玄文講

日記

貨幣(6)「その因果2」

2005-05-18 04:38:04 | 経済
さて、昨日まではケイジアン学派もマネタリスト共通して認めている貨幣数量式「PY=MV」について考えてみた。
ではこの両者はどこで意見が分かれるのであろうか。
どうやらそれは「私たちがどれだけ貨幣を欲っしているか?」という問題の解釈についてのようだ。今日はそれについて考えてみる。

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貨幣需要関数(ケイジアン学派)

「私たちがどれだけ貨幣を欲っしているか」だって?
そんなの、答えは簡単だ。
「いくらでも」だ。お金はあればあるほどいいに決まっている。

では質問の仕方を変えてみよう。
「年20%の利子がつく債券」と「インフレで実質的な価値が下がり続ける貨幣」とではどちらが欲しいだろうか?
これも答えは簡単。前者、前者、圧倒的に前者がいいに決まっている。

ならば何故、私たちは利子もつかない貨幣なんかを持っているのだろうか。
いますぐ所有する全ての貨幣を利子のつく債券に変えてしまえばいいのである。
リスクが恐い?日本やアメリカの国債ならば元金は保証される。為替リスクを考えても、大儲けはできないが損はしない。ただ価値が目減りするばかりの貨幣よりははるかにマシだ。

でも私たちはそんなことはしない。それは何故か。
ここで貨幣の役割の1つである「交換手段」に注目してみよう。

私たちが買い物をするとき、支払いに国債や外国の通貨を渡しても受け取ってもらえない。
いくら利子がつくからといって全財産を債券にしてしまうと、水も電気も食料も何も買えなくなる。私たちはまるでミダス王のように全てを黄金に変えて餓え死にの危険にさらされてしまうのである。
だから利子を失ってでも交換手段としての貨幣を私たちは所有しなくてはいけない。

だから貨幣は必要最低限だけ所有するのが一番であり、それを決める式が貨幣需要関数である。
では私たちはどの程度、貨幣を欲っしているのだろうか。

まずは取引の額や量が増えれば増えるほど、貨幣は多く持っておきたくなる。そして貨幣の需要が増える。
前回書いたように「取引の量」は「生産量」に比例する。
つまり貨幣の需要は実質国内総生産「Y」に比例して増加する。

一方で債券の利子率や貨幣のインフレ率が上がったとしよう。そうすると私たちはやはり貨幣を多く持っているのがもったいないと思うようになるだろう。
そして私たちはなるべく貨幣を債券にまわすように努力するに違いない。
実質収益をあげる債権の実質利子率とインフレ率の和を名目利子率と呼び、貨幣を持っていると名目利子率の分だけ損をすることになる。
よって貨幣の需要は名目利子率「i」に比例して減少する。

最終的には供給された以上の貨幣は需要されない。つまり需要量は供給量と等価になる。マネーサプライが貨幣の供給量なのだが、これは名目変数なので物価で割った実質変数にしてやる。つまり現実の購買力を表わす実質貨幣量「M/P」が貨幣の供給量を意味する。よって次の式が成立する。

M/P = L(Y,i) 

右辺の「L」はYとiを変数とする需要関数である。(「関数」というのはカッコの中の変数に依存していて、それらにより物事がどのような因果関係で変化するかを表現している。)

ここで貨幣需要が名目利子率に依存するという点がケイジアンの要点である。
そして金融政策は次のようにして行われる。
図を見ていただきたい。
オレンジの線はマネーサプライ。マネーサプライは中央銀行が恣意的に決める量であり、利子率に依存しないので垂直に立っている。
青い線は需要関数。利子率に比例して減少するので右肩下がりのグラフになっている。

ここでマネーサプライを増やしたとする。(オレンジの線の移動)
これは上式の左辺を増やしたことになり、右辺であるLも増加する。(青い線上の赤丸の移動)
Lが増加すると利子率は減少する。(縦軸の数値の変化)

こうして貨幣の供給量を増やせば名目利子率が減り、私たちはお金を借りやすくなり、投資などにお金が使えるようになり、生産量や需要が増えるというわけである。


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ケイジアンへの批判

ケイジアン学派が批判されるのは大まかには2つの理由がある。
1つは彼らの使う需要関数への批判。もう1つは彼らの提唱する金融政策への批判である。
この2つの批判に共通していることは「貨幣需要が利子率に依存する」ことへの批判である。

さて、ここで貨幣の定義を思い出していただきたい。

C  = 現金

M1 = 現金 + 銀行預金

貨幣とは「交換手段」「貯蔵」「尺度」の定義を満たすもののことを指し、必ずしも私たちの使っているお札やコインに限定する必要はない。
たとえば銀行の普通預金も貨幣の定義を全て満たす。水道代、電気代、大口の商取り引きにおいて私たちは自分の銀行口座から相手の口座へとお金を送る。
そこで動いているのは機械の中のデータと印字された数字だけであり、現金は存在しなくともよい。それなのに0と1の群れとインクが交換手段としての役目を果たしているのだ。

なにせ現金と銀行預金の比は1:4くらいあるのである。もしこの4を全て現金にしようとしたら全ての銀行は破綻することだろう。だって全員に支払うだけの現金なんて存在しないのだから。
この貨幣は私たちが銀行を信用することで成立している。
私たちは、銀行が現金を要求された時にいつでもインクの数字を札束と交換してくれることを信じている。そして全員が一度に現金を要求することなんてないだろうから、1:4の不均衡も許せるのである。
この世には存在しないお金、私たちのイメージの中にだけ存在するお金、「クレジット(信用)」という名の貨幣があるのだ。
私たちはこれを「預金創造」だとか「信用創造」と呼ぶ。


閑話休題。
つまり銀行預金だって立派に貨幣としての役割を果たしており、しかもこの貨幣には利子がつく。
それなら「初めと話が違うではないか」ということになる。私たちが貨幣を持たないのは利子がつかないからだ。
もし債券と銀行預金の名目利子率が大して違わないのならば、需要関数が名目利子率に依存するかどうかが疑わしくなる。

これが理由の1つ目。需要関数への懐疑である。

そして理由の2つ目は金融政策における中央銀行の役割への懐疑である。
先ほど書いたように中央銀行は名目利子率をコントロールする。名目利子率は実質利子率とインフレ率の和である。

私たちが本当に嬉しいのは実質利子率の変化である。実質金利が減ればお金を借りやすくなり、事業も拡大できる。しかし名目利子率の変化分とインフレ率の変化分が同じならば実質利子率はまるで変化しない。ぜんぜん嬉しくない。
それなら中央銀行がいくら頑張って名目利子率をコントロールしたって無意味だということになる。

更には実質利子率が増えても投資が増えないという現象も観測されており、名目、実質に関わらず利子率の変化は景気にほとんど影響しないのではないかとも考えられている。

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貨幣需要関数(マネタリスト)

それではマネタリストは貨幣需要関数をどうみなしているのだろうか。
再び図を見ていただくと、マネタリストの貨幣需要関数は利子率に依存せず垂直に立っている。
この場合、貨幣需要関数「L」は生産量に比例するだけである。

(貨幣需要関数 L) = (比例定数 k) ×(生産量 Y)

一方で
(貨幣需要関数 L) = (マネーサプライ M)/(物価 P)
という需要と供給の等価式は前と同じように成立している。

よってkY=M/Pという式ができる。ここで貨幣数量方程式PY=MVを思い出すと

(比例定数 k) = 1/(貨幣流通速度 V)

となる。左辺が定数なので、右辺の貨幣流通速度も定数となる。つまり貨幣流通速度は一定であるみなすのだ。この仮定を「貨幣数量説」と呼ぶ。

マネタリストは金融政策を好まない。複雑なマネーサプライの調整は景気をかえって悪化させると考えている。
彼らは中央銀行はマネーサプライを単純に増やしていくだけでいいと主張する。
生産量の増加に合わせてマネーサプライを増やせば物価は安定し、マネーサプライを減らしてしまうと(短期的には物価が変化しないため)生産量が減り不景気になる。


以上がケイジアンとマネタリストの違う点である。

もちろんケイジアンもマネタリストに反論している。
金融政策は利子率以外の要素に影響を与え、それが景気回復に有効性を発揮していると彼らは考える。

さて、この後はIS-LM曲線について話そうと考えていたのだが、どうも評判が悪いようなので止めにする。
教科書的になり過ぎて下世話さに欠けたと反省している。
知っている人間にはもの足りず、知らない人間にはつまらないものになってしまった。

次はもっと私の下品で粗暴な本性を少しだけ表に出して、3面記事的な読んで面白いものにしたいと思う。

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