「商品」という言葉

2005-09-07 09:05:46 | Weblog
「商品」という言葉は嫌いな言葉の一つだ。何でもカネに換算したがる今の状況を露骨に表す表現だ。
「商品」は、たとえば家電製品や車ばかりではない。たとえば生命保険のあるコースなども「商品」と呼ばれる。そういうものはまとめて「金融商品」と呼ぶようだ。昨日のブログにも書いたように、本も商品だ。本を「商品」と呼ぶ感覚は、私はなじめないのだ。たしかに今の本屋には「商品」と呼ぶしかないような本がワンサと置いてある。しかし同じ本屋にはプラトンもシェイクスピアも置いてあるわけだ。プラトンは「商品」だろうか?聖書は「商品」だろうか?

「商品」という語句はいつ誕生したのかは知らないが、終戦の年、つまり昭和20年頃は庶民がやたらに使う言葉ではなかったようだ。横光利一の「夜の靴」には、ある知り合いの農夫が「酒はでーじな商品ですさげのお」(酒は大事な商品ですからね)と言ったのに驚いた様が書いてある。この農夫はインテリだ、というわけである。
「商品」という露骨にカネを匂わせる日本語が盛んに(無神経に)使われるようになったのはそう昔のことではない。高度経済成長が始まった昭和33年ごろでもそう頻繁には使われなかっただろう。昭和40年頃でもそれほどではなかったはずだ。タガが外れたように使われ出したのはいつ頃からだろうか。それは、たぶん、いわゆる金融商品というものが「商品」として堂々と世に出た頃からではないだろうか。金融商品だからカネであるのは当たり前だ、と開き直った感じだった。これはすごくイヤな感じだった。

昨日も書いたように、「商品」という言葉は、企業側の符牒であって、消費者側の言葉ではない。消費者は、テレビやトヨタやプラトンやシェイクスピアを買うのであって、「商品」を買うのではない。その、いわば業界内用語である「商品」という言葉を図々しく消費者にも押し付けた(消費者はそれにたいした疑問を抱かなかった)頃から、何やら日本のタガが外れ始めたような気がする。企業側は、雇用関係を「労働商品」として扱い始め、「労働商品」の側も「私はフリーターです」などと恥じることもなく公言するようになった。まるで狂ってるとしか思えないのだが、世の中はそれで通るようになったから、私などは呆然と傍観するしかない。