玄文講

日記

14-19世紀までの世界の人口

2005-10-13 20:31:16 | メモ
現在、地球の人口は64億6400万人だとされている。

インドには人としてカウントされない統計外の低カースト層の人間がいて、実は彼らを含めるとインド人の人口は既に中国を越しているのではないかとも言われている。
インドに限らず戸籍に登録されない人の数は多いであろうから、上の数は「最低64億人以上はいる」と解釈すべきだろう。

ロンボルグの本で、過去から現在まで地球上に存在した人間の数を合計すると1000億人になると読んだことがある。
この膨大な数を思うと、個性や個人の人生など大海の一滴にも及ばない微小な存在に思える。

その事実に対して、身が軽くなったように感じて気が楽になるか、自分の存在感の小ささに思い至り気が滅入るかは人によりけりであろう。
ちなみに私は前者である。

さて、今日から書き連ねる一連のメモは、アナール派の歴史家ブローデルの大著「物質文明・経済・資本主義―15-18世紀」の読書記録である。

この本は15世紀から18世紀にかけて、その時代を生きた市井(しせい)の人々の日常生活、物々交換から市場経済へ変化する過程、100年単位で変化しない普遍的な地理・気候が文明の発達に与えた影響について考察した歴史書である。
地理や家畜の有無、病気の伝播から文明の衰勢を論じた名著「銃・病原菌・鉄」のような本だと思ってもいいかもしれない。

記憶力の悪い私は、数千ページにもわたる本を読んでいるとすぐに以前の内容を完全に忘却してしまうという欠点を持つ。
このメモは、そんな私の記憶代わりに、本の内容をまとめ、それについての考察を脈絡なく書きつづったものである。

よってその内容はまとまりがなく、話は連想ゲーム的にあちらこちらへ飛躍し、情報は断片的であり、興味のない人は読んでいてお経を読まされているような気分になること必至である。

それでも公開し、他人様の目にさらす以上は、文章に最低限の娯楽性を持たせたいと思っている。

また間違いや誤解などの指摘、内容への感想がいただけることも少しだけ期待している。


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人口についての考察から、この本は始まる。
何故なら、歴史の発展と人口の増減は相互に影響を与えているからだ。
この重要な数字について信頼にたるデータを集めることを、この本は最初の話題としている。

現在および19世紀以降の人口を調べるのは簡単だ。人口調査を目的としてなされた公的な記録がいくつもある。
しかし、それ以前となるとデータは極端に少なくなる。特にインドやアフリカの記録は少ない。

データがなければ、ある一時期の人口を基準にして、人口の増加率(減少率)を仮定し、そこから逆算して他の時代の人口を求めるしかない。

よって何らかの理由で人口が激増したり、激減した時代のデータを基準にしてしまうと、求まる結果がまるで違うものになってしまう。
例えばアメリカ大陸の人口は征服後、白人の持ち込んだ病原菌のせいで激減したので、その時代の数字を基準にするとアメリカ大陸には太古の昔から人はあまり住んでいなかったことになってしまう。

また中国には徴税目的で集められたデータがあるが、それは世帯単位で数えられており、一家族平均人数を何人とするかで激しく数字が上下してしまう。
また徴税目的ゆえに、人々は過小に報告し、役人は過大に見積もったという事態も懸念される。

面白いことに各国の文明、医療衛生、土地の広さ、産業、平均結婚年齢とは無関係に、世界規模で同時に人口が増減しているように見えることがある。

例えば16世紀にはヨーロッパ、ロシア、アジア、アメリカという条件の異なる多くの地域で同時に急速な人口増加が認められている。
この不可思議なシンクロニシティーは、実は不思議なことではない。
世界規模の要因「気候の変化」が国や文明に関係なく、全ての人々に等しく影響を与えたと考えればいいからだ。

また世界の人口分布の比率が時代を通して、(近似的に)一定とみなせることも気候にその原因を見ることができる。

少なくとも18世紀以前は、各地域に住む人口を決めるのは、人の力ではなく自然の力であった。
政治や文明の変化に依らず、その地域が養える人間の数は気候の変化に依存してきたがために、人口の増減する時代は世界規模で共通しており、人口分布の比率も一定となるのだ。

ヨーロッパ人が飢える時は中国人も飢えて死に、ヨーロッパ人が増加する時は中国人も増える。
実際にルイ14世時代の寒冷気候は、ヨーロッパの穀倉地帯にもアジアの水田にも不作をもたらし、双方の国で飢えと民衆の蜂起をもたらした。

だから技術が自然の力を克服するようになると、この比率は必ずしも守られなくなる。
現代では同じ気候の変化に対して、収穫を維持できる国とできない国がある。

この仮定の下に、当時の世界の人口はヨーロッパの人口もしくは中国人の4、5倍。
アジア地方の人口は中国人の2、3倍と見積もることができる。
(しかし現代でもこれはある程度正しい比率となっている。現代でも気候の影響は大きいということであろう。)
もちろん、これは大雑把な予測であり、予測された数字の上限と下限は数千万の単位で開きが出る。


世界の各地域の人口の変化の趨勢(すうせい)は以下の通りだ。

1)ヨーロッパ(1680年の人口、1億から1億4000万)

時折ペストなどの流行病が人口を激減させ、人口が増えると食糧危機が起き、ヨーロッパの人口は一進一退を繰り返した。
ヨーロッパでは1350年から1450年、1650年から1750年にかけて人口増加率の減少期が訪れている。
1350年代の人口調整は「残酷な減少」であったが、1650年代のそれはゆるやかな上昇であった。

特に1350年代のペストはヨーロッパ人口の五分の一を死に至らしめたという。
しかし労働力の減少は、一人一人がより多くの耕作地を持つことを可能とし、農民の「実質賃金」を2倍も向上させた。
同時に多くの土地を少ない人数で耕したので土地の生産能力は十分に活用されず、逆に実質地代は半分以下になり、地主はの所得は減少した。

だがこの後、ヨーロッパは急速な人口増加を迎え、農民たちは極貧生活に戻ることになる。
ペストの後の農民の幸福な時代はすぐに終わった。


1350年 6900万

1450年 5500万

1600年 1億

1650年 1億3600万

1750年 1億7300万

1800年 2億1100万

1850年 2億6600万

2)中国(アジアの1680年の人口、2億4000万から3億6000万)

満州族による北京攻略の年である1642年以降、大きな戦争で大量に人が死ぬことはなく、外敵の侵入も少なくなり、また開拓と農業革命により人口は急激に増加した。

1680年 1億2000万

1750年 1億8600万

1790年 3億

1850年 4億3000万

しかし人口増加率は耕作可能面積の増加率を上回り、飢えをもたらすようになる。
18世紀から19世紀にかけての人口の急激な増加が飢饉を招き、太平天国の乱につながったのは「移民拒否の功罪」で書いた通りである。

3)アフリカ(1680年の人口、3500万から5000万)

アフリカは奴隷貿易により人口が流出したが、その数は輸送能力の限界から年間1万人を超えることはなかったと思われる。

エジプト:北アフリカ:アフリカ全土 = 1:1:10 という人口比率を受け入れるのならば、アフリカの当時の人口は2400万から3500万の間と予測される。

4)アメリカ(1680年の人口、1000万)

家畜のいなかったアメリカ大陸では、子供が3歳くらいになるまで母親が哺乳しなくてはならず、そのため出産間隔が長くならざるをえず、他の大陸ほどの人口増加はなかった。

さらに白人との接触は、天然痘、ペスト、黄熱病など多くの病気をもたらした。未知の病気への抗体を持たなかった彼らは次々と死んでいった。

この悲劇のために征服直後のアメリカ人口は1000万人程度しかいなく、17世紀には800万人にまで減っている。

5)オセアニア(1680年の人口、200万)

18世紀まで、この地域の人口に関するデータはほとんどない。
ただ人口200万程度であったろうと予測されている。

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