たない野党を支援するよりも、政策を立案・決定する官僚・与党を直接薬籠に入れる方が効果的であり、獅子身中の虫は案外なところに巣くっているのかも知れない。


西村経済再生担当相と吉村大阪府知事

2020年05月08日 | 与党

 西村経済再生担当相と大阪府知事の論争が有耶無耶に終わった。

 論争は、中国コロナの感染拡大防止のために政府が出した緊急事態宣言を巡り、大阪府知事が外出自粛・休業の要請を解除する基準を「大阪モデル」として発表した際に「本来ならば国に示してほしかった」と付け加えたことに、西村大臣が不快感を示したことである。確かに特措法では緊急事態宣言下での外出や休業の自粛・解除は都道府県知事の権限とされているが、緊急事態宣言の発令を政府が行う以上、解除の基準も国が示すべきではないだろうか。まして、緊急事態期間延長の記者会見で、総理が国民に一層の自粛を要請したこと等に依って大方の国民は緊急措置は政府の指示と感じている。緩やかな中央集権であるアメリカでは、州知事の権限が極めて大きいためにニューヨーク州とカリフォルニアでは感染者が大きく異なる結果となったが、日本の場合東京都を除く道府県は3割自治と呼ばれるように政府からの地方交付金無くしては運営が困難であるために、政府の力が絶大である。また、政府が示したふるさと納税返礼基準に従わない自治体には交付金が減額される等、政府も交付金を自治体コントロールの武器として使用している。さらには、医薬品の流通・配分は政府が統制していることからも緊急事態宣言下での道府県知事の権限は法の趣旨以上に制約されていると観るべきではないだろうか。以上のことを考えれば、「国が基準を示せ」という吉村知事に軍配を挙げたくなる。府知事の発言に不快感を示した大臣が経済再生担当大臣であることも腑に落ちない。勘ぐれば大阪モデルに経済的なファクターが入っていないことに対する不満からで、喫緊の事態にあっても何とか発言権を保とう・1枚かんで存在感を示そうというさもしさが感じられる。西村大臣に求めるのは、コロナ戦争の渦中に立つことではなく戦後処理・補正予算の適正な執行であり、万端の準備は整ったのかと問いたい。

 不十分ではあるが経済活動も再開し、朧気ながら出口が見えつつあるように思える。しかしながら、欧米人が散々馬鹿にしていたマスク着用が国際基準とされる等、新しい生活・行動様式が求められるようになっているようである。テレビ放映されたフランスの小さなブティックでは、同時入店者は2人まで・入店者が触った商品や試着室は直ちに除菌・体面は1m以上離れて等の新しい販売方法を模索しており、コロナ以前に戻ることは無いだろうと女主人が嘆息していた。


総理会見と集・近・閉に思う

2020年05月06日 | 与党

 「安倍首相が4日記者会見を開き、全都道府県を対象に5月31日まで、緊急事態宣言を延長すると発表した」

 上に示した文章は総理会見を報じる新聞記事の冒頭であるが、あの会見は記者会見である必要があったのだろうかと思う。記者会見と銘打った以上、どの部分を切り取るかは報道各社の裁量(編集権?)に任されているため、テレビ放映されるのは会見の1部と放送局が取捨した要約であり、全ての発言内容を知るためには翌日の新聞を待つ必要がある。今回のように全国民が何らかの犠牲を求められるような事態にあっては、記者会見よりも直接国民に語り掛ける方が効果としては大きいのではないだろうか、各局の映像を見ても首相の顔の向きはまちまちでカメラに視線を向けた映像は少ない。キューバ危機やイラク戦争時にアメリカ大統領が国民の支持と結束を訴える画像では、視線は常にカメラに向けられており視聴者は自分に語り掛けられていると感じることができる。補足質問が可能である記者会見も必要であろうが、キー局の放送時間を15分間程度借り上げて執務室から1台のカメラを正面から見据えて語り掛ける方が効果は遥かに大きいのではないだろうか。その際、淡々と語り掛けるか熱情的に振舞うかは別にして、人柄と真意は確実に国民に届くと思われる。ヒットラーやケネディーの例を引くまでもなく弁舌で国民を動かした例は数多く、日本でも中野正剛の弁舌は夙に有名である。理論明晰・言語不明瞭と云われた故大平正芳総理はともかく、安倍総理の弁舌は爽やかとお見受けするので、是非に考えて欲しいものである。

 本日掲載された月刊誌の広告でケント・ギルバート氏が「3密?、集・近・閉と言おう」と寄稿しているのを見た。改めて書くまでもなく習(集)近平(閉)への当て擦りであるが、言い得て妙と感じ入った。時としてスポーツ紙の大見出しにはウイット満載でありながら真実を窺える秀句が多いが、集近閉は中国(武漢)ウィルスとともに本質を突いている。小池百合子都知事もカタカナ語多用には辟易させられるものの時宜それぞれにキャッチフレーズを編み出し、制度や行動様式の変化定着に成果を挙げておられるが、政府発信のっキャッチフレーズは少ないように感じられる。政府も官房長官に会見させるよりもの専門報道官の起用を検討すべきではないだろうか。中国外務省報道官の「聞く耳持たぬ」「中国共産党以外は虫けら」態度には怒りを覚えるも、断固とした政府見解の伝達には相応しいようにも思える。


森雅子法相・振袖火事・性善説

2020年03月15日 | 与党

 森雅子法相の検察官逃亡発言が炎上している。

 発言に至る経緯や背景はさておき、下敷きとなったのは東日本大震災時に福島地検が逮捕・勾留中の容疑者計33人を処分保留で釈放したことである。検察関係者は「震災の影響で、容疑者の身柄の安全確保や被害者からの聴取など捜査の遂行が困難になったため」と説明しているが、福島県警は「裏付け捜査や護送のための警察官は配置し、留置場の食事の確保もできていたので釈放の理由を警察の事情とするのは論外だ」と反論し、当時の法務大臣江田五月氏も後に「不適切であった」と陳謝していることから福島地検の態勢や人員が十分でなかったことは考えられる。また、釈放決定が民主党政権の意志によるものか否かは不明であるが、震災の半年前に起きた「尖閣水域で巡視船に体当たりした中国人船長を政治的判断で釈放」したことと同根ではないかとも噂されている。地検は処分保留で釈放した者は軽微な事件の容疑者としていたが、実際には強制わいせつ容疑者や覚醒剤取締法違反容疑の暴力団組員も含まれており、さらには処分保留者の一部が再犯を起こした事例もあったことから釈放の是非が問われるものであった。災害に伴う囚人の釈放で思い出されるのが、振袖火事と呼ばれる明暦の大火での「切り放ち」である。火勢の迫った小伝馬町の牢屋奉行である石出帯刀吉深は、焼死しそうな罪人たちを哀れみ、大火から逃げおおせたら必ず戻ってくるように申し伝えたうえで、罪人たちの「切り放ち」を独断で実行した。罪人たちは涙を流して吉深に感謝し、結果的には約束通り全員が戻ってきた。吉深は「罪人たちは大変に義理深い者たちであり、死罪も含めた罪一等を減ずるように」と老中へ進言・幕府も減刑し、緊急時の「切り放ち」が江戸幕府施政下で制度化されるきっかけにもなった。自説の繰り返しになるが、この「切り放し」に現在の司法・行政が「諸人の性すべて善」とする性善説で法律を操る原点(盲点)があるように思える。明暦の「切り放し」では、死刑囚までも「牢屋奉行の温情」に感泣して牢屋奉行が処罰されることを危惧して「走れメロス」的に出頭したが、保釈犯が逃亡を図ったり児相が帰宅させた児童が虐待死させられることが相次ぐ昨今の風潮と民心では「明暦の切り放し」は成立・再現し得ないだろうと思えば、福島地検の対応は疑問符が付けられて当然であろう。

 森法相は、東京高検検事長の定年延長に関する検察庁法と国家公務員法の法解釈変更を巡って立ち往生しているが、検察官逃亡発言でさらに追い詰められる格好となった。しかしながら、大震災では身を挺して奮闘した多くの人々の陰に、岩手県選出でありながら震災後半年近く沖縄で生活した小沢一郎氏のような人物もいたことを思えば、森法相の「検察官逃亡」発言にも一片の真実が隠されているのかも知れない。指導的立場にあるか否かを問わず、「瓜田に沓を納れず。李下に冠を正さず」は肝に銘ずべき格言・箴言であるように思える。


「安倍さん」でいいのか?

2020年02月17日 | 与党

 つけっ放なしのテレビから流れる「安倍さん」に違和感を感じた。

 番組はニュースバラエティーで、MCの宮根誠司氏が政府の対応についてコメントするものであったが、宮根氏は「安倍さん」を連発していた。そういえば関口宏氏も同様である。何時の頃からか、TVは自国の総理を「さん付け」で呼ぶようになり、我々視聴者もさして違和感を感じなくなってしまったのだろうか。好悪は別にして1国の指導者に対して「○○さん」は無いのではないだろうかと思って調べてみた。デジタル大辞泉の解説には【「さん」は「様」から転化したもので、人を表す語や人名・役職名・団体名などに付いて尊敬の意を表す。また、動物名などに付けて親愛の意を表すこともある。「お嬢さん」「田中さん」「部長さん」「お猿さん」』となっているが、自分では「さん」は尊称ではなく同僚間や社会的地位が判らない人との人間関係を和らげるために使用するもので、社会的地位がはっきりしている人には「役職」を、無位無官ではあるが人格者(又は人格者らしい人)に対しては「先生」と尊称するのが普通で、そこから「先生と 呼ばれるほどの 馬鹿で無し」の川柳も諧謔味を持つと思っている。時代劇では征夷大将軍を、庶民は「公方様」幕臣は「上様」と表現しているように「様」は依然として尊称であるが、現在使用されている「さん」は既に尊称ではなく呼び捨てにするのははばかれるための便利ツールでしかないように思える。メディアでは、従来呼び捨てであった犯罪者に対しても容疑者・被告・受刑者と語尾に付けて報道しているが、総理を「さん」と表現するのも軌を一にしたものかも知れない。尊称が混乱している例は他にもあって、ローマ教皇が来日した際には「ローマ・カトリック教会教皇のフランシスコが・・・」なる報道もあった。教皇の言葉を何処に付けようとも尊敬表現とする感覚であろうが、尊称とするならば「ローマ・カトリック教会のフランシスコ教皇」とすべきであり、前述の表現が許されるならば「日本国総理の安倍が・・・」なる中韓式表現も尊敬表現となる。

 宮根氏、関口氏にすれば「政治を卑近なものに」「親しみを込めて」という思惑を持っているのかも知れないが、言葉を操ってメディアに糊口を求め、公共の電波を世過ぎの手段にするからには、正しく(古来からの日本感覚による)尊称を使用して欲しいものである。甚だしい例では、皇族に対しても「美智子さん」「雅子さん」と呼ぶ例もあるのは、尊称の崩壊以上のものを感じる。特権階級の観念が比較的薄いとされるアメリカにおいても、大統領記者会見の最後には代表記者が「Thank you sir Mr. President(有難うございます大統領閣下)」と締めくくるのが慣例とされているそうである。ネットに氾濫する呼び捨て表現は論外としても、「安倍さん」が「礼を重んじる国」を崩壊させる蟻の一穴になりかねないと懸念するところである。