another Beatle

フリースタイル、且つ、創造的。(これが、理想ですが--)

ヘヴン 川上未映子

2015-07-21 00:03:27 | Weblog

 

昨日と今日、二日の間にこの小説を読んだ。

作者は女性ではあるが、主人公は男性である。

どこまで、作者が男性の内面を描けるのか興味があったが、

最後まで、作者(女性)の影を作品の中に感じることなく、読み終えることが出来た。

 

話の根幹はこうである。

中学校のクラスの中で、僕、主人公は、毎日のように、苛められている。

蹴られたり、殴られたりしている描写が続く場面も多くあるが、

決してその類の小説ではないのは、読んでいて感じ取れる。

あくまでも私はそう感じた。

主人公は斜視である。そのことで、本人は苛められていると思っている。

クラスの中の女生徒の中に、もう一人苛められている人間がいる。

コジマという女生徒である。

この女生徒から僕に対して手紙が来る。

 

四月が終わりかけるある日、ふで箱をあけてみると鉛筆と鉛筆のあいだに立つようにして、

小さく折りたたまれた紙がが入っていた。

ひろげてみるとシャープペンシルで、

<わたしたちは仲間です>と書かれてあった。    ----------(冒頭抜粋

 

コジマからの手紙が発端となり、主人公とコジマは手紙のやり取りを

続けて行くことになり、たまに二人で会ったりもする。

手紙のやり取りの内容や、逢瀬の内容の描写の間にも、

この二人を取り巻く学生たちの苛めの描写が途切れることなく続く。

 

主人公、僕は、自分が苛められる理由を、自分の斜視のせいだと思っている。

実際、苛める側の学生、二宮らからはロンパリと呼ばれている。

その対極にある、苛められているコジマを取り巻く、苛めの描写も徹底している。

全体を通しての苛めの描写は明らかに、主人公、僕の方が多いが。(参考、までに)

 

主人公、僕と同じく苛められているコジマが仲良くなっても、

ごく自然である。

私はこの小説を読みながら、二人の間の進展を予想していたが、

作者はそんな風にはストレートには持って行っていなかった。

却ってそれが、読む者を引っ張っているような気がした。

読んでいて二人の間の手紙の内容には惹かれた。これから先、どうなるのだろうかと。

しかし、恋愛の場面は一度たりともない。

ただ、コジマが斜視の僕に対して、あなたの目がすき。という場面は数回あったが。

(後述するが、主人公の斜視は小説のラストになって大きな意味合いを持って来る。)

 

二人の手紙の交換と逢瀬は続いては行くが、

小説の終わりの方になって、この流れが崩れて行く。

コジマが僕を理解出来なくなる。

普通に言わせて頂けば、良好な友愛関係が崩れて行くのである。

コジマの僕に対してのマイナスの認識が生じ、揺るがないものになってくるのである。

その後、主人公、僕が手紙を書いても、一向にコジマからの返事は来ない。

主人公、僕の同じようなアプローチが数回続くが、コジマは反応しない。

クラス内で顔を合わすことが会っても、以前のような、周囲に気を配ったような、

控えめな笑い顔もない。

根幹としての二人の手紙のやり取りや、逢瀬の様子、亀裂の様子の描写が続くが、

その根幹を崩さないように、さまざまのシーンが小説途中に挿入されている。

主人公、僕が暴力による怪我で病院に行くシーンや、

そこで、主人公を苛める側の人間に会ったり、

行った病院で主人公がドクターに斜視の手術を勧められたり、

コジマの家庭環境のことやら、主人公、僕と、母親のやり取りとかが、小説の流れに

沿うように挿入描写されている。

 

特に主人公、僕が病院で苛める側の人間に会って、

どうして苛めるのかをその人間に問い正し、それに対して、

苛める側のキャプテン格の人間の取り巻きである人間が、苛める側の論理を展開するシーン

はこの小説の中心核とも言える場面である。

長い、苛める側の話し言葉(論理)が小説の中に続く。例えばこうだ。

 「自分がされたらいやなことからは、自分で身を守ればいいじゃないか。単純なことじゃないか。

ほんとうはわかってるんだろうけどさ、『自分がされたらいやなことは、他人にしてはいけません』っていうのはあれ、インチキだよ。---

こんな風に長々と苛める側の論理が展開される。

 

一方、主人公、僕がコジマに出した手紙にようやく返事が来て、二人は会うことになる。

しかしこの状況はコジマが作ったものではなく、クラスの苛める側の人間たちが、主人公、僕とコジマの

やり取りを知って、コジマに手紙を書かせて、主人公を呼び出したものだった。

約束の場所に着いた時、主人公はコジマに話しかけてはいるが、コジマの反応はない。

ベンチに座り、コジマの手に自分の手を重ねたりしている。

その時である。苛める側の人間が二人の前に現れるのである。

総勢6,7人くらい。

コジマは主人公を呼び出すために利用されただけだった。

そこで凄惨な苛めがスタートする。

殴られ、蹴られに続き、服を脱げ、セックスをコジマとして見せろ、とか、

これ以上ない醜悪な苛める側の行動が展開される。

主人公はコジマとセックスをしていた訳ではないと言い拒否をするが、

全く受け入れてもらえなかった。

コジマに対しても勿論、主人公僕に対してしたあられもない行為行動が同様に行われる。

 

しかし、苛めに対して、何の防御もできなかったコジマが小説の最終章で見せる

苛める側に対しての彼女の強さは読者に強固な印象を植えつけ、小説をより創造的にしたと思う。

より読者を惹きつけた場面である。

 

裸にさせられたコジマが苛めの側に対して牙をむく場面である。

裸になったコジマは真っすぐに背筋をのばして、そのままじっと二ノ宮のすぐ目のまえで立っていた。

コジマはほほえんでいた。

誰もなにも言わなかった。

コジマは完璧なほほえみを浮かべた顔で、裸のままゆっくりと回転して、二ノ宮にむきなおった。

それから両手をひろげて、目をみひらき、口をあけて大声で笑った。(原文引用)

 コジマの一連の行動は続き、取り巻き連中を恐れさせたりもするが、終局、二宮が後ろからコジマの髪を引っ張って地面に倒してしまう。

それを見た主人公が心配して、コジマに近寄る。

ここで第三者の介入がある。

「何してるの」 中年の女性ががこの光景を見つけるのだ。全裸のコジマ、主人公、それに二宮たち。

ここで二宮たちは逃げて行く。

全裸で仰向けになったコジマを起こす主人公。

涙を流すコジマ。涙を流す主人公、僕。

しばらくして人がたくさん来て、コジマに毛布を掛け連れて行く。

しばらくして人がやってきた。毛布をかけられて大人たちに抱えられて去ってしまうまで、コジマも僕を見ていた。

それが僕が見た最後のコジマの姿になった。(原文引用)

この小説には9章あって、8章の最後がこうである。

 

そしてラストの9章は斜視の手術を扱っている。

母親との会話があって、そこで手術のこと、学校での苛めのことを話したりする。

手術が済んで眼帯を外して外の光景を見たときに、主人公はその美しさに感動する。

今まで見たことのない風景だった。

その風景のことが2ページくらい続く。

この最終章のことを私は何と呼んだらいいのか分からない。

これを圧巻と言うのだろうか?

敢えて長めに引用させて頂く、最後の一行まで。

僕は目をみひらき、渾身のちからをこめて目をひらき、そこに映るものはなにもかもが美しかった。

僕は泣きながらその美しさのなかに立ちつくし、そしてどこにも立っていなかった。音をたてて涙はこぼれつづけていた。

映るものはなにもかもが美しかった。しかしそれはただの美しさだった。誰に伝えることも、誰に知ってもらうこともできない、

それはただの美しさだった。

この本を読んでからこの作家の他の作品を読みたくなったが、多分これが、この作家の最高作かもしれない。

                                                   

*****この作家を批判しよう、裁断しようという気は最初から、全くありません。正直な私の思いです。ご了承、ご理解ください。

                                                             

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