玄文講

日記

脳死について

2005-01-08 03:31:16 | 人の話
私は「首なしニワトリ」から意識と無意識の違いに興味を持ち、前回までは「意識」と「無意識」について考えた。
そして最後に「脳死問題」について考えてみたい。

この問題は科学的な問題というよりも、むしろ思想的、経済的、政治的問題である。

ここでは思想面についてのみ考えたい。

脳死による臓器提供問題は「合理的科学」VS「宗教、生命倫理」の戦いだと見られることが多い。
いつかテレビのインタビューでも、白人の医者が「日本で脳死による臓器提供がなかなか認められないのは何故か」という質問に対して、吐き捨てるように「日本には宗教的迷信がはびこっているからだ」と答えていた。

しかしことはそんなに単純ではない。科学の面でも脳死の扱いは定まってはいない。
ゴキブリを使った「断頭生物」実験では、こんなことが分かっている。

「条件付け学習」というものがある。
有名なところでは「パブロフの犬」で、餌を与えるときベルを必ず鳴らすようにすると、そのうちベルの音を聞いただけでヨダレをたらすようになる、といった条件反射を学習付けるものである。

昆虫でもこの「条件付け学習」は成立する。

しかしゴキブリを使った実験では、頭を取ったゴキブリはこの条件付けを学習することができなかった。
しかし「条件付け学習」をした後で頭を取り除けば、頭のないゴキブリは頭のあるゴキブリと同じように条件に対して反応したという。

つまり脳における学習が身体に残っているのである。

このように精神の活動の痕跡が身体に宿るのだとしたら、脳の死をもって精神の死と考えるには抵抗がある。
よって私は人の死の定義を心臓が止まるまでと考えたい。
私の定義では脳死は人の死ではない。魂の座は「脳と肉体」なのであり、魂の終わりはこの2つが終わったときである。


ちなみに私はドナー・カードを持っている。
そこで私は脳死した際、全ての臓器を提供することを選択している。

脳死が人の死ではないと書いておきながら、なぜ私は臓器を提供するのか?
死んでいないのに、死んだものとして扱ってかまわないとするのは何故か?

それは殺人行為を認めているようなものではないのか?
その通り。私は昨日も書いたように殺人を認めている。
もちろん故意に脳死状態にするような犯罪は認められない。飽くまでも法の許す範囲での行為の話である。

しかし生命が尊いから生きている可能性がある限り脳死患者を殺してはいけない、とは私は考えない。
たかが命である。役に立たなくなった命を一つ潰すのに何をためらう必要があるものか。

それが私の「生命倫理」である。
では私の倫理を用いると、脳死問題はどうなるのだろうか。

私が脳死状態になったとしよう。脳死は私の定義では人の死ではない。
よって私は生きている。

しかし、それは役立たずの生ゴミのような私である。
笑いもしない、泣きもしない、喜怒哀楽もない。
何かを学びもしなければ、生産的な活動をするわけでもない。
ただ寝転がりながら、反射だけで生きているゴミクズなのである。
家族に医療費という莫大な負担をいたずらに与えている疫病神でさえある。

殺してしまえ。
そんな私などは、さっさと解体して、処分してしまえばよい。
ゴミになった私が、私の臓器が、数人の人々に配られ、彼らの笑顔、悲しみ、生産活動に昇華されるのならば、そちらの方が世界にとって良いことだ。
人生の最後に他人様の役にたてるのならば、それは誇っていい行為だ。
そして私のことなどはさっさと忘れてしまえばいい。世界は生者のために存在しているのだから。

もちろん、これは私だけの倫理であり、私だけのスタイルに過ぎない。
このやり方を他人に勧めるつもりはない。
そもそも死の定義なんて人により千差万別である。そして生命倫理も人により大きく異なる。

魂の神聖さを信じる人。
死体にも尊厳を認める人。
わずかでも生きている可能性のある限り最善の医療を望む人。
臓器提供を重んじることで、本来の医療行為が軽んじられる可能性に危機感を抱く人。
私のように脳死した場合には、殺してもらってもかまわないとする者。
脳死を人の死と定義し、自分の死体に神秘を求めない人。

結局、脳死問題は科学だけの問題ではなく、科学と思想が絡み合った問題になるのである。
そして日本では個々のそうした意思を反映できるドナーカードが存在する。
死生観による死の選択権が明確に与えられている。納得できない処理をされる人がなるべく出ないようになっている。


そして何よりも脳死問題は思想よりも経済や政治が重視される問題である。

病気の人はたくさんいる。臓器移植にばかり医療コストを割くわけにはいかない。
もし臓器移植にかかる費用のせいで、他の医療の予算が圧迫されるのならば臓器移植は控えなくてはいけない。

それに臓器移植をするためには、そのための法案を整備しないといけない。
そのためのやり取りは虚実入り混じった大人の交渉の世界である。
また臓器移植は人身売買につながりかねず、また故意に人を脳死させる可能性のある行為を厳しく取り締まらなくてはいけない。
これはもう科学や思想の問題ではない。

たとえばカエルレポートにおいて次のような議論が報告されている。

オーストリアで反対カードを持ってなければ、臓器は社会のものとして、旅行者でさえも脳死と判定されれば臓器を摘出しても合法。アメリカでもドナー数が年々減り、脳死近くになる(山口さんはそれを日本大学の林先生のところに行けば治るくらいの患者と言う。低体温療法で有名な先生のことですねっ。)と早めに麻薬と血圧降下薬を点滴して少しでも新鮮な臓器を得ようとする行為が多くなり、社会倫理上の問題となっている。

また、現実的なお金のことについても発言してます。心臓移植の費用はおそらく2000万以上だと思われる。限られた財源である保健医療は言うまでもなくより多くの患者に公平に活用されるべきだが、はたして高額な移植医療を医療保険で行ってよいのか?


脳死問題を考えると、その実行にまつわる決定を左右する要素の大部分は思想でも科学でもなく、経済と政治なのだという結論になる。

カエルレポートでは他にも多くの脳死にまつわる議論のレポートがのっているので参考にしていただきたい。
今日の考察の土台は「臓器移植法改正反対集会」がほぼ全てである。
私のような中途半端な知識や思い付きではない、しっかりとした議論がなされている。


結局5日間もいろいろ書いてきたが、よく分からないことが多すぎて私の手にはおえないというのが正直な感想である。
少し調べただけでもいろいろなことが分かり、自分の腰の座っていない議論が恥ずかしくなる。

それに昨日と今日の話はひどく不道徳で不愉快に思った人も多いだろう。
そのことについては申し訳なく思うが、発言を撤回するつもりもないのである。

(3/27追記)
本議論において、私は「脳死」と「植物状態」という用語を区別せずに使ってしまった。
そのため議論が混乱しているように思える。

ただし、意識と無意識の区別はあいまいであり、意識がないことをもって死とみなすべきではない。という主張に変わりはない。
そして、たとえ生きていても意識がなくては社会的には死んだも同然なのだから、他の生ある人を優先すべきだという考え方にも変化はない。
そして上の死の定義やスタイルを他人に強制するつもりはないことも重ねて主張しておく。

それと私の話し方がなんか偉そうなのは、どうにかならないだろうか。