玄文講

日記

魍魎の匣 ~魂の座3

2005-01-06 21:53:59 | 人の話
私は「首なしニワトリ」から意識と無意識の違いに興味を持ち、前回は「意識」について考えた。
それでは今回は「無意識」とは何かについて考えてみたい。

まずは生理機構の多くは意識を必要としない。
心臓の鼓動、腎臓のろ過機能、睡眠時の眼球運動。これらは意識的に止めることはできない「無意識」の行動である。
これらの生命維持に必要な活動が無意識でなければ、私たちは一生気の休まる暇なく、睡眠も取らずに「心臓動け、腎臓働け、肺よ酸素を取り込め」と念じ続けなくてはいけない。

また石などが自分に向かって飛んできた時、自分では石の存在に気がついていないのに身体が勝手に反応して石をよけた、という経験を持つ人は多いと思う。
(例えば私は歩道で信号は青なのに自分でも何故か分からないまま急に立ち止まり、次の瞬間車が猛スピードで目の前を通り過ぎていったという経験がある。)
ボールを急に投げられた時、反射的に手が出てボールを受け止めるというのもそれだ。
いわゆる「つい手が出てしまった」という反応である。
人間は意識にのぼらない外の世界の出来事も無意識のうちに認知しており、身体が反射的に動くのである。

しかし無意識のうちに認知活動が行われているのならば、「意識」と「無意識」の境界なんてとてもあいまいなものに思える。



有名な話だが、「つり橋効果」というものがある。
男女が不安定なつり橋の上に立つ。すると不安感から心臓が高鳴り動悸する。
しかし彼らはその胸の高鳴りを恋愛感情と錯覚して、お互いが好きあっていると思い込み、そして実際に好きになる。という話である。

また唐沢俊一氏の「薬局通」にはこんなエピソードが紹介されている。

泣き虫な子供だった著者がビービー喚き出すと、癇癪な父は母に、

「バランスを飲ませろ!」

と、いいつけた。バランスというのはマイナー・トランキライザー(効果のおだやかな精神安定剤)の一種で、今はもちろん、医師の処方箋がないと出せないクスリだが、そのころは一般薬としてビン入りで売っていた。

で、その緑色のちいさなカプセルをのまされると、アラ不思議、どんなにビービーと火のついたように泣きわめいていても、ピタリと泣きやんでしまったのである。

カゼとか、病気のときに薬をのんでなおったというのではない。病気のとき薬をのんでなおるのはアタリマエの話だ。そのために作られているものなのだから。

しかし、あのときの著者は別に病気で泣いていたのではなかった。
両親がかまってくれないとか、かわいがっていたノラネコを捨てられた、とかいう原因があった。
その原因を取り除くのではなしに、人間の心の方に作用して、泣きたい気持ちを取り去ってしまったのである。


いずれの例においても、無意識のうちの身体の生理反応が「愛」や「悲しみ」に影響を与えている。
「無意識」がいつの間にか「意識」とすり替わっているのである。



この考え方を押し進めると、人間の内的な心理過程は単なる反射や感覚-運動システムの積み重ねから生じた錯覚に過ぎないという考え方になる。
つまり意識などというものは存在せず、無意識の反応が積み重なって私たちが心と思いこんでいるものが作られるというわけである。
この考え方は「表象なしの思考」と呼ばれている。

一方で感情は感覚-運動システムの階層化の果てに生まれた実在する性質だという考え方もできる。
「無意識」と「意識」は明確に区別できるものではない。しかし同じものでもないというわけだ。
意識と無意識の二元論の立場である。私はこの後者の考え方に賛成している。

人間は下等な動物からじょじょに進化して現在のような複雑な神経回路を持つに至ったのである。
「無意識」な動物から一夜にして「意識を持つ人類」になったわけではない。
「無意識」がゆっくりと進化して「意識」を生み出したのだから、この2つの境界があいまいなのはある意味当然なのである。

実際に、感覚と運動をつなぐ神経経路は低次レベルから高次レベルまであり、姿勢・運動制御の経路は下等な動物において優勢で、物体認知などは人間まできてやっと優勢になることが知られている。

そもそも心と身体を分かつことはできないのだ。ウィリアム・ジェームズはこう言っている。


もし、高鳴る心臓の感覚もない、浅い呼吸の感覚もない、震える唇の感覚も力の抜けた四肢の感覚もない、鳥肌の感覚もないし内臓が動揺する感覚もないとしたら、はたしてそこにはどういう種類の怒りの情動が残されているだろうか。
私には、それを考えるのはとても不可能だ。

はたして人は胸の中のうっぷん、紅潮した顔、拡大した鼻腔(びくう)、くいしばった歯、荒々しい衝動を思い描かず、弛緩(しかん)した筋肉、穏やかな息づかい、平静な顔で、怒りの状態を想像することができるだろうか?

(ダマジオ「生存する脳」より引用)

人間の脳は意識や自我を生み出すために存在しているのではない。
人格や精神などというものは進化の途中でできたオマケみたいなものである。本質ではない。人間の脳は人間の身体を機能させるために存在しているのである。

人間の脳は腕を振り回し、足を上下させ、心臓を規則的に動かし、各種ホルモンを分泌させることが主な仕事なのである。

もし精神と身体が独立した存在ならば、私たちは脳だけを保存して身体を機械にすることで脳細胞が死滅するまでの200年という時間を生きることができるかもしれない。
しかし京極夏彦氏の小説『魍魎の匣(はこ)』において、拝み屋である京極堂は狂科学者の耳元でこうささやくのである。


「脳は鏡だ。機械に繋がれた脳が産み出すのは、脳の持ち主の意識ではなく、繋いだ機械の意識だ」


肉体を離れた永遠の魂が存在するという信仰

デカルト以来の心身二元論

精神の生まれながらの崇高さを歌い上げる人権思想

全ての感覚は脳内で生じた電気信号だという合理的思考

これらに慣れ親しんだ私たちは、つい、うっかり精神だけを独立した存在だと考え、精神を偏重してしまう。
しかし、身体がなければそこに心はない。
そして自我が成立するためには、自我を納める本人の身体も存在しなくてはいけないのである。
身体が違えばそれは本人ではありえない。

それに使わない機能は急激に衰えるものである。たとえば宇宙飛行士は宇宙空間において筋肉を使う必要がないため、地球に帰還する頃には立てないほどに筋力を低下させる。
脳も同じである。身体を持たない脳は衰える。このキオリのように。
肉体なしに成立する精神などはありえない。


つまり今日言いたかったことは、「意識」と「無意識」。「大脳」と「肉体」。これらを相反するものと見るのが間違いだということである。

意識は無意識を支配し、無意識は意識を支配する。

大脳は肉体に影響を与え、肉体は大脳に影響を与える。

魂の座は「脳」でもなければ「肉体」でもない。「脳と肉体」なのである。
分からないのは、この「脳と肉体」がいかにして私たちの精神を形作り、なぜ進化は「意識」なるものを生み出したかということである。これは現在も盛んに研究されているテーマである。


さて、次回は最後に脳死について考えてみたいと思う。