玄文講

日記

感覚は科学に反抗することについての短い考察

2004-11-25 23:55:32 | 人の話
私が時速5キロで走ることと世界が時速5キロで私に近づいてくることは同じことである。この2つは区別が出来ない同じ現象である。
これはガリレイの相対性原理と呼ばれる。

しかし私たちは走りながら「ああ、今世界が私にせまってきている」と感じることはない。
それは何故だろうか?
物理的には等価な現象なのに感覚的には全く異なる結果になるのは何故か?

その理由はやはり生物の進化に求めることが出来る。
さて、次の2つのうち、より警戒するべき事態はどちらだろうか?

1、ライオンに見つからないようにこっそり近づく。 車にこちらから近づく。

2、ライオンがこちらにゆっくりと近づいてくる。 車がこちらに近づいてくる。

答えはもちろん2である。
つまり自然界で生き延びるためには

「自分から近づく」

ことと

「相手が近づいてくる」

ことを明確に区別しなくてはいけないのである。
そこで生物の脳には、感覚的に自分の速度の分だけを補正する機能がついている。
つまり私が時速5キロで走れば感覚的には静止しているように感じる。
つまり
「5キロ/毎時(物理的速度) - 5キロ/毎時(自分の速度) = 0キロ/毎時(感覚速度)」
になる。
この機能は生物が生き残るためには必要だが、世界の法則を理解するためには邪魔なのである。

物理学に限らず、科学全体にはこういうことが多い。
つまり感覚的な正しさが自然世界の正しさと大きく食い違うのである。
「錯視」という現象はその典型的なものである。
たとえば上の写真の「A」と「B」は同じ色である。どう見ても灰色と白だが、現実に同じ色なのである。
私たちの脳は平気で自然を誤解できるのである。

他にも時間という概念も不思議なものである。
誰もが時間は流れていると信じて疑わない。しかし時間感覚はきわめて人間的な概念である。
動物の多くは時間という概念を知らないであろうし、人間でも離人症患者は時間が流れていることが実感できなくなる。

時間概念は死の概念とも深い関係にある。
私たちは時間を知り、未来というものの存在を知ることで死をも知るのである。

そして死の恐怖は自分が消えることへの恐怖であることを考えれば、時間概念は自我の概念とも関係するはずである。
事実、分裂病患者が時間概念にも異常を及ぼしている事例は多い。

更に言うならば、私たちは未来と過去の存在を知ることでこの世には、少なくとも自然界には存在しえない「今」という嘘の概念を作り上げた。
知らない人も多いのだが、物理学に「今」という概念はなく、それは純粋に心理学の言葉なのである。
そして「今」という概念こそが自我を映す鏡なのである。

自我という概念こそが自然世界からの大いなる逸脱なのである。錯視なのである。
個性を信じ、そして他者の存在を認識し、社会性なるものを獲得することで人類は繁栄した。
自我もまた進化が生存に有利になるように脳内に造り出した錯覚なのである。
世界には本当はそんなものはありはしないのである。
正確に言えばあると認識する私が既に無いのである。

自然界には私たちの精神は存在せず、私たちの精神は自然の実在を疑う。
悪い冗談である。

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