井川駅には11時12分に到着しました。乗ってきた列車が折り返して千頭行きとして発車するのが12時20分の予定でしたので、それまでの一時間8分を井川駅の見学取材と昼食休憩にあてることにしました。
とりあえず、駅構内の北端までの線路の様子を見たり、かつての貨物用ホームまで行って上図の写真をとったり、線路のレイアウトをメモに記録したりしました。Nゲージの井川駅をいずれ作る予定なので、そのための記録メモや資料写真が沢山必要でした。ひたすら見て、撮って、メモしました。
上図のように、私が立っていた貨物用ホームの反対側にも苔むしたホームが見えました。落ち葉に埋もれた西側の側線に接していますので、昔はあのホームも使用されていたのでしょう。
ポイントは手動式です。正式には転轍器(てんてつき)と呼ばれます。昭和初期からの設備が現役で残る大井川鐡道においてはよく見かけますが、都市部の鉄道は機械化、自動化されていますので、このような手動式のは殆ど見かけません。
ホームを引き返している途中、車掌さんが列車の足回りを指差して確認しているのを見ました。
ホームの横の車道への出入口の様子です。軽ワゴン車が停めてあり、その脇に遮断機がありました。おそらく手前のスペースも駐車場か、作業用スペースなのでしょう。
遮断機からのスペースは、そのままホームの幅が広くなっている部分に続いていますので、ホームに立ち入らないように遮断機で通行止め、侵入止めにしていることが分かります。
こういう状況もNゲージの模型で再現すると面白いだろうな、と思いましたが、いざ作るとなるとかなり広いベースを必要とします。ベースのサイズが限られていますから、広く縦長の井川駅全部をおさめるのはちょっと無理かもしれない、駅全体の半分程度の範囲がやっとだろう、と思いました。
ホームの幅が広くなりますが、奥の駅舎へ近づくにつれてまた狭くなっていきます。
先頭車であったクハ600形です。その中央の昇降口が一段下にステップが付くタイプですが、ホームはさらに低いので二段を上り下りする形になります。いかにホームが低いかが分かります。
御覧のように、他の鉄道であれば台車や車輪はホームの下に隠れて見えませんが、井川線では殆どの駅でこのようにホームからもよく見えます。
ホームが線路に沿ってカーブし、徐々に幅を狭めてゆきます。
ホームの東端でも、上図のように車道との段差がつきはじめてガードレールも付き、コンクリート敷きのホームの幅が狭くなっていきます。車道はここから下り坂となって、駅舎の横では3メートルぐらい下に位置しています。
この辺りをNゲージジオラマで再現するのは難しそうです。車道も含めると下り坂になって駅との段差が開きますので、駅のレイアウトの地面を高い位置にもっていく必要があります。次回で述べる駅構内の廃線の問題とあわせて、模型での再現製作における大きな課題となってきます。
狭くなっていったホームがいったん幅を少し広げ、それから再び幅を狭めています。ホーム上に屋根が設けられています。
Nゲージジオラマで再現する場合、この辺りは基本的な製作範囲に含めています。屋根付きのホームから駅舎までの範囲を中心にして、モジュールのベースにおさまる範囲を作りたいと考えていますが、列車は最低でも5輌編成が入るようにしたいので、線路やホームは長くとることになるでしょう。
ホーム東端のガードレールも、上図のような角材の組み合わせに変わります。横の車道がかなり下へ下っています。
停車している列車は6輌編成でしたが、カーブの上にいるために全部の車輛が見渡せません。ホームのどこに居ても、多くて3輌ぐらいしか見えません。
ホームの屋根はまだ新しい感じで、近年に設けられたものと思われます。アルミ製の今風のデザインです。昔の井川駅の写真を見ると、平成の始めまでは屋根が無かったようです。
帰りに先頭車となるDD20形機関車の製造元銘板です。父が技術者として勤めていた日本車輛の文字と社章が銀色に光っています。昭和60年と読めますので、父が豊川工場の技術開発本部長を務めていた時期だと思いますが、その頃の父は休みの日でも書斎で製図台に車輛の設計図を開いては色々計算し、書き込んでいるか、分厚い本や資料を開いてあれこれノートにまとめては電卓を叩き、研究に余念が無い、というのが常でした。のんびりと寛いでいる姿を見た覚えがありません。
当時の私は大学一回生でしたが、そんな父の背中を見ていて、専門の技術者とか研究者というのはああいうものなんだ、と思っていました。自分が仏教美術史専攻の研究者になってからは、似たようなスタンスの日々になりましたから、やっぱり父親の影響というのは大きかったな、と改めて思います。 (続く)