玄文講

日記

虚礼礼讃

2005-01-27 22:06:18 | バカな話
時おり真に近しい人間関係を築くためには虚礼を廃すべきだと主張する人がいるが、人と人が本音で語り合うには虚礼を守るのが便利である。
なぜなら虚礼さえ守っていれば、他は何をするのも自由になるからである。

福田恒存という有名な右翼の人がいるのだが、彼はこんなことを言っている。

「怒るにせよ、叱るにせよ、たとえば敬語のような一定のスタイルに即せば、かなり強いことが言える。が、それがないと、たんなる怒号に終わります。」
(「私の幸福論」より引用)

どんな暴言や失言も丁寧に言えば意外と受け入れられるものである。いくつか例をあげてみよう。

「ふざけんな!こんな仕事やってられるか」 → 「いい加減になさって下さい。このような無計画なことをされては困ります」

「死ね!バカ」 → 「少々頭が混乱なさっていませんか?お休みになられてはいかがですか」

「目をえぐってケツに突っ込むぞ!このボケ」 → 「あなた様の目を抜き出しましてから御尻の穴に挿入致したく思いますが、いかがでしょうか?」

このように過激な発言も実に温びんに相手に伝えることができる。これも虚礼を守ることで許される自由の一つである。

ところで虚礼と同じくらい嫌われている言葉に「型にはまる」というものがある。それは独創性の死を意味するらしい。しかし型を守ることは大事である。「創造は束縛から生まれる」という言葉もある。
そういえば狂言で有名な野村萬斎 氏はテレビのインタビューで

「型にはまり、型を守ることで、自由な表現ができる」

という意味のことを言っていたことがある。インタビュアーの女性がよく理解できないという顔をしていたのが印象的であった。
ここでも似たようなことを言っている。)


これも虚礼と同じく必要最低限のスタイルを守れば、あとはどんな表現も自由にできる。むしろそういった型にはまることが、自由な表現には必要不可欠であるという主張であろう。

物理だって数学や法則という堅苦しい虚礼や型を守ってこそ、はじめて自然を表現できるのである。
だから私はいつも、自分は「型にはまった、常識にとらわれる、虚礼を重んずる人間」でありたいと思っている。