koshiのお部屋2

万年三歳児koshiの駄文のコーナーです。

龍馬伝-最終回「龍の魂」

2010年11月29日 21時56分35秒 | 龍馬伝

首を捻りながら11ヶ月見続けました。
以下の内容は,「龍馬伝」の熱狂的ファンや女性に多いという福山雅治ファンの方々にとっては,甚だ不愉快な内容を包含するものとなることは間違い有りません。
ですので,そうした方々には,せっかくお出でいただいたのに申し訳ないですが,お読みにならないことをお薦めします。
また,もし読まれた場合は,愚者の戯れ言として「相変わらずしょうもないこと吹いてやがる」と看過していただければ幸甚です・・・。


ようやく今見終えました。
昨日はスケート見ていたので・・・。
目出度く,「風林火山」,「かねたん」に次ぐ大河試聴コンプリートとなりました・・・。
こうして「龍馬伝」の感想書くのも最後となりますが,毎度毎度のように突っ込みどころ満載で,実に飽きさせず(否,今日も近江屋遭難のくだりまで居眠りしかけた)ブログ根多にもなったことには感謝せずばなりません・・・。


以前も述べたことがありましたが,私自身15歳で読んだ司馬遼太郎の畢生の名作「竜馬がゆく」に填ったクチでして,どうしてもその呪縛からは逃れられないでいます。
恐らくそれは今後も変わりはないでしょう。
勿論「竜馬がゆく」は大幅なフィクションの部分もあり,膨大な資料と綿密な調査・考証・フィールドワークの末に著されたものとはいえ,作者の主観が盛り込まれていることを否定するものではありません。
今回の「龍馬伝」の原作者である福田氏も,きっと幾度となく「竜馬がゆく」を読み返したことでしょうし,21世紀の新たな龍馬像を模索して打ち立てようという天晴れな心意気で作品に臨んだであろうことは想像に難くありません。
その心意気たるや壮挙として讃えることには依存はありません・・・。


しかし,映像作品として,そして群像劇として捉えると,残念ながら否定的な内容が多くなってしまいました・・・。
三菱財閥を興した岩崎弥太郎と「汗血千里駒」の著者である坂崎紫欄を会わせるという設定は面白いと思いましたが,龍馬と弥太郎の接点は如何ほど有ったのかと考えると,こうもしょっちゅう絡んでいる2人の姿に疑問符しか出ません。
番組末の「龍馬伝紀行」に,取って付けたように龍馬と弥太郎が親密であったというくだりがありましたが,土佐時代(龍馬が第一期江戸遊学を終えて帰郷した安政元年6月~翌々年8月と第二期終了の安政5年9月~脱藩した文久2年3月)に接触したことは可能性としては有るでしょう。
但し,龍馬は高知城下の本町,弥太郎は現在の安芸市に住んでいたので,その距離は50kmです。
龍馬は剣客として名を為し土佐勤王党へ,弥太郎は地下牢人の子に生まれて藩庁に取り立てられて役人に,という言わば敵味方の相反する立場となっただけに,親密なお付き合いは無かったと思われます・・・。
唯一,龍馬脱藩直後の大坂で龍馬召し捕りに失敗したことと,慶応年間土佐商会代表となった弥太郎が長崎で龍馬の亀山社中の会計担当となって金をせびり取られたことぐらいが接点だったのでは・・・と思われます・・・。


今回の内容で言えば,何で松平春嶽の居城が越前城なのか・・・。
福井県民から苦情は無いのでしょうか・・・。
藩名=城名というところは私のところを含めて多いですが,例えば福岡城を筑前城,熊本城を肥後城とは言わんでしょう。
せめて北の庄城くらいだったら許せる範囲でしょうが・・・。
さらに三岡八郎(後の新政府参議由利公正)とは,新政府の政治形態について夜通し熱く話し合った筈です(五箇条のご誓文の起草者が三岡ですので)。
でもって,いつの間にかマッハで帰京した龍馬の周りは敵だらけに・・・。
あくまでも武力倒幕を標榜する薩長(特に薩)が龍馬暗殺の黒幕か・・・と思わせておいて突然出現する佐幕の男。
誰だこれは・・・亀晴信(懐かしい)・・・と思ったら,今井信郎でしたね・・・。
・・・で「中岡の家内です」・・・と来たもんだ・・・(目が点・・・)。
どんがらがっしゃん・・・という音は,藤吉が背後から斬られて階段から落ちる音でしょうか・・・。
精巧に再現された近江屋室内に感服・・・と,どなたかのブログにありましたが,遭難前日,風邪をひいた龍馬が土蔵から母屋の二階に移って・・・という弥太郎による語りが欲しかったです・・・ていうか,何で弥太郎京に居るんだ・・・(絶句)
・・・で,龍馬を斬った見廻組が何で土佐者と分かった弥太郎見逃すか・・・。


・・・ということで,最終回も根多に困らない内容で何よりでした・・・。
幕末の若者たちのひたむきな生き様が伝わってくる・・・と好意的な意見の多かった「龍馬伝」でしたが,考証と役者のキャラという点で悔いたりなさが始終残りました・・・。
第一龍馬のキャラがよく分かりません。
豪放磊落にもさほど陽気にも見えないし,登場当初からやたらポテンシャルが高く,各時代(幼少期土佐~第一期江戸~帰郷~第二期江戸~土佐勤王党結成と脱藩~築地海軍伝習所・神戸海軍塾~長崎亀山社中~薩長同盟締結と最後の大回天)の描き分けのコントラストも感じられませんでした・・・。
また,登場人物でかろうじてキャラが立っていたのは,龍馬を除くと中岡,西郷,陸奥,沢村ぐらいで(勝とか佐那とか加尾とかもか??),桂役の谷原章介も上手い俳優という印象があったのですが(「風林火山」のダークサイド今川義元とか),今回は今二つに思われました・・・。
まだまだ書けそうですが,ますます暗黒面に陥りそうなのにで自粛しますが,来年の「お江」の予告編,浅井三姉妹のおねいさん方を見て,「あんみつ姫」かと思ってしまいました・・・。
どうも期待できそうにないけど,見てしまうんだよなぁ・・・(期待しないなら見るな,という批判はごもっとも) ・・・きっと・・・。
近年の大河での成功例は,「風林火山」と「篤姫」あたりと思うのですが,それとてかつての「国盗り物語」,「花神」,「草燃える」,「翔ぶが如く」(いつだ・・・)あたりと比べると???と思います・・・。
歴史好きとしては,正直言って大河ではないですが「真田太平記」くらいの濃厚なドラマでないと満足しないです・・・。


さて,「坂の上の雲」が待たれます。
こちらは登場人物に殆ど違和感がありません。
50年と違わない時代の内容だけに,どうも去年と今年の大河は「坂の上の雲」にエキスを吸い取られたような気がしてなりません・・・。
ちょっと端折り過ぎな感じは有りますが,昨年の第一部を見る限り,制作者の気合いというか志の高さが伺えましたので・・・。
日記@BlogRanking


龍馬伝-第32回「ねらわれた龍馬」

2010年08月09日 20時26分29秒 | 龍馬伝

久々に18:00からリアルタイムで見たのですが,例によって飲んでしまい,その後近所の夏祭りに行ったりしたので,更新のタイミングを逸しました。
よって,今からエントリする次第・・・。


そうそう,先週突っ込もうとしたのですが,西郷が下関に寄らずに大坂に直行してしまった理由について。
公儀隠密だぁ・・・??????(絶句)
それが密航していたので,幕府の目を憚って下関に寄らなんだから許したくれだぁ・・・(絶句2)
ま,脚本を書かれておられる福井氏がこんなところを見ておられる筈もないでしょうが,はっきり言って,「功名が辻」の大石,「天地人」の小松両女史同様,どれ程史実をご承知なのか,その定見を疑いたくなります。
私の如き近世史のど素人に突っ込みを入れられるようなことでは,まずいを通り越しています。
福井氏はどれぐらい「薩摩飛脚」というものを御存じなのでしょう・・・。
薩摩は藩全体が秘密主義の固まりのようなものでしたので,国境の番所を越えて領内に侵入することはほぼ不可能だったということです。
ですから,薩摩船に公儀隠密が乗っていて・・・という理由付けにぶっ飛びました・・・。公儀隠密を恐れるような殊勝さはこの時期の薩摩藩に有る筈もなく,英国と公使パークスを通して勝手に貿易をしていた訳ですから,幕府を嘗めきっていたとしか思われませんし,今更公儀を怖れて・・・というのも納得がいきません。


でもって,西郷を追っていとも簡単に入京する龍馬(といっても寺田屋のある伏見は洛中ではありませんが)。
おりょうとお登世会いたさに寺田屋に投宿するも,何と寺田屋にはおりょうにご執心の近藤が居た・・・(目が点)。
あまりの設定に,もはや驚きを通り越していましたが,この時点で呆れていた私の認識は実に甘かったとしか言いようがありません。
この後,さらに驚くべき設定が待っていたのですから・・・。


新撰組の屯所は,周知の通り洛中壬生に在ります。
近藤が幾らおりょうにご執心でも,壬生から洛南の伏見までは7km以上あります。
徒歩だと1時間半以上でしょうから,そう簡単に行けるものではありません。
仮におりょうに会いたい一心で・・・と考えても,局長たるものそんなに屯所を空けて良いはずはありません・・・。
・・・で,おりょうを取られては・・・と色めき立って近藤の前に出る龍馬。
西郷の遠縁を名乗り,付け焼き刃の薩摩弁で近藤に意見し,近藤が抜きつれる前に龍馬の愛刀の柄が近藤の鳩尾を突く・・・。
簡単に昏倒する近藤(洒落にもならん・・・)。
そのまま近藤は眠り続けるのであった・・・。


翌日(か?)おりょうに風呂をたてさせ,入ってご満悦な龍馬。
その龍馬を付け狙う不審な影・・・。
さすがに私も新撰組か見廻組かと思いきや・・・。
「男の裸見て楽しいか」(これは全くをもって同感)
の龍馬の誰何に,出てきたのは何といっけい重太郎・・・(放心状態)。
一瞬,おねいさんも一緒か・・・と良からぬことを考えた私でしたが,残念ながらそれはありませんでした・・・。
何でも妹が不憫で,龍馬を何としても江戸へ・・・ということで上洛したとのこと。
何ていい人なんだ・・・で,いっけいがこんな良い役やるのを初めて見た・・・。
そこへ,突如踏み込む近藤(一体どれぐらいのびていたんだ・・・)。
で,人の良いいっけい重太郎は,自分の身分を明かしたのみならず,
「坂本君を・・・」
と,本名言ってやんの・・・。
で,近藤もこんな大物を前にあっさり引いた・・・(北辰一刀流の使い手2人相手では,天然理心流は所詮田舎剣法か・・・)。
いやぁ・・・ぶっ飛びました・・・。


で,あっという間に45分終了。
まじで面白かったです。
今回は展開読めなかったし・・・。
でも,突っ込みどころが相変わらず多すぎます。
だいたい所在不明の龍馬が何で寺田屋に都合良く居るんだ・・・いっけい重太郎・・・。ま,いろいろまだまだ述べることは有るのですが,長くなったので今回はここまでにします。
来週はまた長崎編でしょうね。
お元おねいさん,武市とできちゃったそうで・・・。
岡田君と破局したばかりでは・・・。
日記@BlogRanking


龍馬伝-第31回「西郷はまだか」

2010年08月02日 21時40分10秒 | 龍馬伝

長崎を初めて訪れたのは,もう20年近く前になります。
正月明け,東京を夕刻発する寝台列車に乗り,目が覚めたときそこは初めて訪れる九国の地でした。


長崎の近世初頭の歴史は,言わば殉教の歴史でした。
今も長崎駅頭に碑が残る二十六聖人殉教に始まる切支丹の苦難は,島原の乱(今は天草・島原一揆というらしい)でピークに達します。
その後,新教国であるオランダと清のみが幕府に交易を許可されていたことは周知の通りです。
そして,維新後というかつい最近も原爆の被害に遭うという(余談ですが当初の投下目標は九州工業地帯の中核都市である小倉だったそうで,8/9当日朝の雲の状況から長崎に変更になったということだそうで・・・)負の歴史を引き摺る街ということになります・・・。


しかし,私が目にした長崎の風物は,いずれも明るい雰囲気に包まれたものばかりでした。折からの好天と冬ならではの乾燥した空気もあったのでしょうが,大浦天主堂から坂を登ったグラバー園も野球で有名な海星高校の近くのオランダ坂も,そして寺町の一郭にあるこれまた坂の途中の亀山社中跡(昭和30年代に司馬遼太郎氏が取材の為に訪れたときは,人が住んでいたそうです)もすべて明るい陽光の中に有りました。
この底抜けに明るい風気は,きっとこの街が東シナ海を控えて,さらにその先の海外と結びついていたからではないのか・・・などと思いました。
番組終わりに紹介のあった亀山社中の坂を登り切ったところにある風頭公園には龍馬像があります。
その茫洋たる眼差しは,きっと海の向こうに向けられていたに違い有りません・・・。


・・・ということで,一日遅れでビデオ回しましたが,相変わらずよう分からんことをやっておりました。
そう言えば,今まで中岡慎太郎は出ていなかったんですね。
池内蔵太同様,唐突すぎないでしょうか・・・。
で,この頃の龍馬ですが,一体いつ長崎にいたのか調べてもよく分かりません。
今回の放送では,いつの出来事なのか分かりませんでしたので,一応慶応元年5月周辺の出来事を追ってみます。


  5/ 1  薩摩船にて鹿児島へ到着。西郷邸・小松帯刀邸に逗留。
  5/19  熊本沼山津に横井小楠を訪ねる
  5/24  大宰府で三条実美に謁見
  5/27 大宰府で三条実美をはじめ五卿に謁見し薩長連合を進言。
閏5/ 1  下関到着。白石正一郎邸に逗留。
閏5/ 5  長州下関白石正一郎邸で土方久元と会談。中岡の薩長和解周旋に協賛
閏5/ 6  桂小五郎と会見、西郷の到着を待つ
        中岡慎太郎,鹿児島に到着。
閏5/11  武市瑞山、獄中死
閏5/16   中岡慎太郎,西郷吉之助と薩船「胡蝶丸」で下関に向かう。
閏5/20  中岡慎太郎 佐賀関を出港。下関に向かう。
閏5/21  中岡慎太郎,下関上陸。坂本・桂に不首尾を告げる。
     西郷,下関に上陸せず。両藩和解せず。
閏5/29  西郷説得のため下関出発。京へ向かう。


中岡が五卿と会ったのが4/20で龍馬が5/27ですから,この2人が太宰府で遭う筈がありません。
また,この時期の中岡も龍馬に劣らず獅子奮迅・八面六臂の活躍だったことが伺えます。で,社中結社は5月と推定されます。
龍馬の活動基盤はいよいよ鹿児島から長崎に移ったのもこの時期で,いよいよ長崎で本格的な活躍が始まります。
因みに桂が下関に帰ったのは同年4月末ですから,幾らも時間はたっていません。
先週述べたように,大田・絵堂の戦いに桂は居ません。
ですから,長州藩尊皇派のクーデターの中心となったのは高杉であり,山県狂助(有朋)と村田蔵六(大村益次郎)が直接の戦闘指揮を行ったと言うべきかも知れません・・・。


来週も何かよう分からんことになりそうな・・・。
突っ込みどころ満載で面白いのですが,何か見るのがかったるくなってきた・・・。
日記@BlogRanking


龍馬伝-第30回「龍馬の秘策」

2010年07月25日 23時28分40秒 | 龍馬伝

冒頭,元治元(1864)年12月の長州藩反乱から始まりました。
反乱,というとさぞや大規模な合戦が幕府を相手に・・・と思われますが,勿論前年の八月十八日の政変や同年の池田屋事件,そして蛤御門の変によって踏んだり蹴ったりの長州藩には幕府とやり合う力など残っていません。
何せ第一次長州征伐が始まったことで,藩論は佐幕一色となり,上記政変の責任をとって周布政之助や福原越後といった家老クラスが切腹。
完全に幕府に恭順・・・といったのが実情だったはずです。
・・・で,そこでその俗論党政権を倒そうと立ち上がったのが高杉だったという訳です。ですから反乱などという威勢の良いものではなく,一種のクーデターのようなものであり,それも際どく成功したと言えるでしょう・・・(大田・絵堂の戦い)。
このあたりの高杉の動きは実に面白く,俗論党政権下では身の危険を察していち早く筑前へ逃亡,やがて下関に潜伏して奇兵隊(山県)や力士隊(伊藤)を率いて決起。
さらには僅か18人で三田尻港を急襲し,藩の軍艦3隻を奪取。
下関へ回航させ,やがて年が明けての大田・絵堂の戦いとなる訳です。
ですから,当然高杉が長崎に伊藤や井上と居たというのは考えられません。
さらには呆れたことに桂がいつの間にか長州に戻ってきており,一手の大将として采配を振るっておりました。
をいをい,桂が長州へ戻るのは勤王派による政権奪取が成された後の慶応元(1865)年の4月末だろうに・・・。
慎重な桂が危険なクーデターに参加する筈もなく,当時は但馬出石に潜伏していた筈です。・・・で,勤王政権成立でひょっこり現れる(村田蔵六=大村益次郎が書簡で呼んだらしい)・・・というのが史実でしょう。
桂とはそういう男です(誤解を招きそうですが,決して揶揄しているのではなく,機を見るに敏なこういう男こそ立派に生き残るということです)。
さらに,「長州藩力士隊」なんて幟挙げて戦争するんか・・・。


・・・ということでのっけから突っ込みどころ満載でした。
・・・で,肝心の龍馬くんですが(弥太郎くん談では性格変わったらしいですが,どこが・・・??),福山くんってあっさり顔というか草食系なんですかね・・・。
周囲のイケメンたちも皆草食系あっさり顔なので,今回は何かすっかり埋没してしまっていました・・・。
突然池内藏太出てくるし(白峰駿馬は居ないのか),せいぜい判別できるのは饅頭屋と陸奥と沢村ぐらいです・・・。
多分若手俳優を集めて青春群像劇にしたいという意図が有るのでしょうが,とにかくキャラが立ちません。
それに対して,女優のお二人は際立っていましたね(豪商小曾根役の本田博太郎さんも)。
余貴美子さん(お慶は当時38歳でした・・)も,中野友加里もとい蒼井優嬢も存在感はどの男優よりも有ったと思います。
尤もお元のキャラがいまいち分からないし,切支丹???。
オランダは新教(プロテスタント)だから切支丹とは呼ばないか・・・。
・・・で,長崎奉行所の息がかかったおねいさんが隠れ伴天連???
よう分からんぞ・・・カウンタースパイか・・・(どっちの?)
さらにはカステラ作りですか???
龍馬は交易を目指していたのであり,カステラを作っていたというのは何か史料の裏付けがあるのでしょうか・・・。
単に長崎だから・・・ということでしたら全く無意味で,むしろお慶が行っていた日本茶の貿易にでも加わらせた方が現実味があったように思われます・・・。
ついでに,土佐の男たちは皆大酒飲みですから,カステラを喜んで食すとも思われないのですけど・・・(私は甘いものも辛いものも好きですが,日本酒とカステラという組み合わせはとんでもないです・・・)


題名は,薩長同盟のことでしたね。
幕府を恐れる言い方を西郷どんがしておりましたが,薩摩の上層部は幕府を嘗めきっていましたから,幕府を敵にするのを今更恐れるとも思えないのですが・・・。
勿論幕府の背後には小栗忠順の政策でフランスが控えており,公使のロッシュは幕府に武器の供給を約してました。
ただ薩摩も英国が背後に居り,既に交易中でした。
当然首を振らない西郷どん。
次回はどうやら西郷を下関に連れて行こうとする話のようです。
ということは,慶応元年5月・・・。
武市が切腹した時期ですね・・・。
さて,勿論史実では西郷は下関をパスしてしまうのですが,どうなるのでしょう・・・。
さらに亀山社中の設立は・・・。
日記@BlogRanking


龍馬伝-第29回「新天地,長崎」

2010年07月19日 22時25分53秒 | 龍馬伝

いよいよ第3部,長崎からスタートです。
しかし,タイトルバックが替わった(AdventureからNavigator)以外には,弥太郎くんの話だと,龍馬の性格まで変わってしまったということなのですが,果たしてどうなんでしょうね・・・。
亀山社中-海援隊-土佐商会-馬関海戦-薩長同盟と,龍馬の活躍は確かに慶応年間に凝縮されており,後の五箇条のご誓文の元となったと思われる「船中八策」の起案とか後藤象二郎とご老公の容堂を動かしての離れ業とも言うべき大政奉還等,歴史上の奇跡とも言える偉業をはたしたことになっているのですが,だからといって性格が変わったと断ずるのは早計と思うのですけどね・・・。
だいたい三部構成(否四部になるのかな)ということ自体が,「立志編」,「怒濤編」,「回天編」と初期に副題の付いていた「竜馬がゆく」から脱却しえていない印象を受けます。
勿論,何度も言うように私自身が「竜馬がゆく」の呪縛から逃れられないでいる訳ですが・・・。


いやー,冒頭でぶっ飛びましたね。
48歳の弥太郎にお灸を据えていたのは,もう二度と出番は無いと思われたおねいさんでした。
一瞬喜んで鼻の下を伸ばしかけた私ですが(をい),待てよ・・・確かに佐那こと千葉さな子は維新後華族女学校(現学習院)の舎監を務めた後,足立区千住仲町で鍼灸を営んでいた筈ですが,それは明治19(1886)年からのことで,弥太郎が亡くなった翌年のことになります。
今回の設定である1882(明治15)年は華族女学校の舎監に就任した年であり,弥太郎に灸を据えるにはちょっと無理があると思いました・・・。
灸を熱がる弥太郎に大笑いしてしまいましたが・・・。
で,今度こそもうおねいさん出てこないんだろうな・・・。


長崎といえば丸山です。
江戸の吉原,京都の島原と並んで当時の三大「男の社交場」でした(現代では,すすきの,国分町,歌舞伎町・・・否中州と宗右衛門町か・・・,吉原・堀之内・栄町か・・・退場!!)。
そんなところで刃傷沙汰起こした上に,高杉が発砲。
如何に幕府を嘗めていたからといって,あり得ることではございません・・・。
だいたいこの時期に津和野藩士と偽って高杉が長崎にいること自体不思議で,伊藤と井上まで・・・って,この時期っていつなんだ・・・。
先週武市が切腹したということは,慶応元(1865)年6月か・・・。
ということは,既に亀山社中は存在していなくてはいけないし,この時期の龍馬は鹿児島の小松帯刀邸に居て,熊本の横井小楠や太宰府の三条実美を訪ねている筈です。
以前述べたように,龍馬初の長崎行は前年(というか風雲前夜ともいうべき)の元治元(1964)年1月に勝に付き添ってということになります。
ですから,そのあたりの考証の甘さは否めません・・・。
考えてみたら,この時期の高杉は佐幕に戻った藩論を覆すべく起こしたクーデターがきわどく成功し,藩論を倒幕に再び戻した時期であり,馬関にて八面六臂の活躍をしていたと思われます。
ですから,長崎に来るのは不可能と思われます。
因みに,伊藤と井上が武器の買い付けに長崎に来たのは事実ですが,亀山社中創立後の同年7月になります・・・。


初登場の蒼井優嬢(以前蒼井そら嬢と間違って大顰蹙を買ったのは私ぐらいか),個人的には○ですが,芸妓にはちょっと見えないかも知れません・・・。
で,長崎奉行の間諜だった・・・??
何かよう分からん設定でしたが,次回はもっと見えてくるのでしょうか・・・。
日記@BlogRanking


龍馬伝-第28回「武市の夢」

2010年07月11日 19時12分07秒 | 龍馬伝

のっけから後藤の前での猿芝居のリフレイン。
ピエールと弥太郎が感動の涙を流す。
そして坂本家では龍馬の行動に,兄権平を中心に賛嘆・・・。
をいをい,お家取りつぶしの危機だぞ。
勝手に龍馬が坂本家と義絶したとしても,連座は免れません・・・。
突っ込みついでに,龍馬の姪春猪役の前田敦子嬢。
確かに可愛いのですが(をい),この時点(元治元~慶応3年)で既に嫁いでおり,子どもも居ます・・・。


・・・で,容堂が牢にやってきた・・・(絶句)
腹を割って話す容堂に,武市は感動して自白して・・・。
何なんだよ,一体・・・。
証拠不十分のまま,容堂は刑を断行したのではなかったのか・・・。
以蔵も自白せず,武市からの手紙で容堂が感謝したことを伝えられる・・・。


しかし,こんなことで驚いたり呆れていた私は大甘だった・・・。
龍馬が何とまだ土佐に潜伏していて,出仕途中の弥太郎捕まえて武市に会わせろだぁ・・・(悶絶)。
俗吏に落ちた(揶揄しているのではなく,弥太郎の生き方とはそういうものであり,天寿を全うしたのですから,是とすべきです)現実主義者の弥太郎がそんなことに手を貸す筈もなく,ましてリスキーなことなんかする訳ございません・・・というか,慶応元年春(と思われる)この時期に弥太郎と龍馬と武市が会うなんてことはあり得ないと断言しましょう・・・。
というか,何度も言っていますが,龍馬と弥太郎の接点は龍馬脱藩直後の大坂と慶応2年以降の長崎でしか無く,武市と弥太郎の接点に至っては皆無と断言しても良いと思います。でもって,こんな無駄なエピソードに時間かけるんじゃねーよ,と言いたくなります・・・。


これで第2部が終了。
・・・といっても,明確な区分があるわけではなく,制作側が勝手に土佐編,江戸編,脱藩編といった具合に分けているだけのような気がします。
次回は長崎が舞台のようなので,あのエキゾチックな雰囲気を味わえると良いのですが・・・。
尤も,元治元(1864)年2月に龍馬は長崎へ既に行っております。
ですから,次回初めて長崎を訪れたような描写があったとしたら噴飯ものでございます(多分有りそうだ・・・)。
因みに,武市の獄死が慶応元(1865)年5月。
では土佐で武市に会っていた龍馬は本来何をしていたのでしょう・・・。
多分4月までは神戸の操練所閉鎖の残務処理をして,その後薩摩へ。
武市が見事三文字腹を切った頃は,鹿児島・熊本を経て長州下関の豪商白石正一郎のところに居た筈です。
既に龍馬には薩長同盟の構想があったということでしょう・・・。
日記@BlogRanking


龍馬伝-第27回「龍馬の大芝居」

2010年07月04日 19時40分46秒 | 龍馬伝

寺田屋からスタート。
おりょうの表情がすっかり柔和に・・・と思ったら,やはりつっけんどんな様子は変わらず。
薩摩の人はみんな良い人で,嫌な思いをさせられたことは無い・・・ということは,龍馬脱藩直後の第一回寺田屋事件はどうなっているんだ・・・。


・・・で,薩摩の庇護を嫌う沢村たち・・・。
大坂の大和屋では饅頭屋長次郎に子ができていた・・・(をいをい本当か・・・)。
・・・で奥さん子どもを捨てるんか・・・。
・・・で突然やってきたピエール溝渕。
え゛,弥太郎の手紙・・・。
だから,弥太郎と龍馬に接点など無いから,手紙なんか出す筈無いっての・・・。
でもって,武市が以蔵に一服盛ったのは楽にしてやりたいから,というより口封じではなかったのか・・・・。
かつての仲間を憂い絶叫する龍馬。
ピエールに土佐に連れて行けと・・・。
龍馬の思考は極めて合理的であった筈で,かつての土佐勤王党の仲間の身を憂いはしても感情に任せて突っ走ったりする筈が有りません。
ましてや国境の番所を突破して,土佐に潜入などする筈は無いと断言しましょう・・・。
元治元年段階で土佐に・・・となってしまっては,慶応3年8月の帰国が劇的でなくなってしまうではないですか・・・。
弥太郎を拉致って・・・といったあたりでは,もう開いた口がふさがらなくなりました・・・。
武市夫人が布団に寝なかった・・・というエピソードは事実でしょうね。
その後の件については,もう何をか況んや・・・。
後藤を叩きのめしたのは気分良かったですが,ピエールと弥太郎も巻き込んで・・・,そして結局武市は助からず・・・,と何の意味もないと思うのですが・・・。


・・・ということで,今回が一番はちゃめちゃだったでしょうか・・・。
ま,大河がエンターテイメントに走ってはいけない,とは思いませんが,捏造や歪曲はいけません。
あれを見て史実だと思っている人が山のように居るでしょうから・・・。
日記@BlogRanking


龍馬伝-第26回「西郷吉之助」

2010年06月27日 20時25分53秒 | 龍馬伝

神戸海軍操練所閉鎖。
龍馬にとって大きな挫折だったことは疑いありません。
この時期,行き場を失った龍馬を救ったのが西郷との友誼だったと言われております。
勝の紹介で西郷に会ったのは事実でしょうね。
元治元(1864)年10月か翌付きのことと思われます・・・。
で,薩摩屋敷に匿われたのは事実でしょう。
ここでも勝の口利きが大いに効いたと思われます。
西郷と勝が最初に会ったのが,長州征伐を控えたこの時期でしょうから,後の品川薩摩屋敷における江戸城無欠会場の伏線はこんなところにあったということになります・・・。西郷が既に薩摩藩において小さからぬ存在であったことは事実でしょうが,それも家老である小松帯刀の存在が有ってのこと。
すべてをうしなったこの時期の龍馬が,陸奥とともに薩摩藩の庇護を受け,幕吏の目を逃れることが出来たのも,言ってしまえば勝と小松のおかげということになるのでしょう。


土佐では,俗吏の弥太郎くんが家庭の幸福とは裏腹に悩んでいました。
何せ,投獄された半平太に以蔵の始末を託され,毒饅頭を受け取ったからです。
半平太が以蔵に一服盛ったのは事実でしょう。
獄吏が完全に半平太の味方であったことを裏付けることになりますが,とにかく天祥丸なる何とも雅やかな名前の毒を半平太は以蔵に飲ませたことになります・・・。
勿論,その仲介を弥太郎に頼んだ筈はないでしょう。
半平太と弥太郎は,龍馬以上に疎遠,というか接点はほぼ無しと見ても良かったのではないでしょうか・・・。
ですから,毒饅頭を弥太郎が・・・というエピソードは無駄と思いました。
いじましい父ちゃんと毒饅頭を取り合う場面は大笑いしてしまいましたが・・・。


龍馬が訪れ,西郷と会見していた薩摩藩邸で軍事教練をしていたのも??です。
藩の重役が会見中にやっているのかどうか・・・。
それに何ともごつくない西郷どん(せごどん)でしたね。
平成2(1990)年 の大河ドラマ「翔ぶが如く」で西郷を演じた西田敏行は本人の思惑はともかく(西田は福島出身なので)合っていたと思いましたが,どうもその残像が大きすぎたようで・・・。
ミニエー銃がまことしやかに紹介されていましたが,正式に我が国に入ってきたのはこの元治元年と言われています。
薩摩は薩英戦争以来英国との交易を始めており,フランスで開発されたミニエー銃はオランダで製造されたものが幕府に入ってきたのが最初と言われています。
ですから,この時点で薩摩が持っていたとは到底思われません。
むしろ薩摩は,ミニエー銃の英国式ともいうべきエンフィールド銃を持っていたと考えた方がよいかもしれません(それにしたってせいぜい慶応元年あたりからでしょうが)。
ただ,こうしたことを総合すると,薩摩は完全に幕府を嘗めきっていたというか,眼中に無かったに違い有りません。


次回はどうなるのでしょうね。
予告を見た限りにおいては,はちゃめちゃなことが起きるようですが・・・。
この時期の龍馬は,薩摩の庇護の下鹿児島へ行ったり,熊本の横井小楠を採訪したりして,次第に薩長同盟の基礎を固めていくのですが,よもや高知に潜入したとか上海へ渡航したとかにはならないでしょうね・・・。
日記@BlogRanking


龍馬伝-第25回「寺田屋の母」

2010年06月20日 20時03分31秒 | 龍馬伝

伏見寺田屋でのお登世との邂逅シーンからスタート。
池田屋の変直後の伏見ですから,当然のことながら新撰組や伏見奉行所の幕吏が張っている筈なんですけどね・・・。
それに元治元(1864)年6月と考えると,龍馬の格好は暑苦しすぎませんかねぇ・・・。
そんでもって,お登世に18年前土佐に居なかったかと聞き,母上に似ているとカミングアウトする始末・・・。
さらに母上と呼んで良いですか・・・と来たもんだ・・・(目が点・・・)
12歳で母親を失ったといいますが,龍馬はマザコンだったのか・・・。
似ているのは当然です,二役ですから・・・という突っ込みは別として,草刈さん良い味出してます。
船宿の女将らしい雰囲気が出ていてとても良かったのですが・・・
うん,あの先日の衝撃的だった全段ぶち抜き広告と同じ方とは思われないし・・・。
煙管を持つ手も何となくいなせでよさげな雰囲気です・・・。
ところが・・・。
お登世は龍馬の5つ上で天保元(1830)年の生まれです(吉田松陰と同い年だ・・・)。
ですからこの時点で35歳。
昔の人は早く年を取ると考えても,5つ上の女性に母親の面影を感じるというのはどのようなものかと・・・。
むしろ年上のおねいさんに憧れる・・・という設定の方がまだ自然ではないかと思うのですが,どんなものでございましょう・・・。


ま,それはさておきいきなり禁門の政変が始まってしまいました。
突如登場する真木和泉に来島又兵衛。
久坂義助(玄瑞)も激高していて,宥める桂・・・。
確かにその通りなんでしょうけど(久坂はやむなしという感じで過激な藩論に従い,やる以上徹底的に・・・といった印象が強いのですが),唐突すぎやしませんかねぇ・・・。
池田屋の変でもそうでしたが,何で新撰組が池田屋を襲撃したのか,動機付けが極めて曖昧というか全く足りませんでした(長州藩士古高俊太郎が拷問で口を割ったので判った)。せっかく時間を取っているのですから,そのあたり(長州が暴発する経緯と踏んだり蹴ったりになった事情)を要領よく且つ丁寧に描いて欲しかったです・・・。
又兵衛は銃撃にあって討死は史実と思われますが,久坂は鷹司卿に嘆願しようとしたものの鷹司の拒否に遭い,悲憤慷慨のうちに同士の寺島忠三郎と刺し違えた筈です。
どの史料を見てもそう考えている筈なのですが・・・。
何故薩会同盟が成立したのか,御所を守っていたのは誰なのか(一橋慶喜と松平容保),長州が暴発するに至った経緯は・・・といったことが語られず,ストーリーの進行が龍馬の私生活に終始していたのが残念でした・・・。
で,予想通りまた京で桂と遭いましたね・・・。
乞食の格好で敢えて京洛に残り,愛人の幾松(後の木戸孝允夫人松子)までをも敢えて無視をしていたという桂が龍馬と話す道理はございません・・・。
何でもかんでも史実に主人公を絡めたがる近年の大河の悪弊が出てしまっていた回でした・・・。


いや,確かに面白いんですけどね・・・。
突っ込みどころ満載だし・・・。
でも,やはりここは「坂の上の雲」の再開が待たれるところです。
オールスターキャストが鼻につくという意見もあるようですが,悪いけど「天地人」といい「龍馬伝」といい,何かエキスを「坂の上の雲」に吸い取られた・・・という訳ではないでしょうけど・・・。
日記@BlogRanking


龍馬伝-第24回「愛の蛍」

2010年06月16日 20時31分45秒 | 龍馬伝

3日遅れでビデオ回しました。
いきなり池田屋のシーンに始まり,何と桂が激高した龍馬を止めていました・・・。
お龍の居る旅籠で歯噛みする龍馬。
・・・でお龍の家に匿われる・・・??
子どもと月琴弾いて遊んでる場合か・・・。
神戸海軍塾には行かなくていいんか・・・。
遂にお登世は出ないようで・・・と思わせ,・・・ということは,第二次寺田屋の変はどうなるんだ・・・とも・・・。。


土佐では,しわよせ,もとい仕合わせ絶頂の弥太郎くんが不幸のお富さんに惚気まくっておりました・・・。
しかし,奥貫薫嬢良いですねぇ・・・。
貞淑な武市夫人を見事に演じております。
ダークサイドに陥った大森半平太には勿体ない良妻ぶりでございます・・・。
で,弥太郎くんは今も下横目だったんですね・・・。
後藤の命で武市を吐かせる幼稚な方便を駆使する弥太郎は,完全に俗物と化しました。
当然突っぱねる武市。
龍馬と弥太郎の接点は2度(脱藩直後の大坂と海援隊時代の長崎)しか無いのではと思われますが,弥太郎と武市に如何ほどの接点が有ったのか,今となっては想像するしか有りませんが,こちらは龍馬以上に接点が無かったように思われてなりません・・・。


お富さんに比べて,龍馬が本気で惚れた女であるお龍の方はどうも気が強くて暗い女・・・という雰囲気でいまいち魅力が伝わりません・・・。
ま,そう思うのは私だけかもしれませんけど・・・。
・・・で,遂にお登世登場。
母上・・・って龍馬が言ったけど二役かよ・・・。
そりゃ似てるわな・・・。
龍馬とお登世の出会いは実際いつだったんでしょうね・・・。
この年(元治元年)か翌年にお龍が養女になったと考えると,もっと以前からの知己だったような気もします・・・。


でもって,恒例の突っ込みを・・・。
寺田屋に龍馬が・・・というのは先週述べたとおりあり得ません。
また,桂と龍馬が出会うことも当然無かったでしょう。
桂が池田屋に行かなかったのか危険を察して逃げたのか,今となっては分かりませんが,沈着冷静な彼のことですから,孝明帝奪取のような暴挙に賛同するとは考えられず,端からメンバーに入っていなかったとするのが正鵠のような気もします。
「逃げの小五郎」の真骨頂とも言うべきでしょう・・・。


さて,次回は蛤御門とお登世のようです・・・。
何か見るのがかったるくなってきた・・・。
池田屋についてはいずれ述べてみたいと思います。
斬り込んだ新撰組は当初4人とか,山崎蒸大刀押し入れは本当かとか・・・。
そう言えば,何で池田屋を新撰組が嗅ぎつけたか何一つ語られなかったのは困ったものです・・・。
以前から攘夷志士のたまり場だったから・・・では動機が弱すぎます・・・(会津・桑名両藩が出兵しているのに・・・)。
あ,蛍について何も書かなかった・・・。


龍馬伝-第23回「池田屋へ走れ」

2010年06月06日 21時14分59秒 | 龍馬伝

え゛,もう池田屋ですか・・・,ということで終わった前回。
文久3(1863)年8月の長州藩の京都失脚(八月十八日の政変)と天誅組の変から翌元治元年6月5日の池田屋の変,同7月19日の禁門の政変(蛤御門の変),同8月5日の四国艦隊下関砲撃事件・・・といった具合に長州藩が踏んだり蹴ったりの状況になります。
その間,龍馬は神戸海軍塾の塾頭として多忙な日々を送っていた筈で,言うなれば世間の動き(というか長州の暴発と,それを誘引した薩摩の動き)からは距離を置いた存在だった筈です。


まずは饅頭屋の祝言から始まりました。
どうなんでしょうね,このあたり・・・。
根多ばれになりますから,今後の饅頭屋こと上杉宋次郎(近藤長次郎)のことは敢えて書きませんが,後に龍馬とともに長崎で亀山社中(後の海援隊)の旗揚げをすることになる訳ですから,妻帯したというのはどんなものでしょう・・・。
で,その長次郎とイケメン沢村は分かるのですが(先週まで要さんが主役のCX系ドラマの再放送やってました・・・),望月亀弥太と北添佶摩はどっちがどっちかさっぱり分かりませんでした。
分からんと言えば,桂役の谷原「義元」章介(磯次郎さんとも云う)も今回はどうも役所が不明瞭です。
3年前の「風林火山」でのダークサイド今川義元役や,それが終わるとすぐに民放系で始まった「エラいところに嫁いでしまった」でのマザコン前回のお莫迦駄目亭主役は見事としか言いようのない演技だったのですが,今回は全くキャラが立っていません。
器用な俳優さんと思ってきただけに残念です・・・。


で,ようやく陸奥陽之助が出てきましたね。
多分,ああした高ビーな若者だったことでしょう。
その意味ではぴったりな俳優さんだったと思います。
ただ,家老の息子である陸奥(当時は伊達小次郎か)が何故脱藩したのか(否せざるを得なかったのか)が全く語られなかったのが残念です。
あれでは,脱藩したただの物好きでしか無いような気がします・・・。


そうしているうちに,亀弥太が神戸を脱走します。
・・・ということは,いよいよ池田屋か・・・となります。
文久3年9月と言ったばかりなのに・・・。
尤も同月は武市が捕縛されていますし,龍馬自身獅子奮迅の動きをしていますので,どうしても時系列の甘さが気になります。
まず龍馬の動きを見ると,文久3年には江戸へ下っています。
佐那に形見として片袖をちぎって与えたのがこの時と思われますし,年末~年始には上坂して神戸へ。
そして勝とともに長崎へ行き,熊本に横井小楠を訪ねているはずです。
さらには神戸海軍塾のメンバーによる蝦夷地探索を行ったのもこの時期でした。
北添佶摩らが行った筈ですが,これこそ明治政府が後年推し進めた屯田兵計画のはしりだと思います。
そうした史実が脇に追いやられ,龍馬が池田屋に向かう・・・というよく分からん内容になっていました。
池田屋の変の際,龍馬は人生最後の江戸行きの最中と思われますし,だいたい不逞浪士狩りをしている新撰組が目を光らせている,さらには池田屋を十重二重に会津・桑名両藩が包囲しているでしょうから,近づけるはずがありません。
都合良く瀕死の亀弥太と遭うシーンに至っては何をか況んやです・・・。
腹に刀突き立てたら痛みと出血で苦しんでいる筈で,朦朧としている筈はありません・・・。


池田屋の変に関しては,来週詳しく語られるのでしょうか・・・。
では,何故長州系の過激志士たちが池田屋に集うことが新撰組にばれたのか,何故あっさりと斬られたのか(宮部鼎三役は小西博之だったんですね),そして新撰組はどういう布陣だったのか・・・。
できれば来週語って欲しいものです。
でないと,何で起きたのかあれじゃ全く分からないので・・・。
(お登世は出ない設定ですかね・・・)


龍馬伝-第22回「龍という女」

2010年05月30日 21時14分41秒 | 龍馬伝

以蔵とお龍の話でした。
で,時期的には文久3(1863)年暮れという設定でしょうか。
同年9月の土佐勤王党瓦解によって,勝の海軍塾に居る土州藩士には帰還命令が出されます。
当然龍馬等は無視しますので,自動的に脱藩扱いとなり,京洛に於いては会津藩支配下の新撰組によって追われることとなります。


武市捕縛後,以蔵は京大坂を逃げ回ったことでしょう。
懇意だった女が居たかどうか定かではありませんが,身も心も荒んだ状況にあったあったことは間違いありません。
ただ,龍馬が以蔵に救いの手をさしのべたかどうか,これは想像するしかないと思います。龍馬は当時,塾頭として神戸海軍塾創設に忙殺されていたでしょうし,年末は京ではなく江戸にいたと思われます。
藩庁からの帰国命令は江戸に於いて受けたのではないかと予想されますが,果たしてどうなのでしょう・・・。
ですから,以蔵との接触は無かったと思うのですが・・・。
因みに以蔵が捕縛されたのは元治元(1864)年4~6月と思われます。
京で所司代に捕まり洛外で土佐藩に引き渡され,拷問で洗いざらい吐き土佐勤王党を崩壊に導いたことから,他の土佐出身の志士たちと違って今まで全く慰霊をされなかったそうですが,遂に今年このドラマをきっかけに慰霊祭が行われたとのことです。
幕末という異常な時代に生まれ,武市に利用されて悲惨な末路を辿った以蔵の人生は,土佐勤王党の哀史と共に語り継がれるべきものなのでしょう・・・。


・・・で,お龍です。
旅籠の飯炊き女という設定のようですが,よう分かりませんでした。
父楢崎将作は安政の大獄で命を失った勤王の医者というのは分かっているのですが,父の死後一家は落剥し,どこでどうやって暮らしを立てていたのでしょう。
料理屋で働いていたとも天誅組の賄いをやっていたとも言われています。
龍馬との接点は一体何だったのでしょうね・・・。
で,伏見の船宿寺田屋の名物女将であるお登世の養女となったと言われていますが,これは「竜馬がゆく」にあるように龍馬の口利き(それもかなり強引な)だったのでしょう。
ただ本作には寺田屋もお登世も登場していないので,今から出すとなるとかなり強引な設定となることが予想されます。
妹が借金五両の形に取られ,丁度龍馬が乙女姉さんからの仕送りで五両持っていたという安易な設定・・・。
如何に不幸な境遇に同情したとはいえ,龍馬がお龍に大金を渡したのはやはりお龍が美しかったからでしょう。
しかし龍馬の胸中は以蔵のことばかりでした・・・。
新撰組と斬り合ってしまったのは,ちょっとやばかったのではないでしょうか・・・。
どうせなら剣豪同士の立ち合いをしっかり見たかったような気もします・・・。
で,お龍役の真木よう子さん,伊藤淳史主演の学校ものでは同僚の教師役で,その時は颯爽とした出で立ちで,ほぉ・・・と思ったのですが,今回はやたら気が強く癇癪持ちなだけで,美しさが感じられませんでした・・・。
結婚されて所帯やつれした訳でもないでしょうが,どうも今日に限ってかどうか今ひとつでした・・・。
次回以降,龍馬が本気で惚れた女として,どのように描かれるのでしょう・・・。


来週はもう池田屋まで行ってしまうようです。
片袖はどうなる・・・,陸奥陽之助は・・・,お登世も出ていないし,西郷に大久保,長州系だと高杉も出てないか・・・,周布政之介に来島又兵衛,真木和泉・・・,大久保一翁・・・,小松帯刀・・・。
何か心配になってきた・・・。
日記@BlogRanking


龍馬伝-第21回「故郷の友よ」

2010年05月24日 20時30分42秒 | 龍馬伝

遂に容堂が牙を剥き,武市半平太が捕縛された一幕でした。
半平太と愛妻富の切なさが伝わる内容でしたね。
子は無かった夫婦でしたが,誰よりも夫婦仲が良かったと伝わっています・・・。
補吏も無粋な・・・というか残酷な・・・と思いましたが,藩の役人とは大殿の命令は絶対ということでしょうから,ああなってしまうのでしょうか・・・。
ただ,半平太は上士格でしょうから,出頭命令が来て自ら出向いたのが正しいのではないかと想像されます。
いずれにしても従容としていたのは事実でしょうし,獄のあったとされる南会所の獄吏が勤王党に同情的で,家族や勤王党の面々との連絡を取ることはできたということですが・・・。


半平太の捕縛が文久3(1863)年9月。
長州藩が京都での勢力を失った八月十八日の政変,そして瓦解した天誅組の変の直後になります。
平井収二郎ら上士3人が切腹をしてから数ヶ月,京都の長州政権瓦解と共に牙を剥いた容堂は,本当にとんでもないと思います・・・。
そして捕縛に当たった吉田東洋縁故の後藤象二郎や乾退助が維新後まで生き残ったのも歴史の皮肉かもしれません・・・。
また,薩会同盟と天誅組の暴発に関して何も無かったのも説明不足と思います。
あれだと朝廷内の政争で長州系の公卿が失脚したことのみが原因となり,薩摩・会津への長州の恨みの伏線としては弱い気がしました。


以蔵の捕縛は翌元治元(1864)年4月になります。
武市捕縛後,半年以上何処で何をしていたのか不明です・・・。
次回は以蔵捕縛が中心になるのでしょうか・・・。
翔鶴丸での品川出航が文久3年暮れですから,その日にあったとされる「片袖」事件は描かれるのでしょうか・・・。
そう言えば,同年春~夏と思われるおりょうとの出会いもまだ無い・・・。
日記@BlogRanking


龍馬伝-第20回「収二郎,無念!」

2010年05月16日 20時08分08秒 | 龍馬伝

タイトルバックを見ながら,今回のトリは・・・と思っていたら,武田鉄矢,近藤正臣,倍賞美津子・・・と来て,何と松平春嶽役の夏八木勲でした。
昭和(1977)52年の大河ドラマ「花神」(司馬遼太郎+大野靖子の傑作と思います・・・)では,竜馬役であったことを思い出しました・・・。


・・・で,本編です。
平井収二郎が郷士というよう分からん設定ですので(武市半平太は土佐勤王党首魁として吉田東洋を殺った時に上士扱いになったとか言っていたような・・・),一介の郷士が青蓮院宮にはたらきかけて・・・といったことをやったという時点で???です。
やはり,平井は上士で土佐勤王党に加担したが故に,ご老公(何度も言いますが37歳なんですけどね・・・)に真っ先に槍玉に挙げられた(間崎哲馬と弘瀬健太の存在は全く無かった・・・)とした方が良かったと思うのですが・・・。
だから拷問は無く,即刻切腹だったと思うのですが,どうなんでしょう・・・、。
拷問した者を切腹させるのかどうかは分かりませんが,罪人扱いだったら打ち首でしょう・・・。


権平兄がこの年龍馬と会ったのは史実のようです。
但し,3月上旬に京にてということですから,時系列は怪しいと思いました。
福井を訪れたのは翌4月で,勝の私塾の云々ではなく,幕府大目付役大久保忠寛(一翁)の親書を渡すのが目的だったようです。
以前も述べましたが,春嶽と龍馬を結びつけたのは一翁ではないかと思うのですけどね・・・。
この文久3(1963)年以降(というか脱藩した前年以降),龍馬の八面六臂の活躍が始まります。
京,大坂,江戸,そして翌元治元年以降は長崎,鹿児島・・・と,まさに汗血千里駒の如き活躍が僅か5年に集約されているというのは,やはり歴史の奇跡なのかもしれません・・・。


次回,長州藩が砲撃しておりました。
禁門の政変か・・・と思ったら翌年ですし,八月十八日の政変+七卿落ちということでしょうか・・・。
史実と龍馬の行状をうまく輻輳させてくれると良いのですが・・・。
・・・で,もっと江戸に舞台を・・・と思ってしまいます。
加尾は出さんで良いから・・・。
そう言えば,陸奥陽之助(陸光)出てきませんね・・・。
あ,この時点だと伊達小次郎か・・・。
日記@BlogRanking


龍馬伝-第19回「攘夷決行」

2010年05月09日 22時36分08秒 | 龍馬伝

ダークサイド半平太と幕府・土佐・長州暗躍の章でございました。


どうも私の先入観がいけないのですが,武市瑞山というと清廉潔白で白皙の美丈夫といったイメージが払拭できず,本作のような腹黒く選良意識に凝り固まったような設定は,どうしても違和感が抜け切れません・・・。


あっさり平井が失脚してしまいましたが,どうなんでしょうね。
例の青蓮院宮(久邇宮朝彦親王,通称中川宮)へ令旨を請うた,というものですが,容堂の勤王党切り崩し策に嵌られた・・・という設定はいかがなものでしょうね・・・。
確かに,中川宮は翌年薩会同盟の元締め的存在であったり,再来週あたり放送されるであろう長州藩失脚の八月十八日の政変後に孝明天皇の信任を得たりとか,公武合体的な動きをした点で容堂と一致するから・・・ということなんでしょうか・・・。
容堂が収二郎を半平太から離反させる策を・・・とも思われないので,やはり土佐勤王党は半平太を中心とした一枚岩たり得なかった,ということだと思います。
まして収二郎は,脱藩した龍馬と文久2(1862)年8月に江戸で会って時世を論じたりしているのですから,上士として(本作にその設定が無いのは困ったものですが・・・)独自の動きをしていたことは事実でしょう・・・。


御老公を信じる半平太くんに龍馬くんは釘を刺しますが,半平太くんは聞きません。
このあたりは,開明的な殿様として知られた容堂だけに,実際のところ勤王党としては期するものがあったのかもしれません。
このあたりに土佐藩の悲劇があり,さらには容堂の勤王とは学識も地位も有る自分なればこその勤王,幕府在っての勤王というものであり,前に述べたように郷士づれが勤王を口にするなど言語道断,といったところだったでしょう・・・。
さらに述べてしまえば,武力倒幕に対するウルトラCとも云うべき大政奉還は,公武合体を旨とする容堂の発案・献策と云われているようですが,発案は龍馬で後藤象二郎が容堂に献策したというのが実際でしょう(龍馬の活躍に否定的な向きは,そう思わないようですが)。
ですから四賢候の一人と云っても,容堂が幕末維新に果たした役割は,土佐勤王党を弾圧して,有為な若者を失わせただけだった・・・と,私なんかは思います・・・。


さて,攘夷です。
馬関海峡での砲撃事件を語ると,文久2年から元治元(1864)年までの長州藩の藩論と政権に関して長々と述べることになるので(長井雅楽の航海遠略策とか),今回は割愛しますが,正式には,馬関海峡での砲撃事件は何度か起きています。
ま,今回のは文久2年5月の砲撃と,翌月のそれに対する米艦ワイオミング号による報復のことのみが語られました。
周知のように,長州藩は八月十八日の政変で京都での主権を失い,翌年の池田屋事件と禁門の政変で多くの若者を失い,さらには四国艦隊下関砲撃・占領と幕府による第一次長州征伐によってとどめを刺される・・・という踏んだり蹴ったりの時代に突入するわけで,本来なれば足腰立たなくされた長州と,足腰立たなくした薩摩を龍馬が結びつけて武力倒幕を回避し・・・という筋書きになるわけですが,そうした意味でも幕末の奇跡は龍馬によって演出されたと言っても良いかと思います・・・。


来週は,いよいよ容堂が牙を剥くようです・・・。
江戸が舞台になるのは文久3年の夏以降かな・・・。
佐那おねいさんは,長身のイケメンと熱愛中だそうで・・・(泣)。
日記@BlogRanking