ロザリオと数珠と言葉

2005-09-01 12:13:05 | Weblog
ロザリオをご存知だろうか?これは(主にカトリック)キリスト教信者の単なるアクセサリーではない。ロザリオは祈り=言葉と密接な関係がある実用品なのだ。ロザリオは聖母への祈りを捧げる場合に、その祈りの回数を数えるものだ。その祈りとはAve Mariaである。日本語では「めでたし、聖寵(せいちょう)満ち満てるマリア・・・で始まる祈りのことである。
これをカトリック教会では「天使祝詞」と呼ぶ。全文(文語)をコピーしておく。

めでたし、聖寵(せいちょう)みちみてるマリア、主は御身(おんみ)と共にまします。
御身は女のうちにて祝せられ、御胎内の御子(おんこ)イエズスも祝せられたもう。
天主の御母(おんはは)聖マリア、罪人なるわれらのために、
今も臨終の時も祈り給え。 アーメン

この祈りの前半は、新約聖書からとったものである。ルカ福音書によれば次のようである。

まず、天使ガブリエルがマリアに受処を告知する一節。
めでたし、恩寵に満てる者よ、主、汝とともにまします。
ルカ・1-28

次に、エリザベト(洗者ヨハネの母)がマリアに言う言葉。
汝は女のうちにて祝せられたり、ご胎内の御子も祝せられ給う。  
ルカ・1-42
(以上、ラゲ訳)

そして、後半の部分は中世にフランシスコ会の修道士の付け加えである、という。

この「天使祝詞」をカトリック信者は日に何度となく唱える。その唱える回数を数えるための道具がロザリオである。長年使ったロザリオは、信者の心身の一部になるものらしく、特にシニアの信者などは肌身離さず持ち歩く。私事であるが、母がカトリック信者だった。晩年、特に病気になってからは毎日ロザリオによる天使祝詞の朗誦を欠かさなかった。カトリックの習慣では土葬なのだが、母の場合は事情があって火葬にせざるをえなかった。棺に入れた僅かな副葬品のうち最たるものがこの古びたロザリオだった。

さて、日本の数珠であるが、これも唱える回数を数えるのが基本的な用途らしい。数えるのは念仏の数である。「南無阿弥陀仏」ならば「天使祝詞」よりもはるかに短い。念仏を唱えるだけで成仏できる、とあれば、貴人も庶民もこぞって唱えたはずだ。1回唱えて次の珠を繰る。それを繰り返すのだから「天使祝詞」とそっくりである。

天使祝詞と念仏は、その本質の所でよく似ている。どちらも弱い庶民が神や仏の使者に全幅の信頼を寄せ、死後の安寧を願うわけである。

以上くどくなってしまったが、天使祝詞も念仏も神・仏に寄せる言葉であり、言葉による心の交流である。人間、洋の東西を問わず、言葉によって超越的な存在に向って言葉を発せずには居られないものらしい。それは、衣食住と同じく人間の本能なのではないか、と思われる。
今、我々日本人にはそのように呼びかけるべき超越者が居るだろうか?私は、ケータイこそ、その超越者であると思っている。(別に皮肉で言っているのではない)例の尼崎の列車事故の折、ケータイの役割についてそれを強く感じた。
ケータイの圏外に入るとパニック状態になる若者が多いそうだ。それは「神」との交流が遮断されるためなのではないか?
いかに孤独な人間と言えども、心の中の超越者と話さないわけには行かないようなのだ。
アメリカのハリケーンで一晩中洪水の恐怖と闘った男性が言った。「一晩中祈っておりました」と。それはおそらく真剣な祈りだったに違いない。