妻など持つなかれ!

2006-09-16 08:05:10 | Weblog
徒然草でシニア関連の文を探していると、ふとひどく新鮮な考えに突き当たって驚くことがある。この190段などもシニア関連ではないけれども、内容はまことに痛烈で痛快でもある。

徒然草第190段

妻(め)といふものこそ、男の持つまじきものなれ。「いつも独り住みにて」など聞くこそ、心憎けれ。「誰がしが婿になりぬ」とも、また、「いかなる女を取り据ゑて、相住む」など聞きつれば、むげに心劣りせらるるわざなり。殊なることなき女を、よしと思ひ定めてこそ添ひるたらめと、賎しくも推し量られ、よき女ならば、らうたくして、あが仏と守りゐたらむ。たとへば、さばかりにこそとおぼえぬべし。まして家の内を行い治めたる女。いと口惜し。子など出て来て、かしづき愛したる、心憂し。男亡くなりて後、尼になりて年寄りたるありさま、亡き跡まであさまし。
 いかなる女なりとも、明け暮れ添ひ見るには、いと心づきなく、憎かりなむ。女のためも半空にこそならめ。よそながら、時々通ひ住まむこそ、年月経ても絶えぬ仲らひともならめ。あからさまに来て、泊りゐなどせむは、珍しかりぬべし。

現代語訳

妻というものは男が持つべきではないものだ。「いつまでも独身ですよ」などと聞くと、その男性の人柄に深みが感じられる。
「だれだれの婿に入った」とか「これこれの女を家に入れて同居している」などと聞くと、本当にがっかりする。つまらない女性を素晴らしい女性だと思い込んで夫婦になったのだろう、とその男がつまらぬ人物であると想像される。逆に良い女ならば、(この男を)いとしく思い、仏のように大事にしていることだろう。たとえて言うならば、(良い女といえども)その程度であることがわかってくるはずだ。ましてや、家をちゃんと切り盛りする女はつまらない感じである。子供などが生まれて大事に育てている姿は不愉快なものである。男が死んだ後に尼になって年を取る様子は、男の生前はもとより死んだ跡でさえも醜いものだ。
どんな女でも、明け暮れ一緒に居て顔をつき合わせていれば、ひどくうとましくいやになるだろう。これは女にとっても中途半端で不安な状態であろう。ふだんは離れ離れに暮していて、時々通ってきて夫婦生活をする方が互いの心は長持ちするだろう。突然やってきて泊ったりすれば、二人とも新鮮な気分を味わえる。


兼好法師に「賢人」という先入観を持っている人はこの190段を読むとびっくりするはずだ。しかし読みようによっては、これは永遠の真理を語っているようにも思われる。「結婚は恋愛の墓場である」という箴言をちょっと長目に語った文章、といえばいいのだろうか。男女の仲の華はあくまで恋にありロマンにあるのであって、女が結婚して家庭を切り盛りすることを始めるならば、ロマンは雲散霧消してしまう。ましてやギャーギャーうるさく泣く子供が生まれて子育てを開始したりすれば、ロマンや恋どころではなくなる。ま、兼好法師はここで「恋に対する恋」を語っているのかもしれない。さすがは法師として独身を通した人だけのことはある、と思わざるをえない。

しかし我々凡人の庶民にとってはこのような考えは無縁のものである。そもそもオトナならば、「結婚する」と決めた以上は、時が経つにつれて最初の「好き!」という感情も醒めてしまって家庭を守り子供を育てるという甚だ日常的でつまらない「仕事」がそれにとって代わるだろう、ということを心の隅のどこかで理解しているはずだ。そうでなかったら兼好法師のような道を取るしかない。しかし世の多くの人々が兼好法師に従うならば、現在の少子化にますます拍車がかかって国は滅亡するしかないだろう。
非常に面白いけれども、現実性は全くない論議、と読み流すしかない段なのだろう。また、これは女性から見たらどう感じるのだろうか?時々通って夫婦生活をする、などは斬新な感じの話だが、夫が遠くに赴任している夫婦などは日常茶飯事でやっていることだ。


温泉旅行のこと

2006-09-16 05:46:21 | Weblog
秋田の温泉に来る時はいつも一人である。家内が温泉嫌いだからだ。しかし、去年、今年と2年続けて温泉旅行してみて分かったことは温泉旅行は1日で沢山だ、ということである。2日も湯にズボズボ潜ったり浸ったりしていると空しい気分になってくるのだ。玉川温泉などは治療のために10日はおろか1ケ月も宿に泊まっている人も居る。なにしろ病気の多くはガンなので必死の思いで一種の行として湯に入っているのだろうと思う。そういう仲間どうしで集まって情報交換しながらでないとなかなか1ケ月泊ることは困難だろうと思う。しかし玉川温泉は、表面で見た限りではなかなか明るい雰囲気である。いわゆる昔からの湯治場、の趣きを残す数少ない宿だ。湯治場といえば岩手県の夏湯温泉(げとうおんせん)もかなり徹底した湯治場だったけれども今もそのままなのだろうか。素朴な宿が近代的な建物に変るのを見ると限りなく寂しいけれども、実際に湯を楽しむ段になると清潔な温泉であることが望ましい。素朴と清潔とはどうも両立は困難なようで、自分の好みでどちらかを取るしかない。まことに贅沢な悩みではある。