koshiのお部屋2

万年三歳児koshiの駄文のコーナーです。

古墳・・・

2013年06月19日 20時35分31秒 | 歴史

仕事で市内東部へ。
職場のある旧市内(昭和末期の合併以前の市域)西端を出立し,市街地中心部を抜け,走ること40分。
本日の午後の仕事場の隣には,何と巨大な古墳が鎮座していた。


遠見塚古墳。
県内第2位,東北地方では第5位の面積を誇る前方後円墳である。
存在自体は小学生の頃から知っており,となりの国道を幾度も通過する度に見ていたのだが,近くで見たのは初めてとなる。
4~6世紀頃のものと推定されるが,有名な仁徳陵(本当に仁徳帝のものか真実は分からないという理由から,今は教科書には大仙古墳と表記されるそうだ。別に伝承でも構わないと思うのだが・・・)や応神陵等の百舌鳥古墳群(堺市)に代表されるような巨大古墳の時代が終わり,より現実的・実用的な墳丘になった時代のものと推定される。
つまり大和朝廷末期のものではないかと思われ,多くの出土品があるようだ。


この時代,中央政府(勿論大和朝廷)の権力がどこまで及んでいたかはっきりしないが,同時代に権勢をふるった会津国造の例もあるので,もしかすると大王(おおきみ)の力が,十把一絡げに蝦夷と呼ばれていた現在の東北地方にも及んでいたのかもしれない。
南に隣接する旧名取郡には,さらに巨大な雷神山古墳も存在するし,彼の地を収めていた豪族の権勢に対する思いは深まる・・・。


ま,史跡などというものは,何気なしに見ていれば何とも思わない代物だろうが,要はその時代に思いを馳せるという言わば思い入れの有無の問題だと思う。
重機など無い時代に,古代人が血と汗で購った古墳に対峙して,私としてはえも言えぬ感慨に耽った・・・。
ま,古代史に対しては興味関心は範疇外と思ってきたし,知識も乏しいのでこれ以上書けないのだが,ちょいと予備知識を入れるだけで,目の前の変哲もない風景が,俄然魅力的な色彩を放つ様を見るのは,大きな喜びとなる。
聖徳太子以前の時代,我が町に大いに権勢をふるった豪族が存在した・・・と考えると,何となく心楽しいものがある。
海岸まで程遠からぬ平地に存在する古墳こそ,稲作の伝来や農耕文化を象徴するものなのだろう。
我が街の縄文遺跡が,市内南部を貫く名取川の段丘に沿って,西部の山岳地帯に数多く見られることと正反対の事実7でもあるし・・・。
奥が墳丘。
読むと楽しい・・・。
墳丘を下から・・・
歩道橋の上から。人と車と比較・・・。手前が「前方」だ。進駐軍が向かいの飛行場拡張の為に崩したとは言語道断・・


雪の日の惨劇-源家滅亡;下手人は ・・??其之弐

2013年02月15日 20時49分11秒 | 歴史

当エントリを書き始めて,キーワード,というかキーパーソンは,すばり「乳母」であると言える。
昨日は,実朝の乳母が北条政子・義時姉弟の妹である北条保子(頼朝弟阿野全成室)であることに触れた。
従って,北条氏にとって実朝は,旗印にして看板でもあったのだ。
だから,古来言われてきた北条氏による実朝暗殺,及び公暁口封じは明らかに誤りであったとここでまず明言しておこう(相変わらず回りくどい文章ですみません・・)。
 
では一体誰が・・・,と結論を急ぎたいところだが,結論をより確かなものにする意味でも,北条氏を巡る鎌倉幕府武士団(=御家人)の力関係を述べてみたい。
ついつい頼朝と政子の関係から,北条氏は最初から幕府内で大きな勢力を持っていたように思われがちだが,平安時代末期の南関東(北条は伊豆国田方郡韮山だから,厳密に言うと関東ではないが,地勢的には関東と一緒)の武士団の勢力分布を見ると,上総の千葉一族(平氏流)と平姓上総介一族(源平争乱最中に粛清され滅亡),相模の三浦半島に割拠する三浦氏の一族(平氏流)がベスト3であり,伊豆では伊東一族(藤姓)が最も勢力が大きく,北条氏はただの地方豪族に過ぎなかった。
頼朝の死後,時政・義時父子の謀略で多くの豪族(御家人)が粛清され,北条氏の勢力は着々と蓄えられたが,それでも目の上のたんこぶが残った。
そう,鎌倉と目と鼻の先,一衣帯水とも言うべき三浦半島を長年支配してきた三浦一族がそれである。
三浦と源氏の繋がりは古く,そして深い。
奥州争乱:後三年の役(1081-83)には源義家に従った三浦一族の名が「陸奥話記」だかに残されているし,保元・平治の乱にも頼朝の父,義朝に従って三浦荒次郎義澄が奮戦した。
代々惣領は三浦介を名乗り,頼朝挙兵に際し当時89歳の高齢だった三浦大介義明(前述義澄父)は呼応して挙兵。
関東の平氏方(後,頼朝に降伏)に囲まれて,居城衣笠城で戦死する。
その功により息子の義澄,孫の和田小太郎義盛等一族は頼朝に重用される。
鎌倉のすぐ隣の三浦郡からすぐに兵を動かすことができる三浦は,まさに鎌倉の近衛師団とも言える。
頼朝死後,北条は時政の子義時,三浦は義澄の子義村の代となるがお互い尻尾を見せず,健保元(1213)年の和田合戦を除き,表面的な平穏が続いていた。
 
実朝-北条ラインを切り崩し,前将軍頼家の遺児公暁を将軍とする。
そのためには,公暁を唆して一気に実朝と義時を屠るのが最短にして最良の策となる。
実朝を討ち義時を討ち漏らした公暁は降りしきる雪の中,何と三浦義村の屋敷へ向かう。
そして開門を請うが,三浦義村は家臣の長尾新六(上杉謙信=長尾景虎の先祖か?)を差し向け公暁を討つ。
つまり,三浦義村こそ実朝暗殺の大黒幕である。
次期将軍職を餌に公暁を焚きつけ,実朝と義時を一気に葬り去ろうという勝負に出た訳である。
結果,周知の通り公暁は実朝を討ったが,義時を討ち漏らした。
そこで,三浦としては公暁を討って口を塞ぎ,
「将軍殺害の下手人を討ちました。」
と,しゃあしゃあと義時に名乗り出る。
義時としても,うすうすは三浦が背後で糸を引いているとは感じながら決定的な証拠もないので,
「うむ,ご苦労であった」
と言うしかなかったであろう。
まさに狐と狸の化かし合い,というか虚々実々の駆け引きを垣間見るようで,血生臭い事件ながら,千両役者の競演のようで実に興味深い・・・。
 
と言うことで,800年間信じられてきた北条氏実朝暗殺説は根底から崩れることとなった・・・。
勿論,私が唱えたのではなく(当たり前だ),実は昭和40年代初頭,作家の永井路子氏が小説上でこの説を発表し,歴史学会は騒然となったらしい(そりゃそうだろ)。
中世史研究の第一人者と言われた故安田元久氏(國學院大學教授,学習院大学にも客員として出ていたらしく,現皇太子の主任教授でもあった。数年前に変死・・)はいち早くこの説を支持し,中央公論社刊「日本の歴史」でもこの説を採用している。
おかげで,私は以来すっかり永井路子作品にはまってしまい,今に至っている。
最近,身辺整理を始めた,などと穏やかではないことを述べられていたが,まだまだ活躍していただきたい作家である(もう小説は書かないそうだが・・)。
永井路子氏の作品については,以前の大河ドラマ関連で若干登場させたが,鎌倉幕府草創期の作品を紹介して,この長々エントリをひとまず結びたいと思う。

北条政子」,「炎環」(「悪禅師」,「黒雪賦」,「いもうと」,「覇樹」の四作より成る),「源頼朝の世界」,「相模のもののふたち」,「つわものの賦
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雪の日の惨劇-源家滅亡;下手人は ・・??

2013年02月14日 20時13分46秒 | 歴史

便利な世の中になったもので,お気に入りの大河「草燃える」(79)のOPを見ているうちに,かつて書き殴った拙エントリを思い出しました。
根多切れだし,場所埋めも兼ねて再構成して掲載したいと思います。
つまり手抜きエントリですが,ご容赦いただきたいと思います・・・(虫がよいのは重々・・・)。


惨劇は,夕刻に起こった。
承久元(1219)年1月27日,昼過ぎから降り始めた雪は靴が埋もれる程積もったであろうか。
前年暮れの右大臣就任を祝った拝賀を終えた将軍実朝は,鎌倉鶴岡八幡宮の石段をゆっくりと下り始めた。
実朝と従者の一段が石段の中程まで達したとき,
「父の仇,覚悟!!」
右手の聳える大銀杏の陰から飛び出した僧形の武者が太刀を振るい,実朝を一刀のもとに切り伏せる。
続いて返す刀で,実朝の太刀持ちであった源仲章が斃される。
僧形の武者は悠然と実朝の首を打ち,そのまま雪の中へ忽然と消えていく・・・。
 
実朝を討ったのは,兄-即ち二代将軍頼家の二男である公暁(幼名善哉)。
幕府創設者頼朝の後を継いだ父の頼家が,伊豆修善寺で横死した後,ただ一人残った孫を哀れんだ頼朝未亡人北条政子が京の寺に預けていたが,血気盛んな十代でもあり,仏法の修行は全く進まず,先年京を脱走し,鎌倉に戻っていた。
 
この将軍暗殺という天地驚嘆の大事件は間もなく呆気ない結末を迎える。
何と実朝の首を打った公暁が,確かその夜のうちに自分も首になってしまうのである。
かくして,源氏の正統は,宿敵平氏が滅んだ34年後に滅びることになる。
まさに盛者必衰の理,諸行無常の響きである・・・。
その後,鎌倉幕府は,将軍の補佐を行う執権職というNo2の地位にあった北条氏の独裁となり,2年後には源氏滅亡を期に一気に鎌倉殲滅を図った後鳥羽上皇に対して兵を上洛させてこれを押さえ(承久の乱),三代執権泰時,五代執権時頼の時にその権力は最大となる・・・と教科書に書いてあった・・・。
 
さて,この実朝暗殺事件,当然の事ながら公暁の単独犯行ではないことは明白である。
公暁に対し,
「現将軍を亡き者にすれば貴方が次なる将軍」
なる好餌をちらつかせて,煽ったやつが必ず居るはずである。
そやつが真の下手人となる・・・。

実朝暗殺の黒幕,そして公暁を葬った下手人は一体誰なのか?
同一犯なのか,別々の者が殺ったのか,それとも偶然なのか・・・。
一般的には,というか,今までは執権職だった北条義時(政子弟)が公暁を唆して実朝を暗殺させ,将軍暗殺の下手人を成敗する,という名目で公暁をも討ち,一気に源氏の正嫡を葬り去り,北条氏による独裁体制を築き上げた,ということになる。
確かに辻褄が合っている。
この後北条氏は承久の乱に勝利し,京都から摂家将軍(藤原氏)や皇族将軍を迎え入れて,所謂得宗家(北条氏嫡流)独裁の時代を築き上げる。

しかし,実はこれには大きな矛盾が残る。
伊豆国田方郡の小豪族に過ぎなかった北条氏が,権力を得るきっかけとなったのは勿論政子が頼朝の御台所となったことからだが,政子の妹保子は頼朝弟の阿野全成(母は常盤御前,つまり今若丸)に嫁した。
そして,夫が頼朝没後の御家人たちの権力抗争に巻き込まれて命を落とした後も,実朝の乳母として隠然たる力を持っていた。
この時代の乳母の権力というものは絶対的だ。
頼朝が,配所の伊豆で世捨て人同然の生活をしている時は,比企の尼(名前不詳,西武に勢力を持っていた比企氏出身)なる乳母が何かと面倒を見ていたし,時代を下ると徳川家光の乳母であった春日局も有名だ。
つまり,北条氏は源家との婚姻によって勢力を培ってきたと言えるであろうし,将軍の母政子,将軍の乳母保子が,がっちりと源氏とのパイプ役を務めてきた,とも言えよう。
従って実朝は北条氏にとって権力の旗印であり,如何に傀儡であったとしてもこの両者は表裏一体の関係であったとも考えられる。
だから,乳母も夫人も比企氏出身だった前将軍頼家は,北条時政・義時父子によって,比企氏共々排除されたのも当然,となる。
 
一言で言ってしまえば,実朝暗殺は北条義時にとって痛恨事であったと思う。
何せ義時の,旗印にして看板,を失ったのだから・・・。
では,北条義時が黒幕ではないとすると,一体誰が公暁を唆したのか?
そして,その公暁を始末したのは誰なのか?
 
このことを推し量る材料として,その日の義時の動向を見てみると,不可解な点があった。
義時は,当然将軍に供奉して太刀持ちの役を担い,鶴岡八幡宮に詰めていた。
ところが,拝賀も無事終わり,将軍が鶴ヶ丘八幡を出る壇になって,身体の不調を訴え,文章博士の源仲章と太刀持ちの役を替わっていたのだ。
そして,仲章は実朝と同様,公暁に斬られた・・・。
 
これは,自分が公暁を唆したから仲章を身代わりにした,ということになっていたが,義時が実朝暗殺の黒幕ではないとしたら,身の危険を察知して事前にその場を逃れた,ということが考えられる。
公暁側とすれば,実朝と同時に義時も葬り去れば一挙両得である。
或いは公暁側の誰かが裏切って,義時に注進したとも考えられるし,義時が諜報網を巡らせて情報を入手したとも考えられよう。
 
じゃあ,誰が公暁を唆し実朝を暗殺させ,誰が公暁を屠ったのか・・・??


やはり,長くなってしまったので,結論は明日・・・(出るのか??)
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12.8

2012年12月08日 21時22分01秒 | 歴史

今年も日米開戦の日(正しくはマレー半島での日英開戦の方が真珠湾より早い)というニュースは目にも耳にもしなかった。
こうやって,先の大戦の記憶はどんどん風化していくのだろうか・・・。
この日を,侵略戦争を始めた忌むべき日と捉えるか,白豪主義を掲げる欧米の帝国主義に対してアジアアフリカ諸国独立の先鞭を付けた日と捉えるか,歴史を繙けば分かることだろう・・・。

毎度毎度だが,この日に関しては新たに稿を起こす気力は無いので,5年前に書いた拙文を再々掲載して結びとしたい。
今から,「トラトラトラ!」を見て寝る。
勿論,愚にもつかぬ「パール・ハーバー」は2度と見ない。
                           ↓
http://blog.goo.ne.jp/fw14b_2005/e/a2681ec697d9fc600ad1fd8361ce62d9

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元号のお話・・・

2012年10月23日 20時59分16秒 | 歴史

思うところ有って(大したことでは無いのですが),随分前に旧本家にうpした記事を加筆・補筆して再掲載したいと思います。


新聞を見ていて気付きましたが,今年平成24年は,昭和87年なのだそうです。
考えてみたら,つい昨日のことに思われることなのですが,昭和64年は7日しかなかったですし,昭和元年は同じく7日で年の暮れとなってしまったとのことです。
 

正直言って,私自身年号を使うことは殆ど希でして,やはり西暦で表した方がしっくりきます。
特に,昭和の場合は年号と5しか違わないので分かり易かったのですが(例えば昭和45年は1970年ですので,一の位が5しか違わないので分かり易かった),平成元年=1989年ですので,もう覚えられません。
区切りの良いところで,平成10年=1998年とは覚えていますが・・・。
 

ただ,かつて私の周囲にいっぱいいた左傾の反体制標榜の友人たちと同様に,簡単に元号・年号廃止・法制化反対を唱えるつもりは全くありません。
何せ,7世紀の昔から脈々と継承されてきた文化なのですから,単純に形式的だの形骸化だのと切り捨てる気はありません。
有れば有ったで良いわけでして,個人的には使いやすい西暦を使えばよいだけですから・・。
 

ところで,この年号,明治以降は一世一元の制により,天皇の在世中は代えないようになりました。
それまでは,何かあるごとに朝廷の都合で代えていましたからね。
平均5年,最短で二ヶ月だそうで,天災や兵乱,縁起の良い動物が献上されたりすると即改元でした・・。
 

さて明治~大正~昭和~平成は誰でも知っていますが,明治の前の年号をご存じでしょうか?
この質問に対して,うちの相方を含め「江戸?」と答えた者が私の周りには5人は居ます・・(笑)。
それは,都市名にして時代名であり,「明治」の前の元号は「慶応」(1865-1868)なんですね。
大学の名前じゃないか,と思った方は正しいです。
慶応大学,正しくは慶応義塾大学は,ご存知福沢諭吉によって慶応年間に江戸に創設された私塾が母体となっているのですから。
明治~大正~昭和と,皆大学名になっていますね。
平成は? と思ったら,帝京平成大学と福山平成大学がありました・・・。
慶応の前は元治(1864-65),その前は文久(1861-64),万延(1860-61) ,安政,嘉永,弘化,天保・・と遡っていきます・・。
そう言えば,大江健三郎に「万延元年のフットボール」という小説がありましたし,大老井伊直弼が尊皇攘夷思想を説いた吉田松陰や橋本左内等を弾圧した「安政の大獄」というのもありました。
 

元号というのは,中国の律令制に倣ったものですが,では,わが国初の元号は何でしょう?これは意外に知っている人が多いのでは・・・??
そう,唐に倣って律令制を導入し,天皇を中心とした中央集権的国家の樹立を目指した大化の改新-つまり「大化」が最初の元号で,中大兄皇子と中臣(藤原)鎌子(鎌足)が,飛鳥板葺宮の太極殿で蘇我入鹿を討った西暦645年が大化元年ということになります。
 

そこで,いつものよけいなお世話で,覚えておくと役に立つ(否,役に立つかもしれない)お薦め元号を挙げてみました。
 

大化(645-649)  理由は前述
大宝(701-703)  「大宝律令」(701)ってのが,あったでしょう。これで中国に追いついた??
和銅(708-714)  わが国初の鋳造貨幣,その名も「和同開珎」(708)
天平(729-748)  「天平の甍」って小説もありました(井上靖著)。奈良期を代表する。
延暦(782-805)  延暦寺ってのはこの時代。奈良~平安の過渡期。
貞観(849-876)  「貞観の治」といって,醍醐~村上天皇期は文字通り平安な世だったとされます。
承平(931-937)  平将門の乱です。
天慶(938-946)   藤原純友の乱です。併せて「承平・天慶の乱」とも・・・
保元(1156-58)   保元の乱です。
平治(1159)        平治の乱です。
治承(1177-80)
寿永(1182-83)  源平の争乱を「治承・寿永の内乱」とも呼びます。 
承久(1219-21)   承久の乱により,鎌倉政権が確立。
文永(1864-74)   文永の役(1274)。
弘安(1278-87)   弘安の役(1281)。セットで「元寇」と覚えましょう。
永仁(1293-98)   永仁の徳政令(1298)。借金踏み倒し。平成の徳政令ないかな~。
建武(1334-35)   ご存知建武の新政。北朝と元号がダブる。
応仁(1467-68)   応仁の乱ですね。続く文明と併せて,応仁・文明の大乱とも・・・
天正(1573-91)   織豊時代です。因みに天正10(1582)年に本能寺の変が。
文禄(1592-95)   第一回朝鮮出兵=文禄の役。
慶長(1596-1614)第二回朝鮮出兵=慶長の役。慶長5(1600)年が関ヶ原の役。最後の年は大坂冬の陣
元禄(1688-1703)ご存知,「時は元禄・・」
享保(1716-35)   マツケンによる享保の改革。
天明(1871-88)   天明の大飢饉
寛政(1789-1800) 松平定信による寛政の改革
文化(1804-17)
文政(1818-29)   合わせて「化政文化」って習ったでしょう。
天保(1830-43)   水野忠邦による天保の改革。
 
・・・と書いてみましたが,結構な量になってしまいました(大汗)。
 
他には,延喜・天暦の治(平安)とか,宝治合戦(鎌倉),永享の変(同),元弘の変(同),応永の外寇(室町),明徳の乱(同),正長の土一揆(同),嘉吉の乱(同),天文法華の乱(同),それに信長の勃興期である永禄~元亀,慶安の御触書(江戸)等々,メジャーな元号はまだまだあります。
ぜひ,一覧をご覧になって,
「こんな元号あったのか」
とか,
「仁和寺(京都市)や建長寺(鎌倉市)ってのはこの時期にできたのか」
なんて,思いを巡らせてください・・。


・・・ということで(口癖),今更過去の文章を引っ張り出して来たのは,本日10月23日(新暦。旧暦だと9月8日)が明治と改元された日だからです。
一世一元の制が始まった日,と言っても良いでしょう。
これは意外でした。
大政奉還によって,江戸幕府が政権を移譲したのが前年である慶応3(1967)年11月。
慶応4年は新年早々鳥羽伏見の戦いが起こり,東軍が敗れて前将軍慶喜が大坂城を放棄して軍艦で江戸へ脱出。
東海道・東山道を制圧した西軍(東北人として,官軍とは言いたくない)が江戸城に迫り,幕臣勝麟太郎(海舟)や山岡鉄太郎(鉄舟)の尽力によって西郷との会見が成立し,江戸が戦火から救われたのが4月。
熾烈極まりない会津戦争の終結が9月ですから,その前後だったということでしょう。
私なんかてっきり同年3月の五箇条のご誓文と五傍の掲示の制定あたりで改元されたと思い込んでいました。
考えてみたら慶応4年3月といえば,近藤勇が出陣した甲州勝沼の戦いがあった月なので,戊辰戦争真っ最中であり,江戸開城前なので改元どころではなかったということでしょう・・・。
いずれにしても,明治と改元になったからと言って,昨日までの封建的な農業国家から西洋風の軍隊と殖産興業の近代的民主国家に劇的に生まれ変わった・・・というのではなく,我が国の近代化は徐々に進んで,人々の暮らしは相変わらず豊かにはならなかったことでしょうけど・・・。
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實方中将・・・

2012年10月19日 21時59分14秒 | 歴史

中学生の頃だったと思う。
百人一首を買ってもらった。
当時学校で休み時間にやっていたからだが,高校生になると丸暗記させられ,実力テストはすべて百人一首から出題された(何の実力か分からんが)。
さすがにこの頃になると,歌の内容も分かって来るし,天智天皇に持統天皇,柿本人麻呂に大伴家持,阿倍仲麻呂,紫式部に清少納言,法性寺入道前関白太政大臣(藤原頼通),鎌倉右大臣(源実朝)といった歴史上の人物たちの歌も有ることに気づいた。
さらに,いまでは考えられないが(泣)思春期の少年だった私の心に響く歌も幾つか有った・・・。


でもって,題名の実方中将である。
正しくは藤原実方朝臣。
生年は不詳で999(長徳4)年没。
平安中期を代表する歌人で,清少納言を筆頭に20余人のおねいさんと関係があったとされる10世紀末のイケメンにして,光源氏のモデルの1人と目される人物である。
曾祖父は摂政関白忠平,祖父は小一条左大臣師尹,御堂関白道長とは又従兄弟ということになる。
摂関家の超貴種であり,侍従-左近少将-右近中将-左近衛中将と順調に昇進し,家柄・財力・権力に加えて,類い希なる容貌と卓越した和歌の技能によって,円融・花山両院の信頼と寵を一身に受けていた。


ある日のこと,殿上人がこぞって花見に出かけた際に俄雨にあったという。
その時,実方は少しも慌てず,

桜がり雨は降りきぬ 同じくは ぬるとも花の蔭にかくれむ

なる句を詠んで,降り来る雨に濡れながら装束の袖を搾ったという。
その風流心を人々は褒め称えたが,只1人藤原行成だけは,
「歌は面白し。実方はをこなり」
と批判(「をこ」とは,お莫迦といった意味だろう)。
怒った実方は,殿上にて行成と出合うなり,その冠を取って庭に投げつけたという。
これは当時として大変な恥辱になるとされる。
当時の公家は,洗髪時以外は冠や烏帽子を取らなかったくらいであるから,それを取られるということは,とんでもない辱めを受けたということになる。
このことは一条天皇の不興を買い,実方は陸奥の歌枕を見てくるように,という名目で陸奥守に任じられ,長徳元(995)年,都を離れて遥か奥州の地へ下向することになる。


奥州の国司となった実方は,当地の武士達に尊敬されたという。
任期の4年間,おそらく鎮守府のある多賀城に居て各地の歌枕を巡ったと思われるが,何故か出羽国千歳山阿古耶の松(現山形市)を見た帰りに,名取郡笠島道祖神の前を乗馬のまま通過しようとしたところ,馬が暴れて落馬。
その傷が元で病を発症。
当地にて帰らぬ人となったという。
享年は40と少しと伝わる・・・。


都への思いを残して無念にも異郷に果てたこの大宮人の墓は,名取郡笠島(現宮城県名取市愛島塩手)に今も伝わる。
20数年前,旧名取郡から柴田郡にかけて南北に走る通称愛島街道沿いにその表示を見つけて,一度は訪ねんと思っていたのだが,先日ようやく果たすことができた。
畑の中の道を少し北の丘陵に登ったところに墓所があり,土饅頭だけが残されていた。
異郷に果てた大宮人の無念さが図らずもよく伝わる・・・。


それにしても,行成に対してのような行為に出た背景には,清少納言を巡る三角関係があったとも言われる。
清少納言は,百人一首にある

夜をこめて 鳥のそらねははかるとも よに逢坂の関はゆるさじ

なる歌は行成に送ったとも言われるらしい。
これはなかなか味わいのある歌だ。
何せ,妙齢の才色兼備のおねいさんに
「今夜は帰しませんよ」
と言わせているのだから・・・(羨・・・)。
血統正しき30代の実方と,はるかに若く多分イケメンの行成の二股をかけていたのかもしれない。
とんでもない話・・・と思うかも知れないが,これは名誉なことなのだろう・・・。
修羅場があったかどうかは分からないが・・・。


・・・ということで,古代史も範疇外なのだが,地元の史跡を訪ねて新たな発見をしてきた。
でもって,私が気に入った百人一首にある実方中将の歌は以下の通り。

かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひを

どうやら奥州下向の後,清少納言とのやりとりで詠まれたという・・・。
で,かつて当時の彼女にこの歌を添えて・・・と思ったが,さすがに憚られて果たせぬまま終わってしまった・・・(泣)。


実方が没して189年後に西行がその地を訪れ,約700年後に芭蕉が訪れんとしたが荒天で果たせなかったという。


笠島はいずこか五月のぬかり道(芭蕉)・・・


俳聖芭蕉もまた,この地に無念を残して仙台へ,松島へと向かったのだろう・・・。
一読して,墓所へ・・・
墓所への入り口
木漏れ日の中を少し登る・・・
土饅頭のみ・・・

当日の画像はfacebookmixiにも掲載してあります・・・。
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南羽州紀行,2012-其之弐「最上騒動」

2012年08月17日 13時37分35秒 | 歴史

近世初頭,大名家に付きものと言えばお家騒動です。
幕府にとって,格好の外様大名取り潰し(改易)の口実となりました。
我が藩でも『伽蘿先代萩』(めいぼく せんだいはぎ)の題材となった伊達騒動がありまして,加賀騒動,黒田騒動とともに三大お家騒動と呼ばれています。
但し,この三家は何とか幕末まで大藩として命脈を保つことが出来たのですが,前日から述べている最上家の場合は,命取りになってしまったのですかすら,目も当てられません。


芽は,山形藩初代義光の代から既にありました。
義光は秀吉在世中から抜け目なく家康に近侍し(秀次に嫁す予定だった駒姫を,助命嘆願虚しく斬られて秀吉を恨んでいたとも言いますが,小田原参陣のことといい,先を見る確かな目を持っていたのは間違いないでしょう),二男家親を家康の元に送っています。
家康は大層この家親を気に入り,義光としてもお家の安泰を図るためにも長男の義康ではなく,家親に家督を譲ろうと思ったことでしょう・・・。
父子の仲は以来険悪になっていきます。
慶長16(1611)年,義康が何者かに暗殺されます。
義光が手を下したとも,家臣が単独でやったとも言われ,今尚謎となっています。
義光は,義康が和解を図っていたことを知って大層嘆き悲しみ,3年後に失意の内に世を去ります。
後を継いだ家親は幕府との連携強化を図り,かつて豊臣家に仕えた経緯のある弟清水義親父子を大坂の役直前に誅殺します。
ところが大坂の役後の元和3(1617)年,家親が37歳で頓死。
猿楽を見ている最中のことだったようで,毒殺説が流れたと言います。
その結果,家親唯一の子である義俊が三代目の山形藩主となるのですが,若年にして文弱のきらいがあり,家臣が義光四男の山野辺義忠を擁立する派と義俊派に分裂するに至ったのです。
元和8(1622)年,義光の甥にあたる松根光広(義俊派)が老中酒井忠世に「家親の死は楯岡光直の犯行による毒殺である」と訴え出たため,忠世は訴えに基づいて楯岡を調べたが証拠は全くなく,騒動は一層激化しました。
騒動を重く見た幕府は,一旦最上領を収公し義俊には新たに6万石を与え、義俊成長の後に本領に還すという決定を下します。
しかし上記山野辺義忠と歴戦の士である鮭延秀綱は納得せず,「松根を重用する義俊に従うことは出来ない」と言上したことで幕府の態度は硬化。
同年,山形藩最上家57万石は改易となります。
義俊には新たに近江大森(現滋賀県八日市市-もとい東近江市-何で訳分からん町村合併するんか・・・怒)で1万石の所領を与えられました(後5000石に減封し高家となる)。
子孫は今尚大森に居られるということを,歴史ボランティアのご老人にうかがいました。それがせめてもの救いでしょうか・・・。


上記,山野辺義忠は岡山藩にお預けになった後で,水戸藩に仕官して家老となり,三大藩主となる光圀の教育係となりました。
また,松根光広の子孫は宇和島藩の家老に,楯岡光直は熊本藩に仕えました。
主君と家臣が一枚岩となっていなかった点が,最上氏の大名としてのアキレス腱になったようで,それは既に義光の時代からの特徴だったと思われます。
最上氏は村山郡から最上郡にかけて(丁度山形県中央部)根を張り,天童,東根,山野辺(山辺),楯岡,中野,上山・・・といった現在も残る地名から支族を排出しましたが,それら同族+地元豪族の集合体という中世的・室町幕府的な支配体系が殿様の権威を弱めることになったのでは・・・と思われます。


最上家か去った後の山形には,鳥居忠政(関ヶ原前哨戦の伏見城攻防戦で討死した元忠の子)が平藩より転封となりましたが,二代で改易。
次が会津藩祖となる保科正之,そして越前松平,奥平,堀田,大給(おぎゅう)松平,水野,秋元等,多くの譜代・親藩大名が山形藩主として,それこそぱっぱかぱっぱか移り変わっていきました。
そういうこともあって,山形市の街割りをした最上家は今尚市民に親しまれているのでしょう。
考えてみたら,東に伊達,南に上杉,北に佐竹と,外様の雄藩が控えているので,幕府としてもこの山形城を重く見たのでしょう・・・。


・・・ということで,本文とは全く関係ないのですが,斯波氏の祖である斯波家兼の菩提寺である光明寺と駒姫の墓所である専称寺を見てきました。
折しもお盆の中日で,墓参の真っ最中であり,迷惑だったことでしょう・・・(反省)。
特に専称寺界隈は寺町で,交通整理が出ていました・・・。
隣町のことなのに,意外と知らなかった最上氏のことが少し分かって,何となくお利口になった気分です(現金な奴・・・)。
次回は番外編となるのか,それとも相変わらずこのような駄文を垂れ流す(汚い・・・)ことになるのか・・・ 。
一応続きます・・・。
斯波家兼墓所光明寺
何と一遍上人像が・・・。時宗か・・・だとしたら多分初めてだ・・・。
光明寺本堂
斯波家兼墓所
専称寺の堂々たる山門。
立派な本堂。少々痛んでいるのが惜しい・・・
駒姫墓所へ。御殿堰が流れる。
駒姫は寺域の一番奥に静かに眠る・・・
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南羽州紀行,2012-其之壱「出羽の梟雄」

2012年08月16日 20時26分35秒 | 歴史

慶長5(1600)年9月の関ヶ原の役以降,幕府は東軍に付いた豊臣恩顧の大名を意外な程厚遇します。
そして,やがて2代将軍秀忠の代になると,幕府の策謀によって次々と改易(取り潰し)になっていくのですが,現在残る城下町の遺構は彼らによって築かれました。
例えば,我が街の街割りをしたのは独眼竜と呼ばれた伊達政宗でしたし,高知は山内一豊,福岡は黒田長政(現在の福岡市の由来は,長政父の如水が所縁の備前福岡-刀鍛冶で有名な長船の近く-から取った)が街割りを進めました。
これら3家は太平の世を260年間存えましたが,以下の大名家は改易となりました。
例えば,熊本の加藤家,松江の堀尾家,広島の福島家等です。
それぞれの改易事情を述べると,それこそとんでもない分量となるので自粛しますが,加藤,堀尾の両家は,今尚熊本と松江で慕われていると聞きます(少なくても熊本は,細川ではなく加藤でしょう・・・)。
で,山形の街割りを進めて,近世城下町を形成するに至った 最上義光(もがみよしあき)もどうやらその1人のようで,山形では今尚大切にされているようです・・・。


何せ山形県出身にも関わらず,伊達藩領で育った私ですので,最上氏や上杉氏といった隣県の大名に対する認識は極めて甘く,政宗母(義姫という諱が伝わっていますが,父や兄のから察するに眉唾ものかと思われます)が最上氏だったこと(弟藤三郎を家督に擁しようと小田原参陣の政宗を毒殺しようとしたとも),殺生関白と言われた秀次の側室に義光女の駒姫が居り,父の助命嘆願も虚しく秀次に連座して僅か15歳にして六条河原で斬られた(しかも輿入れ前だったという説も)ことぐらいしか知りませんでした。
あとは,東北の関ヶ原と言われた長谷堂城の戦いにて,退却するかねたんを追撃したことぐらいでしょうか・・・、。
ですから,せっかく山形に行くのだから,義光について少し学んでこようと思って出かけました。


調べてみると,さすが東北の戦国大名らしく,結構えぐい生き様です。
二回り年下の政宗と相通じるしたたかさを持った武将のようで,少なくても秀吉没後の混乱期を立派に生き残ったあたり,時節を見る目は持っていたと言えるでしょう。
例えば,小田原の役の際に宇都宮城において秀吉に謁見して本領を安堵されています。
政宗の小田原参陣よりも時期的には後ですが(政宗は,上述の母による毒殺騒ぎがあって,参陣が遅れた),抜け目なく家康に近寄っており事なきを得ます。
また,秀吉政権晩期の慶長大地震の際は(加藤清正が真っ先に駆けつけ,文禄の役の際に三成の報告によって秀吉に受けた勘気を解かれた所謂「地震加藤」とは真逆に),家康に近侍して,着々と後の世に対する布石を打っています。
また,隣接する小野寺義道を挑発し,謀略によって重臣を義道に斬らせるなど,結構なことをやっていますし,上杉景勝とは私の故地である庄内地方を巡って,度々争っています。こうした情勢での関ヶ原ですから,当然義光は東軍に付き,会津置賜120万石の上杉と対立します。
出羽の関ヶ原と言われる長谷堂合戦は,こうした中で行われました。
上記小野寺義道を牽制するために庄内地方に出兵していた義光には僅かの手勢しか残されていませんでした。
そこを2万と目されるかねたんの軍勢が押し寄せてきたのですから,本来はひとたまりもなく蹂躙されたところでしょう。
しかし,かねたんが包囲した山形城は霞がかかっていて攻めあぐね,長谷堂城は城将の奮戦もあり容易に落ちず(城兵は上杉軍2万余に対して4,000とも),義光の虎の子である2,000挺もの鉄砲を駆使して善戦します。
関ヶ原の敗戦の報が届き,上杉軍はかねたんの所領である米沢に向けて撤退を開始しますが,義光が黙って見ている筈がありません。
猛烈な追撃戦を展開したものの,後一歩でかねたんを討ち漏らしたと聞きます・・・。
因みに,同じく東軍に属する伊達軍は,義光の依頼によって留守政景以下3,000余の援軍を送りますが,戦局を見守るに留まりました。
このあたりは機を見るに敏な独眼竜のことですから,最上と上杉の双方が弱ったところを漁夫の利・・・と思ったであろうことは難くありません。
義光の只者ではないところは,この長谷堂合戦後に如実に現れています。
かねたんを追撃しただけではなく,上杉領の庄内地方・由利郡(秋田県南部)をどさくさに紛れて奪取し,勢いに乗り小野寺氏の横手城をも攻略。
さらには,秋田実季を東軍を裏切ったと讒訴して,常州宍戸へ追い出すことに成功・
上杉領(というか当時はかねたん領)の置賜郡を除く現山形県全土と平鹿郡・雄勝郡(秋田県南部)57万石という大大名となりました。


最上氏は,他の戦国大名とは異なり,源姓足利一族斯波氏族という歴とした血筋を誇ります。
つまり室町幕府の奥州・羽州探題であった斯波氏(現岩手県紫波郡出自とも)の流れを汲む源氏の名門でした(この点では甲斐武田氏と共通します)。
最上氏は南北朝時代の延文年間(1356 - 60)に奥州管領斯波家兼の子である斯波兼頼が出羽国按察使として山形に入部し点山形城を築城し本拠としたことに始まると言います。
守護大名の集合体であり,将軍とは言え足利氏の力がなかなか地方にまで及ばず,奥州や九州では南朝勢力が未だ蠢動している時期でもあり,それに対する幕府の布石であったということでしょう。
戦国期には伊達氏と争ったりして,一時勢力を落とすものの義守-義光の代に出羽の大名として躍進したことは上述の通りです。


一代の梟雄とも言うべき義光の墓所は,市内の光禅寺にありました。
亡くなったのは慶長19(1614)年。
同年暮れには大坂冬の陣が起こります。
今尚山形市民に慕われる義光の威徳は,山形城にほど近い最上義光記念館にて偲ぶことが出来ます。
ここにあった長谷堂合戦屏風には,武将の名前が細かく記され,暫し時間を忘れて見入りました・・・。
(最上氏の顛末までを書こうとしたのですが,力尽きました。明日続きを書けると良いのですが・・・)
最上義光記念館全景。内部は撮影禁止。義光菩提寺光禅寺本堂。堂々たる構え。○に二つ引き両の家紋は足利氏を示す。光禅寺庭園。桃山~江戸初期の小堀遠州式回遊庭園。義光墓所。隣に殉死した4人の家臣の墓も・・・光禅寺山門。ここにも二つ引き両が・・・
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3.10・・・

2012年03月10日 21時38分08秒 | 歴史

明日の3.11のことしか頭になく,迂闊であること極まりないが,今日は67年目の東京大空襲の日である。
8.6,8.9 ,8.15と共に忘れてはいけない日だ・・・。


民間施設を攻撃すること自体が明らかな戦時犯罪なのであるが,この作戦を立案指揮した米陸軍航空隊のカーチス・ルメイは,日本は家内工業であるが故に民家は軍需施設であるという,理屈にもならぬ理由を述べたという。
日本空襲に使用する焼夷弾の実験のために,日本家屋を内装・調度品に至るまで克明に複製して,焼いてみたそうである。
当日は,先ず風下を焼いて退路を断っておいてから風上を焼くという作戦に出たため,隅田川は焼死体で溢れたという・・・。
10万と一口に言うが,とんでもない数である。
こんだけのことをされておいて,空自創設に功があったということで,我が国はルメイに勲章やったというのだから,お人好しを通り越している。
まあなぁ,GHQのWGIP(ウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラム)によって日本人は,自分たちが悪いことをしたと洗脳されてしまったからなぁ・・・。
東京大空襲に比肩するドレスデン空襲だって無差別爆撃だし・・・。


1945(昭和20)年の東京大空襲,50年後の1995(平成7)年の地下鉄サリン事件,そして昨年の3.11と,3月は哀悼の月だ・・・。
あと仙台市民としては,4ヶ月後の7.10も決して忘れたり風化したりしてはならない日である。
何せ一晩に1,000人もの命が失われたのであるから・・・。
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南羽州紀行-歴史編其之参+グルメ編

2011年08月15日 20時55分21秒 | 歴史

初めて米沢を訪れたのは,もう10年以上前になります。
上杉氏関係の史跡を回り(上杉神社,稽照殿,上杉記念館,廟所等),ふと気づきました。関ヶ原の合戦の際,上杉軍は白河口を固めると同時に,当米沢城主だった直江山城守兼続は山形城を攻め,郊外の長谷堂城を攻城中に関ヶ原の敗報を聞き,あまりのことに落胆して自害まで考えた際に,それを止めた武将がいたのです。
勿論,一昨年の大河ドラマ「天地人」には一切出てこなかったのですが,前田利貞という名を耳にしたことはあるでしょうか。
否,前田慶次郎利益と言った方が通りが良いかもしれません。
ああ,あの傾(かぶ)き者か・・・。
と,ご存じの方も多いことでしょう。
前田慶次郎に関しては,手前味噌ながらこちら覧いただけるとありがたいのですが,とにかく戦国の世に生きた自由人として,武芸に秀でたばかりではなく文学や歌舞音曲等にも並々ならぬ知識と教養を持ち,当時の文化人たちとも交流があったとされる人物です。この慶次郎は確か米沢で余生を送って,米沢で没したのでは・・・と,思い立ちました。
当時はインターネットが普及する前で(私がダイヤルアップ接続をしたのは,その2年後になります),簡単に調べ物ができる時代ではなかったのですが,どうやら慶次郎は慶長17(1612)年に米沢で没した説と,慶長10(1605)年に大和で没した説があるようです。
今年は400回忌に当たるということで,彼が隠棲したとされる米沢市堂森善光寺では,去る6月に供養祭が営まれたようです。


・・・ということで,急遽堂森善光寺を訪れてきました。
市内東郊,上杉祭りの際に川中島合戦が行われる最上川畔から少し山手に入った静かな里が堂森でした。
勿論,初めて訪れましたが,実に良いお寺です。
山門に安置される仁王像は,どう見ても鎌倉期の様式ですし,人里離れた山麓にただずむのも◎です。
晩年の慶次郎が花鳥風月を愛しんで,この地を選んで悠々自適の生活をしたのも合点がゆくというものです・・・。


・・・という訳で,思わぬ収穫がありました。
前田慶次郎に関しては,私なんかより「歴女」のおねいさん方や「無双」に填った方々の方が詳しいでしょうが,最後に「蔵院飄戸斎(こくぞういんひょっとさい)」,「龍砕軒不便斎(りゅうさいけんふべんさい)」といった号は,この自由人が世を皮肉りつつも飄々と面白おかしく生きた様子が伝わってくるように思われてなりません。

左右の仁王像は鎌倉様式
一ヶ月早いと紫陽花が満開だったろう。米沢の紫陽花寺だ・・・。
慶次郎の供養碑。80年建立だから新しいが・・・。手前のキャラは,かねたんとかげっちの仲間のけーじろー(爆)
◎おまけ

せっかくなので米沢ラーメンを食してきました。
これで数回目ですが,やはり美味しいです。
特に今回入ったお店は盛りがよく,私のような大食いにはもってこいでした。
名物の冷やしラーメン。美味だ・・・。
盛り中華。絶妙・・・。
邪道と知りつつ味噌を・・・。美味だが冷やしにすべきだったか・・・。
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南羽州紀行-歴史編其之弐

2011年08月13日 22時09分49秒 | 歴史

上杉15万石の城下町米沢。
関ヶ原の役で西軍に属して博打に負けたため,会津120万石の大封を一気に1/4の30万石に減らされます。
さらに末期養子をとったために,さらに15万石に減封。
その姿勢をケネディ大統領も称賛したという徹底的な倹約と殖産興業に力を尽くした名君上杉鷹山によって,外様の小藩ながらも幕藩期を生き延びていきます。

毎年上杉祭が盛大に催され,最上川畔の八幡原(奇しくも川中島合戦の激戦地と同じ地名)では川中島合戦が再現されます。


豊臣時代,実質上の藩祖である上杉景勝が会津黒川城主だった頃,米沢の城主として街割を行ったのがかねたんでした。
それは米沢減封後も続けられ,街の郊外に寺を設けたのは徳川との市街戦を想定してのこと,と言われています。
また,上杉氏の菩提寺である春日山林泉寺も米沢に勧請され,先代謙信の遺骸も移されましたが,上杉家の廟所は城の北西,林泉寺は南西に位置します。
防塁としたというのもあながち嘘ではないでしょう。


一昨年の大河ドラマはかねたんが主人公という異例の抜擢でしたが,以前は無料でかねたんの墓参ができた林泉寺が有料になっていました・・・。
今回は以前の画像を掲載します。
仲睦まじく夫婦の比翼塚ですが,形が独特なのは防塁を意識してのことでしょうか(2006.5.6撮)

城趾は小規模ですが松が岬公園として整備され,堀は蓮が見事でした。

今春,何とかげっちとかねたんの銅像が建てられておりました。

似ているかどうかは別として,新しい銅像はどうも違和感があります・・・。

街自体も小規模ですが,こぢんまりとした良さがあり活気もあって,個人的にはお気に入りです。

日帰り圏ですので,また機会を見て訪れてみたいものです・・・。
それにしても,米沢は我が藩祖公の生誕地です。

かねたんの銅像もいいですが,表示が城跡の杭一本と資福寺(梵天丸が虎哉禅師に付いた寺。仙台に移された)跡表示だけというのは,いくら上杉で町興しとはいえ片手落ちでは・・・。
因みに,米沢の藩祖公として絶大な人気を誇る謙信公は,当然のことながら一度も米沢には来ておりません。
銅像は,さすがに威厳があります。

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南羽州紀行-歴史編其之壱

2011年08月11日 22時35分57秒 | 歴史

隣県の中心都市にして隣町という山形市を,改めて訪れました。
城趾は駅の北西にあり,駅の南西方向に三の丸の遺構も見られ,相当な縄張りの居城だったことが推測されます。
少なくても,翌日に見ることになる米沢城とは比べるべくも無い巨城です。
大手門がいつの間にやら復元され(会津若松城の鉄-くろがね-門よりはるかに大きい),本丸跡には最上義光(よしあき)の騎馬像が・・・。
義光騎馬像と復元された大手門。改めて見ると,南北朝期の甲冑に近いようだ。
市民が普通に生活ルートとして利用している。良いことだ・・・。
多分,昭和末期の「独眼竜」ブームに便乗したのでは・・・。
逆光でうまく撮影できませんでしたが,どうも鎌倉~南北朝期の大鎧姿のようで,戦国末期から~江戸初期の主流だった胴丸とは似ても似つかぬ格好。
思わす突っ込みを入れようとしたら,時代考証にとらわれずイメージで制作したとのこと・・・。
どんなイメージなんだろう・・・。
個人的に最上義光というと,伊達や上杉といった隣国の大名たちに一歩も引かず対等に渡り合った猛者・・・という感じなのですが・・・。
特に関ヶ原の時期,隣の米沢より攻め寄せた上杉軍(というか,かねたんの軍)3万に対して(白河口を固めているこの時期,かねたんに3万もの軍勢は割くことできないと思いますが・・・),全くたじろぐことなく山形城を死守したのですから・・・。


しかし,熊本-加藤清正,今治-加藤嘉明,松江-堀尾吉晴,広島-福島正則・・・といった豊臣恩顧の外様大名たちと同様,最上家も藩祖の次か次の次の代で取り潰しに遭っているのですね・・・。
で,これらの大名と同様,地元ではとても大事にされている・・・。
最上義光の二代後の義俊改易後は,鳥居,保科(会津藩祖にして秀忠の唯一の妾腹),松平五家,奥平,堀田,秋元,水野・・・といった親藩・譜代がとっかえひっかえ維新まで出入りしているのですね・・・。
これでは,郷土に根付かないはず・・・というか,藩祖である義光が愛される筈です・・・。


次回は米沢城探訪記を書けると良いのですが・・・。
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時事根多ではなく・・・

2011年02月14日 21時32分23秒 | 歴史

エジプト関連の曲を聴こうとCD棚から取り出す。
1つは,何と言ってもヴェルディの歌劇「アイーダ」。
1869年のスエズ運河開通を記念して,カイロのオペラハウスからの依頼で書かれ,同地で初演された・・・という俗説を,私はつい最近まで信じていた。
実際には,依頼はされたもののスエズ開通には間に合わず,柿落としで演奏されたのは,同じくヴェルディの「リゴレット」であった。
「アイーダ」の初演は,その2年後,同劇場に於いてである。
有名な第2幕の「凱旋の場」は,壮麗なファンファーレと合唱による凱旋行進曲と続くバレエの場面,そしてコーダと続く。
因みに,国際Aマッチに於いて日本のサポーターが凱旋行進曲をLALA~で歌ったことがあったが,これは当時パルマに在籍していた中田英寿が,同地で歌われたのを聴いて気に入ったから,とされる(ヴェルディは,統一前のイタリアのパルマ公国で生まれている)。

ついでに中東関連で,同じくヴェルディの歌劇「ナブッコ」第3幕~ヘブライ人捕虜たちの合唱「行け,我が想いよ,金色の翼に乗って」(Va, pensiero, sull'ali dorate)も聴く。
BC587年のバビロニアとエルサレム。
旧約聖書に基づくバビロンの王ナブッコ(ネブカドネザル)とヘブライ(ユダヤ)人虜囚の話であるが,上記合唱曲はユーフラテス川畔で,祖国を思って歌われる。


3曲目,J・シュトラウスによる,ずばり「エジプト行進曲」。
これもスエズ開通に際して作曲・・・と思われたが,やはり違っていた。
触発はされたものの,依嘱作ではないようだ。
中東風の旋律が盛り上がったと思いきや,中間部でびっくり・・・という仕掛けの,実に楽しい曲である・・・。


・・・ということで,適当に書こうとしたら,思ったよりマニアックなエントリとなってしまった・・・。
この手の根多ならいくらでも書けそうだが(大迷惑),誰も来なくなりそうなので以下は自粛する・・・。
でも,せっかくだから,中東関連で,ショーン・コネリーがアラブの族長を骨太に演じた映画「風とライオン」(75)でも見て寝ようか・・・。
尤も,舞台はエジプトではなく,1905年のモロッコ危機関連のようだが・・・。
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南部紀行-其之壱

2010年08月17日 20時18分31秒 | 歴史

久々に遠出してきましたので,現地の美味しいものとか,見学物件について書こうと思ったのですが,いざ書いてみるとおよそそれとはかけ離れたものとなってしまいました。
それらは次回以降になりますので,まずは題名の由来から述べますので,我慢してお読みいただけると有り難いです・・・。



題名を見ると,いかにも明るい南の方へ行ったような印象を受けるが,事実は全く違っていて,むしろ北へ向かった。
なのに南部とはこれ如何に・・・となるのだが,何のことはない,私の住む伊達藩領と北に隣接するのが 盛岡藩-つまり南部藩だからである。
南部というのは,盛岡の殿様の名字のことだ。


今に残る南部の名を冠したものに「南部鉄器」と「南部煎餅」がある。
いずれも岩手県を代表するものだが,我が国でも北方を領した大名の姓が南部というのは違和感がある・・・と思った方はなかなかいい線をいっていると思う・・・。
秀吉時代の末期に盛岡の殿様となった南部氏は,実は源氏の流れを汲む武家の名門である。氏祖は何と平安時代末期の11世紀末まで遡る。
奥州-つまり現在の東北地方とは因縁浅からぬ八幡太郎義家の弟である新羅三郎義光(1045-1127)が始祖である。
ということは,信濃守護職であった小笠原氏や甲斐の守護職だった武田氏と同族,と言っても良いかも知れない。
では何でその一族が南部などという姓を名乗ったのか。
それには,義光以降の系図を繙く必要がある。
義光は,兄義家亡き後の源氏の頭領の座を狙って次々に同族の後継候補を陥れていったこと(兄義綱と甥の義忠)が今は公然たるものとなっているが,京都政界での栄達を狙うと共に源氏の基盤である東国での勢力扶植にも力を入れた。
武田,佐竹,小笠原といった近世大名の祖が彼であることを考えると,その功績は大きいと言える。
その義光の長男義業(よしなり1077-1133)は常陸の佐竹氏の祖となり(佐竹は秋田の殿様と東北では認識されているようだが,それは関ヶ原以降のことであり,発祥は茨城である),次男義清(1075-1149)は同じく常陸国那珂郡武田郷(現ひたちなか市)に在して武田氏を称した。
あれっ,武田って甲斐(山梨)じゃないのか・・・と思った方は正しい。
義清は常陸の武田に在住して武田冠者を名乗ったが,現地に根を張る平氏の流れを汲む常陸大掾(だいじょう)氏との争いに敗れ,甲斐へ向かったという。
その義清の子が黒源太とか逸見冠者と言われた清光(1110-68)である。
この清光の子が,それぞれ光長(逸見),信義(武田),遠光(加賀美),義定(安田)となる。
その遠光(1143-1230)の子である三男光行(1165?-1236?)が,甲斐国巨摩群南部牧(現山梨県南巨摩郡南部町)を領して南部氏を称して氏祖となった・・・(次男長清が小笠原氏の祖)。
そして,光行は頼朝に従って平氏追討と鎌倉幕府創設に貢献。
その際に甲斐から陸奥に移住したと思われる。
奥州合戦で平泉藤原氏が滅亡した後,おそらく当地の地頭職にでも任命されて下向したと想像される。


以上が題名の解説であるが,ここまで書いて力尽きてしまった。
本当は,一昨日の夜に食した盛岡名物について書こうとしたのだが,そんな気力は残存しない・・・。
何で盛岡の殿様が南部で,武田氏が常陸出自であることを述べて終わってしまった・・・。
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英雄番付

2010年02月10日 21時41分46秒 | 歴史
長野県須坂市にある「豪商の館 田中本家博物館」なるところに,「全世界英雄番附」なるものが展示されているらしい。
何でも,明治42(1909)年1月発行の「冒険世界」なる雑誌の付録とのことだ。
洋の東西に分けて,読者の投票による英雄の番付表であるが,当時の世相を反映して興味深い結果が出ている。

○東洋
横綱  豊臣秀吉
大関  成吉思汗
関脇  徳川家康
小結  西郷隆盛
前頭一 北条時宗
前頭二 秦始皇
前頭三 諸葛孔明
前頭四 源頼朝
前頭五 伊達政宗
前頭六 織田信長


・・・ということだが,秀吉が一位というのはやはり明治だからだろう。
しかし,家康が関脇と割と高位に居るのも興味深い。
西郷の人気は,不死伝説もあって根強いものだったのだろう。
時宗が上位にいるのは意外だったが,大陸進出と相俟ってのことか・・・。
で,戦国武将ではおらが殿様が何と信長を押さえて上位。
成吉思汗が大関というのは,西洋列強に対するアンチテーゼか・・・。


○西洋

横綱  ナポレオンI世
大関  歴山大王(アレキサンダー大王)
関脇  カエサル
小結  ピョートル大帝
以下不明


納得といえば納得である・・・。
このアンケートの勧進元に名を連ねているのは,コロンブス,釈迦,耶蘇(イエス),ゲーテ,セクスピーア(シェークスピア),ニュートン・・・といった面々だそうだ・・・。
何か無茶苦茶だ・・・。


これを現代でやったらどうなるだろう。
何か面白そうな企画ではある。
「歴史読本」とか「歴史と旅」あたりでやってくれないものだろうか・・・。
戦国武将ランキングとかはよく有りそうだが,鎌倉御家人ランキングとか,幕末志士ランキングとかやったら結構マニアックで面白いかもしれない(・・・でもないか)。
因みに,坂本龍馬は上記番付では前頭の下位にかろうじて引っかかっていたそうだ。
時代と共に歴史の評価は変わるものなのだろう・・・。
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