玄文講

日記

深沢七郎「楢山節考」

2005-01-10 19:52:38 | 
この話は「姥捨て山」の伝承を下にして作られた架空の村の物語、母親を冬の山に捨てる不道徳な話である。

この話の主人公のおりんは長生きを恥じ、自分の丈夫な歯を恥じ、自ら山に捨てられることを望み、自ら自分の歯をくだくような老婆である。

そしてこの田舎の村では、作物泥棒の一家10数人が一夜にして行方不明になり村の禁句となったり、捨てられるのを嫌がる老人を谷底に突き落としたりと、悲惨な出来事がいくつも起きる。

この本の書評を幾つか見てみた。

アンチヒューマニズム、逆説的なヒューマニズム、閉鎖された共同体の悲惨さを写実的に描いた告発の書、悲惨で恐ろしいがゆえに人の心に訴えかける力作。

ああ、やっぱり。この本はそういう話にしておかないといけないのか、と思った。
なぜそういう話にしなくてはいけないのだろうか。

この本は読む者の心に否応無しに深く訴えかけるものがある。不道徳で非人道的な話なのにも関わらず、感動的で共感できてしまうのである。

この不道徳なものに共感してしまった感情を言葉にしようとすると、どうしても言い訳じみたことになってしまう。
この本はアンチヒューマーニズムの冷徹な観察があるんだ、この本は実は人道的なんだ、この本は悲惨な現実を告発しているんだ、この本は●●●、この本は●×■、この本は、、、、

しかし、私は思う。

アンチヒューマーニズム?おりん達のやりとりは、この上なく人間味があふれているように見えた。

人道的?まさか!老人を捨てたり、盗人を罪のない家族ごとまとめて殺すような話である。

告発?この話には一切の肯定も否定もない。ただ架空の世界が観察され、報告されているだけである。

恐ろしい話?確かに驚くべき本ではあったが、それと同時に愉快で懐かしい話でもあった。


このようにどの評価も、私の印象とは大きく異なる。
この話は不道徳な話であり、美しい話であり、悲しい話であり、愉快な話である。
特に山に雪の降る場面でのおりんと息子のやり取りと、最後のカラスの大群の飛翔シーンは絶景である。
、、、何と書くべきか、残念ながら私にはこの本を表現する言葉がまだ見つからない。

ちなみに作者が作った歌がこの本にはいくつかのっている。
私にはこれらの歌を作者が楽しみながら作っている姿が目に浮かぶ。
事実、それらは楽しそうな歌ばかりだ。楢山節の歌にいたっては「フラメンコ風に」なんて書かれている。
私たちだけ肩に力を入れていては、なんかバカみたいである。
この話はひょっとしたら、言葉ではなく歌や絵で表現すべき話なのかもしれない。