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ガルパンの聖地 ・ 大洗を行く37 その13 「袋田の滝です!!」

2022年02月17日 | 大洗巡礼記

 コンビニ小西屋を辞したのち、同じ常陸大子の町内にある、Hさん提案の袋田の滝に行きました。久慈郡大子町袋田の月居(つきおれ)山(標高404メートル)の北裾に所在し、日本三名瀑のひとつに数えられて国名勝に指定されています。
 この袋田の滝は、小西屋に行ったガルパン巡礼の大半が立ち寄っている名所であるそうで、ネットやツイッター上でもよく訪問コメントを見かけますが、私自身は初めてでした。

 

 袋田の滝周辺の観光駐車場は幾つかありますが、Hさんは何度も来ているようで、一番奥の、滝に最も近い食事処「鮎美屋」の西隣の滝川べりの駐車場にサッと入れました。駐車場の西にはトイレもあり、これは帰り際に利用しました。
 そこから徒歩に移って道なりに滝川に架かる滝見橋を渡り、滝川の南から北に移って商店街のなかを進みました。途中で上図の寺院を左手に見つけ、寺名標を素早く探して「四度滝不動堂」であることを知りました。続いてお堂の横にある寺紋を読み取って真言宗系列かな、と拝察しました。
 そして、先行するHさんの背中を追いつつ、仏教美術史研究者としての心の動きにしばし身を任せて脳裏であれこれ考えをめぐらせました。

 不動明王は、滝や瀑布に縁が深い仏教尊像の随一です。これを祀ったのは主に天台宗本山派や真言宗当山派の山岳修験者であったとされますが、当地においては後者の活動が盛んであったようで、山門に無数に貼られた千社札にも、「四度滝不動堂」の構えにも真言系らしき要素が垣間見られます。

 ですが、その本堂が別に本殿とも呼ばれているのは珍しい、と感じました。江戸期までの神仏混交の形態を維持している様子で、山門近くの標識に「奥之院不動尊」と書かれていたのにも興味を覚えました。
 日本の有名な滝の多くは、古代において山岳修験の聖地とされた歴史があり、滝そのものが御神体と崇められてその本地仏として不動明王などを祀る形式が一般的であったのですが、ここ袋田の滝も同じなのかもしれない、と考えました。
 そうすると、「奥之院」とあるのは多分滝のすぐ近くにある筈だ、こちらの「四度滝不動堂」は「奥之院」に対する「本寺」にあたるわけか、と納得しました。

 

 滝への見学導入路は、もとは上図のように階段で直線的に上へ結ばれたようですが、現在は閉鎖されて御覧のような花壇ゾーンに転じていました。現在の見学導入路はこの階段の左へスロープ状にクランクして「四度滝不動堂」の脇をかすめる形で上に登っています。

 

 上に登ると上図の案内板がありましたが、Hさんがドンドン先へ進むので、立ち止まって読む暇も無く、必要最低限の情報だけを素早く見て、撮影するにとどまりました。
 それから、周辺の地形をふと見回して、ちょうど真南に峻険の語句があてはまりそうな月居山の聳え立つ威容を捉えたとき、ああ、そうだったのか、戦国期に「月居番」が置かれた地とは、ここのことだったのか・・・、と思い至りました。

 当時の袋田は、常陸太田に本拠を置いた佐竹氏15代当主、右京大夫義舜(よしきよ)の支配下にありました。十年余りにわたった同族佐竹山入氏の反乱を鎮めて常陸太田城を回復、その後永正の乱の不穏に乗じて北進し、当時は依上保(よりかみのほ)と呼ばれた袋田地域に版図を拡げました。同時期に大子北部を侵略していた白河結城氏の動きがあり、戦線が流動的ではあったものの、袋田が境目になり得る可能性は緊迫した情勢のなかで高まってきました。そこで佐竹義舜は袋田の月居山に城を築いて「月居番」を配置し、結城氏への備えとしたのでした。

 

 現在の袋田の滝の見学路となっている「袋田の滝トンネル」の入り口です。長さは276メートルを測り、それ以前の滝川べりの見学路に代わる安全かつ高位置にある観瀑ルートとして機能しています。このトンネルを通って、昔からある第1観瀑台および2008年に竣工した新観瀑台(第2観瀑台)へ行きます。入場料は大人一人300円でした。

 

 Hさんに導かれるまま、まずはトンネル最奥部の右手前へ出て第1観瀑台に行きました。トンネル入り口からの緩やかな登り坂を5分ほど歩いた地点でした。上図のように滝が真正面に見え、ほぼ真下に滝壺が見えました。第1観瀑台の位置は滝壺から約10メートルしか離れていないそうで、岩肌を無数に流れ下る白糸の如き清流が視界いっぱいに広がって迫ってきました。

 袋田の滝は、滝川が4段に岩肌を落ちることから「四度の滝」とも呼ばれますが、第1観瀑台の位置は滝の上から3段目の目の前になるので、上図のように3段目の流れが大きく迫ります。その上の段は遠くに見え、最上段はほとんど見えませんでした。そのことに気付いて、だから新観瀑台(第2観瀑台)を追加したわけか、と納得しました。

 

 第1観瀑台からは3段目の流れが真下の滝壺に垂下して右側に流れてゆくのが見えます。

 

 そして真下の右手に4段目の短い滝が流れ、渓谷の下へ流れてゆきます。3段目までは岩肌をつたって音も静かだった流れが、4段目の段差でザーッと飛沫音を響かせていました。

 

 渓谷は御覧の通りの景観で、右岸上に現在は立ち入り禁止となった、以前の見学路が残されています。現在の見学路と合流する辺りで滝川をまたぐ吊橋に繋がっています。そして吊橋からは道が滝川の南、月居山の裾に沿って下へ続いてゆきます。

 

 峻険を誇る月居山の山容を、滝川と共に写真におさめようとしましたが、御覧のように高過ぎて山頂まではデジカメのフレーム内に入りませんでした。撮影後に月居山をぐうっと見上げ、あの山に築かれていまも遺構を残す戦国期の月居城の寂漠たる雰囲気を想像しました。  (続く)

 


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