another Beatle

フリースタイル、且つ、創造的。(これが、理想ですが--)

幼なじみ槇辺玲二のこと/ 50才少しで死んだ歌人

2008-11-24 00:38:49 | Weblog
私は生まれてから14年間九州で暮らしていました。
福岡県の今の北九州市です。当時は北九州市はまだなくて、
若松市、戸畑市、小倉市、八幡市、門司市の五市がありました。
その五市がある日、合併して北九州市になったのです。
若戸大橋はその象徴です。(若松と戸畑を結ぶ橋です)


       



私は、その中の若松市に住んでいました。
昔は、五木寛之さんが「青春の門」で書いたように、
福岡県は炭鉱の町でした。若松市も炭鉱の積み出し港として、
長い間栄えていました。枕元を石炭を積んだ貨物列車が走ってました。
今はそれを、知らない人がいるくらいです。


少し前置きが長くなってしまいましたが、
実は、槇辺玲二とは5歳位からの幼なじみでありました。
いつから彼が、文学に手を染めるようになったのかは知りませんが、
私も大人になって、大阪に住むようになってからは、
彼からの年賀状が毎年来ていました。
年賀状にはいつも、約10篇位の短歌がガリ刷りされていました。
毎年、その年賀状を貰うのが楽しみでした。

そして、時々私は、九州に帰ったときに、彼と会ったりしてました。
一緒に、食事をし、酒を飲んだり(私は飲めませんが)、
彼の家に泊まったりしてました。文学談義なんかもしました。

彼は小さい頃から、母と二人暮しで、一生独身を貫きました。

結論から言うと、晩年彼は不幸で、長い間、病の床にあり、
退院してからも、体の具合もあり、働いていませんでした。
経済的にも行き詰まっていたようでした。


いつの日か、私の出した葉書が返ってきました。
戸畑郵便局の説明が付けられてあって、
本人死亡のため差出人に返却と書かれていました。

悲しい最後でした。
どんな死に方をしたのかも分からないし、
その時は、彼の母親もとっくに死んでましたから、
彼一人で暮らしていたわけです。
その時は何も考えていなくて、
彼が死んだことが悲しいだけでしたが、
今思うと、郵便局がわざわざ、
本人死亡というコメントを付けて差出人に返して来ますか?
誰一人彼には身寄りが無かったのでしょうか?

その辺は、私にとっては謎です。



以下は
彼から以前に貰った本
「新日本歌人歌集」の中にある彼の短歌からの、
私自身の抜粋です。


****************************



マッチ擦る束の間炎の視野を灼くなにかに耐えし君の表情


対岸となりてみるときわが街は意外に貧しき灯にて寄りあう


                    ----街にて---より




いちはやく無人の駅より咲き初める花群鮮烈に筑豊の夏


浪花節路地に流れてくる一戸そこのみ灯して炭住は夜  



                   ------筑豊挽歌---より




傲慢に低き街並み見下せるネオンも消えて街にくる朝


蛇口にはじくみず飲みゆけば醒めながら朝の意識は仕事にむかう


降り初むる雨の微粒をはじきゆくアスファルト道よりけむりたつ朝

 

                  ----けむる朝-----より




こともなく離婚決めしと言う君の手にうごきなきコーヒーカップ


耐えがたくそらせば視野となる机上「ジェーン・エア」は風にめくれる



                   ------破局----より




失意の日支えてとおく花のある切手貼られてくる君の文


唐突に「海がみたい」と言うときに駆けぬけてくる君のかなしみ


いつしかにわたしのなかでいっぽんの樹となり戦ぐあなたへの愛 



               ------花ある切手---より




「 わたしが選んだこの数編は
彼がわたしに残してくれた、彼から
わたしへの
贈りものでしょう。」
コメント (6)
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