「洪水から逃げる」は?

2005-09-15 19:28:33 | Weblog
☆ 「逃げる」という日本語を与えられて英語にせよ、と言われたらたぶんrun awayとか
run awayとかget awayとかflee(fled-fled)などという表現を思い出す。いずれも敵などから逃げる,というニュアンスを持つ。
それでは、ニューオーリーンズの洪水に際して、「逃げる」はどういうかというと、殆んど100%evacuateだ。(アクセントはvの次のaにある)英単語を知らなくても何とかなる、とよく言うけれども、この場合は知らなかったら何ともならない。

☆電話で”Mr.SATO?”(佐藤さんですか?)と訊かれた場合何と答えるか。
いろいろ答え方はあるだろうが、ポピュラーなのは、“Yes, it is.”だ。


うす馬鹿

2005-09-13 19:35:06 | Weblog
テレビ朝日の番組でハマコーが小池氏を「うす馬鹿」呼ばわりしたそうだ。この表現が使われた前後の文脈が分らないので軽々しくこれを「暴言」と呼ぶのは遠慮したい。第一、この番組は見なかったので。
もっとも、「うす馬鹿」程度なら、ハマコーとしては「許容範囲」の中に入っているような感じもする。こういう表現自体が出演料の中に入っているのではないか?

髪結新三

2005-09-11 16:03:36 | Weblog
昨日は前進座の「髪結新三」を観た。演劇鑑賞団体の出し物の一である。
新三が中村梅雀、源七が嵐圭史、長兵衛が小佐源次郎、などという顔ぶれだった。歌舞伎を見るのは実に久しぶりだったが、大いに楽しめた。特にセリフがよかった。ヒトを酔わせるようにリズミカルなセリフである。

ストーリーそのものは、髪結新三が動く前半と、弥太五郎源七が動く後半とに分断されており、全体としては首尾一貫していない。むしろ、サワリ、サワリを楽しむ歌舞伎なのかもしれない。(たとえばカツオなど)

それにしても、たとえば歌舞伎というしっかりした形式(枠)の中で演じられる演劇というものはえらく感銘深いものですね。




ポカラで買ったマニ車

2005-09-10 09:04:11 | Weblog
ネパール第二の都市ポカラにはチベット人が多い。避難民とその末裔だ。日本人と見ると懐かしげな様子を見せる。日本人の一人としても好きにならざるを得ない。
チベット人が営むお土産屋に小さなマニ車がワンサと置いてあった。売れ筋なのだろう。私も荷物にならない程度の大きさのマニ車を一つ買ったが、帰国すると間もなく壊れてしまった。何か粗悪な製品だったようだ。マニ車は自分で作ることもできるものらしい。ただ中に入れる経典はどうするのだろう?


盆燈篭

2005-09-10 08:56:02 | Weblog
盆灯篭も回転系の仏具です。これは近代というよりは現代に入ってから考案されたものだろうけれどもあの世から来てあの世に帰る様をよく表しているものですね。

宗教用具

2005-09-10 07:03:38 | Weblog
宗教用具というものは怪しげな魅力がありますね。たとえば、密教仏具などというものをずらり通販で売っております。いずれもさして高額なものではありません。
ひょっとしたら介護用品と並んで、これからは宗教用具製造販売が伸びる分野なのかもしれませんね。伸びないでほしいのだけれども、カネのことなら何でもやりますからね。


電気マニ車

2005-09-10 06:59:29 | Weblog
内蒙古のフフホトというところで電気マニ車を売っていた、という記事を載せたブログを拝見しました。電気マニ車・・・ウーム、マニ車って自分が回すから功徳を積むことができるのであって、電気で回したのではどうなのかなあ?

宗教用具と輪廻

2005-09-09 19:22:22 | Weblog
先日は仏教の数珠とカトリックのロザリオについて考えた。
数珠もロザリオも、働きとしては「回転」である。「円」と言い換えても良い。終りがない用具だ。回転や円は「輪廻」を想起させる。カトリック教会が教える「時間」はキリストの誕生からまっすぐに直線として世の終りまで伸びる、そういう時間のようだ。しかしロザリオは輪廻を想起させる道具だ。ロザリオ誕生の裏には何か輪廻関連の土俗宗教が関わっていたのかもしれない。
回転といえば、典型的なのがチベット仏教のマニ車だ。人間よりも大きい巨大なものから、個人用の小さなものまで大小さまざまだ。これを一回回すごとにお経を1回唱えるのと同じ功徳があるのだという。マニ車の起源については知らないが、ひょっとしたら、輪廻を信じる宗教の影響なのかもしれないと思っている。


老衰死

2005-09-09 08:30:32 | Weblog
老衰死、というのは実は無いのだそうです。必ず何かの病気で死んでるのだけれども、その病気を特定できないに過ぎないのだそうです。

「商品」という言葉

2005-09-07 09:05:46 | Weblog
「商品」という言葉は嫌いな言葉の一つだ。何でもカネに換算したがる今の状況を露骨に表す表現だ。
「商品」は、たとえば家電製品や車ばかりではない。たとえば生命保険のあるコースなども「商品」と呼ばれる。そういうものはまとめて「金融商品」と呼ぶようだ。昨日のブログにも書いたように、本も商品だ。本を「商品」と呼ぶ感覚は、私はなじめないのだ。たしかに今の本屋には「商品」と呼ぶしかないような本がワンサと置いてある。しかし同じ本屋にはプラトンもシェイクスピアも置いてあるわけだ。プラトンは「商品」だろうか?聖書は「商品」だろうか?

「商品」という語句はいつ誕生したのかは知らないが、終戦の年、つまり昭和20年頃は庶民がやたらに使う言葉ではなかったようだ。横光利一の「夜の靴」には、ある知り合いの農夫が「酒はでーじな商品ですさげのお」(酒は大事な商品ですからね)と言ったのに驚いた様が書いてある。この農夫はインテリだ、というわけである。
「商品」という露骨にカネを匂わせる日本語が盛んに(無神経に)使われるようになったのはそう昔のことではない。高度経済成長が始まった昭和33年ごろでもそう頻繁には使われなかっただろう。昭和40年頃でもそれほどではなかったはずだ。タガが外れたように使われ出したのはいつ頃からだろうか。それは、たぶん、いわゆる金融商品というものが「商品」として堂々と世に出た頃からではないだろうか。金融商品だからカネであるのは当たり前だ、と開き直った感じだった。これはすごくイヤな感じだった。

昨日も書いたように、「商品」という言葉は、企業側の符牒であって、消費者側の言葉ではない。消費者は、テレビやトヨタやプラトンやシェイクスピアを買うのであって、「商品」を買うのではない。その、いわば業界内用語である「商品」という言葉を図々しく消費者にも押し付けた(消費者はそれにたいした疑問を抱かなかった)頃から、何やら日本のタガが外れ始めたような気がする。企業側は、雇用関係を「労働商品」として扱い始め、「労働商品」の側も「私はフリーターです」などと恥じることもなく公言するようになった。まるで狂ってるとしか思えないのだが、世の中はそれで通るようになったから、私などは呆然と傍観するしかない。