玄文講

日記

在日公務員問題、および北方領土、靖国神社参拝についての考察

2005-01-29 11:30:38 | メモ
国というのは何だろうか。
教科書的な定義を用いれば、領土を持ち、法を持ち、民を持つということになる。

ならば国益というのは、領土を維持し、法を機能させ、民を守り栄えさせることを言うのだろう。

だから北方領土問題に熱心になる人の気持ちは分からなくもない。

ただ余計なことを言わせてもらえば、領土問題で「正義は我にあり」という態度には少しうんざりさせられる。
こう薬とヘリクツはどこにでもつく。
日露に限らず世界中の領土紛争には、どちらにも大義名分があり、特にどちらが正しいとも思えないことが多い。

そして領土の所有権を決める要因は「過去の因縁(いんねん)」よりも「現在の情勢」に重きが置かれる。
大義名分として「過去の因縁」を使うのはよく分かるし、当然の事だ。
単に「よこせ」と言えば侵略者扱いを受けてしまう。
だから交渉としては「過去の因縁」を掲げつつ、「現在の情勢」を日本に領土を返す方が経済的や軍事的に日露双方の利益になるように持っていくしかないだろう。

しかし「過去の因縁」を絶対的正義とし、それだけで所有権が返ってきて当然だと信じ、いつまでも領土を返さないロシアを悪としてののしる人にはついていけないものがある。

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法を持つ国として、内政干渉ははねつけないといけない。
だから靖国神社参拝に対する支那政府の干渉に怒る人の気持ちはよく分かる。

個人的には靖国神社は歴史の浅い単なる一神社に過ぎず、アメリカ兵に頭を打ち抜かれて死んだ私の祖父の兄が眠る場所でしかない。
私は年に一度の墓参りをするつもりで、そこに通っている。

だから私はそこに過剰な思い入れを持つ「支那政府」や「愛国者」たちをこっけいに思う。
しかしそれは他人の精神の問題であり、他人が何を考え、何を信じるのも自由である。
少なくとも日本では、その自由が保証されている。

この問題ではしたり顔でこんなことを言う人がいる。
「支那の人の気持ちを考えて、参拝すべきではない」と。これを言った人は「日本の人の気持ち」は考えていないのである。
この問題に限らず「嫌がる人、傷つく人がいるから何々をすべきではない」と言い出す人は多い。
差別語の追放や悪書追放でよく使われる論理だ。

しかしその論理は実は「自分の好きな考え方」だけを守り、自分と違う考え方を許さないという態度でしかない。
他人の精神に干渉し、自分の思い通りにしたいというわがままな行為である。

支那に限らず、共産主義国は「他人の精神のこと」にまで干渉したがる傾向がある。
自国内の神社を参拝するかどうかは「内政」の問題である。
日本兵を功労者と見るか犯罪者として見るかは「個人の精神」の問題である。一国の首相といえども例外はない。

だから私はかつて「戦死した私の夫はクリスチャンでしたから、どうか靖国神社の神様にはしないで下さい」と訴えた婦人を、非国民としてののしった人たちに対して抱いたのと同じ嫌悪感を支那政府に対しても感じている。
他人の精神を自分の思い通りにしようという態度ほど不愉快なものはない。

ただし支那政府への怒りを、いつの間にか支那人に対する怒りにすり替えている人には違和感を覚える。

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国の要素の1つが国民ならば、国益とは国民の利益でもある。
そして秩序と尊厳ある国なくしては安定した私たちの生活もない。
外国と交渉し、領土を防衛し、金融政策を行い、公共の福祉を維持する。国家という組織がなくてはできないことばかりである。

だから近年の三国人による犯罪は目に余るものがあり、あれらの犯罪者に対して怒る人の気持ちはよく分かる。
私の同僚も2人窃盗の被害にあっている。
国としては国民の福祉を重視し、それらの犯罪に対して断固とした処置をとるべきである。

しかしその国民の定義を日本国籍を持つ者に限るという考え方には賛成できない。
ましてや犯罪者と生まれた国が同じというだけで彼の三国人の人々全てを恨むというのは逆恨みでしかない。
私は「その国の領土」の上で生き、「その国の法」を守る人間が「その国の民」だとみなしてよいと考えている。
国籍なんてどうでもいいことだ。

もちろん国籍を持つ人間は、いつでもどこでもその国の人間だ。
たとえば私の姉はスイスで生活し、スイスの法を守って生活しているが、日本国籍を持つ日本人だ。
私は姉を「一時的にスイス人になった日本人」だと思っている。もっとも、その「一時的」は死ぬまで続くかもしれない。
同様に私は「一時的に日本人になった韓国人」や「一時的に日本人になった支那人」を認めてもいいと思っている。
少なくとも人間にとっては「自分を受け入れてくれた場所」が「自分の守るべき場所」になるのである。

たかが国籍、たかが日本民族の血縁である。
日本人に生まれたというだけで神に選ばれたつもりにはなれない。日本に生まれ、日本国籍を持つようになったのは単なる偶然である。

私が愛国心を発揮する理由は、自分と自分の仲間の安全な生活のためであり、たまたま持っていたに過ぎない日本国籍のためではない。
そして私の場合その仲間の中には、韓国人も支那人もアメリカ人もインド人もスイス人もいるのである。
彼らはこの国で生き、この国の法を守る国民である。

彼らにとってもそれは同じことだ。自分と自分の仲間のために彼らは生きるのである。
在日公務員。
素晴らしいではないか。
わざわざ日本のために働いてくれると言っているのだ。
彼らにとって守るべき仲間は私たちだと言ってくれているのだ。
それを拒否する理由が私には理解できない。

国籍ごときにしがみつき、まるでそれが自分が選民である証のごとくすがり、万事の判断基準をそれだけに求める人間を私は心底嘲笑うものである。

(追記)
外国籍の人間は公務員試験を受ける資格がない、という判決を受けたあとの記者会見をラジオで聞きました。

まぁ、何と言いますか、「被害者」や「正義」の側に立った人間は自分がまわりからどう見られるか客観的に判断できなくなる、ということの見本のようでした。

「私を受け入れない無知蒙昧なる日本民族には天罰が下ろうぞ!今に見ておれ!ざまぁみろ!」

と言っているに等しい会見でした。
あんなことを言われれば誰だって怒ります。
昨日に引用した福田恒存 氏の言葉にあるように「怒号にも礼儀あり」ということを忘れるのはよくありません。

「今回は残念な結果になりましたが、これを機会に在日問題が大勢の人たちの間で議論されたことだけは結果的によかったと思います。
明日からは一公務員として都民の皆様や支援して下さった方たちの為に懸命に勤めさせていただきたいと思います」

くらいのことを言えば同情され、共感を得て味方も増えたでしょうに。
少なくとも感情的になりやすい人々を敵にまわすことはなかったはずです。

先ほども言いましたが、こう薬とヘリクツはどこにでもつくのです。
在日公務員問題はどちら側の発言にも大義名分があります。
ならば味方を多く獲得できるのは「論理」の正しさではなく、より多くの「共感」を得ることができた方です。

自分は正しいのだから、自分の発言は正しく、だからそれを批判する人間は正しくないのだ。
善良な方の発言にはこの種の傲慢さがつきまとい、それがかえって反発を招くことが多々あります。

自分の幼稚さをさらけだすことで、論敵側の幼稚な人間にまで攻撃を許す事態になったのは戦略的には大失態であります。

(3/23追記)

上の議論では「在日外国人は日本国籍を持つべきか」「彼らを地方公務員に採用すべきか」「彼らを行政の管理職に採用すべきか」の3点を明確に区別せずに論じているため、混乱を生じさせているのに気がついた。

1つめについては、どうでもいい。彼らが何人でいたいかは彼らの精神の問題であり、誰も損も得もしない。

2つめについては彼らの果たしている義務に対して、それは認められるべき権利に含まれると思われる。
少なくとも認めることで益はあっても害はない。
もし認めないのならば、明確に彼らを差別することを表明し、代わりに彼らの義務を軽減すべきである。

3つめについては職種によって判断すべきと考えている。
軍隊の幹部、外交員などには不向きだが、内政については、その局の管理職数名の推薦を要するという条件付きで認めるなど、現場の判断に任せればいいと考えている。