玄文講

日記

近況&中国で商売をすることについての空論

2006-01-08 16:35:51 | メモ
12月30日

納会 浅草で飲食。 

浅草寺で再び凶のおみくじを入手 スキャンしてパソコンに保存する。

12月31日

仲間に預けた100万円が30万以上の利子をつけて返ってくる。
4割を上納。残り全額を再度預け、再び無一文になる。
今日もそばをたぐる。

1月1日

風邪をひく。

1月2日

今年は年賀状の誤配達が多い。

50枚を軽く超えている。

その中に浅草在住の某名門落語家宛ての年賀状も混じっていた。
家族でこれはめでたいことなのか否かで口論となった。

1月4日

大学に戻る。

風邪が治らない。

1月5日

風呂場の水道管が凍結して破裂。1月15日まで修理できないという。

寒さが酷い。家には暖房がない。窓が凍っている。眠ったら死にそうだ。

今日からストーブのある大学で暮らすことにする。

1月8日

会から新しい役職を与えられる。
主な業務はお金の管理と監査。

近所の食堂のテレビで上海で一旗挙げようとしている日本人夫婦のドキュメンタリーを見た。
失礼ながらいかにも失敗しそうな雰囲気であった。

部外者が支那で商売をするのは大変なことだ。
契約の概念が希薄で、賄賂なしでは話が進まず、品質管理がずさんで、誠実や善良さが弱腰と映り軽蔑を招く彼の国の人々と商売をするのは困難の連続だ。
そして例の夫婦はその大変さに鈍感なように見えたのである。それがとても危うげでハラハラさせられた。

そもそも彼らにとって基本的に部外者とは敵、少なくとも味方ではない人間のことである。
政府も他人も信用しない個人主義者である彼らにとっての味方とは、親族や同じ「秘密結社」の仲間だけである。

ただし「秘密結社」と言っても秘密の団体というわけではなく、単なる相互扶助団体のことである。ぜんぜん秘密ではない。
支那では昔から生きるためにそういう団体を作る伝統があり、時としてそれらの団体が集まって太平天国の乱などの革命運動を起こしたりしている。
(参考文献 ;山田 賢「中国の秘密結社」講談社選書メチエ)

そして彼らはその相互扶助団体の仲間以外の人間をあまり信用しないし、仲間以外の人間からの信用を得ようともしない。
だから部外者がやって来て商売をしようとしても、約束を破られたり、カモにされたり、話が通じなかったりする。そして失敗するのだ。

簡単に言えば彼らは華僑のようなものである。
いかなる政府や他人にも頼らず、親族や仲間だけで力を合わせて外国で商売をする「中国人」を華僑と呼ぶが、
支那に住む多くの「中国人」のことも「中国」という外国に住む華僑だと思ったほうがいいのかもしれない。

それならば、そんな華僑のひしめく国で商売をするにはどうするべきだろうか。
一つは自分たちも華僑のメンバーの一員になればいい。

もしくは部外者として彼らと接するのならばとにかく大金を使って彼らに言うことを聞かせるしかない。
しかし金のある企業ならともかく、個人が金の力を使うには限度がある。
だから、あの夫婦が彼の国で成功するのはとても困難に思えたのだ。

もちろんこんな乱暴な一般論が全ての出来事を説明できるわけもなく、
あの夫婦は現地で信頼できる業者を見つけ、向上心に燃えた現地の若者たちを雇い、消費者のニーズにあわせた製品を開発し、商売を成功させるかもしれない。
この世は定説のあてはまらない例外で満ち満ちているのだから。
私の無責任な予感なんて外れた方が良いに決まっている。

ただ一般論には複数の人間の経験を総合した指標的な役割がある。
あの国が部外者(外国人に限らず、同じ「中国人」でも異なる共同体に属する人間)にとても厳しいところだということは確かなことだと私は思っている。
(もっともこれは一般の人々の間で通じる一般論と言うよりも、私と私の周囲の人間だけの間で通じる「一般論」に過ぎない。)

誤解がないように言っておけば、私は支那や全ての「中国人」が嫌いなわけではない。
ただ私には好きな日本人と嫌いな日本人がいるのと同じように、好きな「中国人」と嫌いな「中国人」がいるだけである。
そして私の好きな「中国人」とは私の仲間である「中国人」のことである。
つまり「秘密結社」はここにもあるということである。






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