玄文講

日記

理解できない感情

2006-02-19 21:55:22 | メモ
とうとう私も携帯電話なる文明の利器を入手した。
会社からの命令で買わざるをえなくなったのである。

しかし購入してから二週間がたつが、いまだに一度も使用していない。

誰からも連絡は来ないし、誰にも連絡を取っていない。
そもそも電話番号を教える相手がいない。
おそらくこれからも、コレを使うことはほとんどないであろう。
私にとって携帯電話は少し大きめのデジタル時計でしかないのである。

簡単に言えば私には友人がいないのである。
そして私は友人を欲しいと思ったこともあまりない。

ただし仲間ならば欲しい。
なぜなら私は無能だからである。
私一人では人生における多くの困難を乗り切ることができない。
だから相互に助け合い、お互いの利益を保護しあう仲間は必要不可欠な存在だ。
彼らは有益な道具であり、また私も彼らにとっては便利な道具である。

そして一般にはこういう人間関係を「友人」とは言わないと私は聞いている。
「友人」というのはもっと他愛のない、利害関係を度外視した、契約を伴わない気楽な相互関係であるという。
私にはできないことである。利害関係なしに他人との付き合いを長期間維持するだなんて、一体どうすればいいのだろうか。
いや、どうすればいいのかは分かる。こまめに連絡を取ればいいのだ。
しかし利害関係のない他人と連絡を取るというエネルギーや気力がどこから湧いてくるのかが私には理解できない。

世の中には不思議なことがたくさんあるものだ。
そもそも私は人と人の間に生じる情や仁という概念がよく理解できない。

もちろん私は人でなしではないので、困っている人がいれば哀れに思い助けるし、苦しんでいる人間がいれば同情する。
しかしその感情は誰にでも平等に抱くものである。哀れみ、同情する相手は誰であってもかまわないのである。

一方「友情」や「愛情」というのは特定の誰かに対してにのみ抱く感情であろう。
それが分からない。もっとも分かる必要性も感じないので、分かりたいとも思わないのではあるが。

特に些細なことで他人を嫌い、無視し、自分達の価値観が通じる人間だけを友人として選別して閉じこもる人間を見ていると、友情などという概念は死ぬまで理解したくない感情だと思えてしまうのである。

最新の画像もっと見る