玄文講

日記

殺人行為についての考察

2005-01-07 23:52:26 | メモ
私は殺人を必ずしも悪いことだと思えない。
誤解しないでいただきたいのは、私は他人様が不快になる発言をすることで愉快になったりする人間ではないのである。
むしろ世間様の常識にはできるだけ逆らわず、平々凡々に波風を立てず、良識ある市民として生きたいと私は願っている。
そして事実、現在の私は良識ある市民そのものであり、社会秩序の安定に協力を惜しまない人間でもある。
私は無差別殺人や子供殺しなどは許されないと思っているし、犯罪行為を憎んでもいる。
(言えば、言うほど白々しくなっていくのは何故でしょう、、、)

しかしそれでも私は生命の尊厳などというものが信じられないのである。
殺人が絶対的な悪などとは思えないのである。

もちろんだからと言って、私はみだりに殺人を犯したりはしない。
むしろ生命の危機にさらされている人がいるのならば、すすんで助けに行くだろう。

私は「生命の尊厳」などは信じていないが、「取るに足らない存在」を愛でることや、社会において人と人は助け合うべきだということくらいは知っている。


聖書において、人は羊に例えられた。
自分の飼っている羊の群れから一匹がはぐれたら、羊飼いはその一匹を必死で探すだろう。
同じように神はお前たち一人一人を愛しているのだ、と。

それならば私は人をお金に例えよう。
60億円も持っている金持ちは、1円くらいなくしても気にもしないだろう。
同じように私たちはたかが1つの命だ。60億分の1という誤差のような存在だ、と。

たかが命。
ちりあくたのような命。
神秘なれども、ありふれた生命体。
人類よ、人類。
安くて、陳腐で、取るに足らない、くだらない命の群れよ

私にとって「生命の尊厳」などという言葉は寝言である。
私は「命とは尊いものである」ということが、どうしても理解できないのである。

この考え方は世間様の常識からは大きく逸脱しているのかもしれない。
しかし、それでも私は大勢の人々と同じように今まで殺人行為を犯してはいない。

それは何故か?
その理由は実は多くの人が殺人を犯さないのと同じ理由のはずである。

私が思うに、人が人を殺さない理由は2つある。
1つは社会秩序のためである。
誰もが命を軽んじるようでは社会の秩序が保てなくなってしまう。
私があなたを殺さないように、あなたも私を殺さないで下さい。そういう暗黙の了解が私たちの間にはある。

もう1つは法律が「無意味な殺人」を禁止しているからである。社会人として法は守らないといけない。
それならば無意味でない殺人ならば許されるのか?

当然である。

法律に「死刑制度」があるのは何のためか?殺人が絶対的に許されない行為ならば、何故にこんな制度が存在しているのか?

「正当防衛」という言葉は何か?
自分の命が理不尽な暴力により危険にさらされたとき、私たちには他人の生命を奪う権利が与えられる。

数年前、「人を殺してはいけないのは何故か?」という問いかけが流行っていたが、私ならばこう答える。

「絶対に殺してはいけないなんてことはない。時と場合によって殺人は許される行為である。
ただし人間には節操というものが必要である。他人をみだりに殺すような節操のない人間になってはいけない」、と。

私は思想面では普通ではないのかもしれないが、行動面では普通の人と同じはずである。
皆さんの多くだって、何もしていない人は殺さないし、自分の欲望の為だけに人を害したりはしないだろう。
そして皆さんの多くだって、もし犯罪者が理不尽な暴力であなたを殺そうとしたら、自分の命を守る為に卑劣なる犯罪者を殺すこともあるだろう。

同じである。私は皆さんのほとんどと同じなのである。
私は自分が他人にとって安全な人間であることを確信している。

(本当は今日は脳死問題について書くはずだったのですが、関連した話題として「生命倫理」について考えていたら今日のような話になってしまいました。
脳死については明日に書きます。)

(追記)
いやぁ、なんと言いますか、、、
これを書いてからアクセス数が減るわ、減るわ。
皆さんに退かれまくられてしまいました。
だいたい以前の4分の1以下にまでなりました。ハハハハ

本当はもっと正直な文章を書くはずだったのですが、文章を控えめに抑えておいて正解でした。
セーブしておいてこれだけヒンシュクを買うのですから、アクセル全開で書いていたらどうなっていたことやら。
くわばら、くわばら、です。

以上、社会秩序と皆様の健康と幸福だけを願っている玄文講員でした。