koshiのお部屋2

万年三歳児koshiの駄文のコーナーです。

龍馬伝-第18回「海軍を作ろう!」

2010年05月03日 22時12分25秒 | 龍馬伝

夜,昨夜の録画を回しました。
のっけから幕府軍艦上ではしゃぎまくる龍馬の様子が活写され,文久3(1863)年正月に幕艦順同丸にて大坂に向かったとナレーションが入りました(そう云えば,弥太郎くんの出番は今回全く有りませんでした・・・)。
やはり,ハウステンボスの観光丸だったようです。


脱藩した文久2年から翌年にかけて,龍馬の八面六臂の活躍が始まった,と思うのは私だけでしょうか・・・。
特に,この時期は江戸と京・大坂を股にかけての大立ち回りを演じます。
3月の清河八郎(私とほぼ同郷なんだよな・・・)暗殺(やったのは後の見廻り組の佐々木只三郎)とか,長州藩の京都政策失敗である(寝業師とも云うべき薩摩藩に足元を掬われた-薩会同盟)八月十八日の政変,そして龍馬の同胞たる吉村寅太郎らによる天誅組の変,そしてそれに関連した福岡藩脱藩平野国臣による生野の変と,翌年の池田屋事件・禁門の政変という幕末史上有数の流血事件に向け,尊皇だ攘夷だと世の中が滾ったにも関わらず,龍馬の行状に一種の明朗さが感じられるのは,やはり軍艦という最高の「おもちゃ」を見つけたからなのかもしれません・・・。


しかし,寡聞にも神戸海軍塾と神戸海軍繰練所の前身が文久3年当時大坂に置かれていたとは知りませんでした。
大和屋なる商家は創作と思われますが,そこのおねいさんと饅頭屋長次郎が仲良くなるエピソードは余計だったと思います。
もうあのおねいさんは出てこないのでしょうかね・・・。
・・・で,大坂の街で(弥太郎と脱藩直後の龍馬が飲んで,以蔵が井上佐一郎を殺ったのと同じ場所のようです)偶然(本当にTVは便利だわ)惣之丞と出会う龍馬。
奸臣勝に弟子入りとはとんでもない,と刀を抜く惣之丞。
をいをい,町奉行所から役人飛んでくるっちゅうに・・・。
でもって,土佐のご老公から武市に命じて藩士3名を海軍塾へ・・・ということで,望月亀弥太,高松太郎,千屋寅之助(菅野覚兵衛といった方が海援隊絡みでは分かりやすいか)がやってくる・・・。
神戸海軍繰練所は当然のことながら幕命によって設置されたものですから,おそらく各藩から塾員を募った(というか幕府が命じた)のでしょう。
後に池田屋事件で命を落とす亀弥太はどうやら藩命によって送り込まれたようですが(ご老公が本当に関わっていたか不明ですし,ましてや攘夷断行を旨とする武市が積極的に・・・とも思われません・・・),他の2人はいつ神戸に来たのか分かりません(3人一緒じゃないのは確かでしょう)。
その後,ご老公による勤王党切り崩しが丁寧に描かれていましたが(孤独な武市・・・),推測するに,勤王党は武市のもとに一枚岩たり得なかったこと,龍馬等脱藩浪士とのコネクションがあったこと(前年,江戸到着直後に龍馬は平井と時世を談じている),上士の平井は武市と別口で動いていたこと等,武市を首魁とする勤王党が帰国したご老公にやられるまで藩政を完全に牛耳っていた訳では無いということでしょう・・・。
ですから,神戸海軍塾には浪士や各藩士たちがてんでに集まったのではないでしょうか・・・(間もなく陸奥陽之助-というか伊達小次郎がやって来るのでしょう・・・)。
ついでに述べると,最初の塾頭が佐藤与之介というのは創作と思われます。
最初,「さ」の発音が「しゃ」,「せ」の発音が「しぇ」と聞こえたので,成る程長崎出身か・・・と思いきや,どうやら東北弁という設定らしいです。
東北の人間から言わせてもらうと,濁音が多けりゃ東北のズーズー弁という図式はいい加減改めて欲しいと思います。
私自身も訛りは相当あると自覚していますが,あんな奇っ怪なイントネーションは東北弁とは思われません。
それに,東北弁と十把一絡げに申しても,北から津軽弁,南部弁,秋田弁,庄内弁,村山弁,置賜弁,仙台弁,会津弁等いろいろありますし,それぞれが近似性と相違性を持っています。
有薗芳記さんは,「風林火山」では河原村伝兵衛役で良い味出していたんですけどね・・・(割ヶ嶽城攻めでの「ち~ん」を思い出すと笑えます・・・)。


・・・ということで,ここまで書いたらえらく疲れたので,このぐらいにします。
毎回面白いのですけど,突っ込みどころも多いのがまた楽しみでもあります・・・。
そろそろ弥太郎くんと江戸のおねいさんが見たいですね・・・。
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龍馬伝-第17回「怪物,容堂」

2010年04月25日 21時18分28秒 | 龍馬伝
今回は山内容堂がいっぱい出てきました。
幕末の四賢候の一人と云われる容堂ですが,本日語られたように極めて頑迷で保守的な思想の持ち主だったと思われます。
勿論,勤王は文化人・知識人たる容堂のモットーとするところでしょうが,容堂にとっての勤王はあくまでも幕藩体制の中でのものだったと思われます。
土佐二十四万石は,周知の通り藩祖である山内一豊が,関ヶ原での功績によって徳川家より拝領されたものです。
ですから,薩摩や長州と決定的に違うのは,土佐藩が徳川の恩顧にあったという歴史的事実です。
おそらく容堂は,龍馬も弥太郎も存在を殆ど知らなかったことでしょう。
容堂にしてみれば,郷士ずれが勤王面するなぞ片腹痛し,といったところでしょう。
開明的で尊皇を旨とする殿様が土佐へ帰ってくる-勤王党の面々は大いに盛り上がったことと思いますが,容堂が行ったことはまずその勤王党の弾圧でした。
このあたりに幕末土佐藩の悲劇があると思われます。
尤も,藩の上層部が保守的なのは薩摩や長州も同様で,特に長州は元治元(1964)年の禁門の政変に敗れ,幕府・諸藩の攻撃を受けて(第一次長州征伐)保守政権(通称俗論党)が誕生,2年後の高杉晋作によるクーデターまでは,親幕府勢力となっていた・・・という事実もあります。
因みに,以前吉田東洋の項でも触れましたが,容堂は文久2(1862)年時点で数えで36です。
近藤正臣さんの大河ドラマと云えば,昭和48(1973)年の「国盗り物語」(明智光秀役)を思い出しますが,ちょいと老けすぎではないでしょうか・・・。


さて,弥太郎くんは突然坂本家にやってきて,大歓迎を受けます。
龍馬と大坂で遭ったというだけで,こうまで歓待されるのか謎ですが,下横目として龍馬を捕縛に行ったのに,友達面してしゃあしゃあとしている厚顔な弥太郎くんでした。
で,材木100本を買い取ってやる権平もいい人です・・・。
言ってしまえば,坂本家と弥太郎の接点が有ったとは到底思われないのですが・・・。


そして龍馬は遂に軍艦という夢中になれるものを見つけます。
千葉道場の面々はそんな龍馬をよく理解し,快く送り出します。
真相は,攘夷熱が盛んなこの時期に軍艦などという洋夷のものに夢中になる龍馬に呆れていた,というか,懐疑的・批判的だったのではないでしょうか・・・。
で,龍馬は千葉門を出て長次郎を伴い勝と共に軍艦で大阪へ・・・。
艦首でポーズを取る龍馬をバースを効かせた絶妙なカメラワークが捉え,背後には雄弁な佐藤直紀による楽曲が鳴り響く・・・。
感動的に盛り上がる全編の白眉たる場面です・・・。
でも,浸れない私は冷血漢なのでしょうか・・・。
この辺りをどう感じたのか,多くの方に伺ってみたい気がします・・・。


さて,今回は佐那おねいさんの出番が多く(それも凛々しい稽古着姿の),私を喜ばせてくれましたが,龍馬との立ち会いの場面は,竹刀の先端が鶺鴒の尾の如く細かく震えていたので,ここでも私を満足させました。
しかし,龍馬の心は全く佐那には無いようで(加尾にはあんなにご執心だったくせに・・・),見ていて哀れでした・・・。
実際は,千葉家としては龍馬を佐那の許婚として認めていたという状況だったとも言われていますので,果たしてどんなものだったのでしょう・・・。
・・・で,どうも永別のような雰囲気でしたが,龍馬はこの後翌文久3年と翌々元治元年の二度にわたって江戸を訪れています。


・・・で,最後に・・・。
龍馬が幕船順同丸にて上坂したのが文久3年元日。
勝が容堂と会ったのは,江戸に帰る途中の1月16日,下田においてでした。
この際に龍馬の脱藩は許されています。
・・・というか,容堂にとって名も無き郷士の龍馬などどうでも良い存在だったということでしょう・・・。
どうも,いまいち時系列が曖昧なようでして・・・。
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龍馬伝-第16回「勝麟太郎」

2010年04月18日 21時44分18秒 | 龍馬伝
のっけから済みませんが,本編と関係ないことをまず述べてから・・・と,今日は思います・・・。


私のように前世紀に生まれ,かろうじて大河ドラマの「竜馬がゆく」に触れ,10代半ばに原作を読んで,司馬遼太郎の作品に傾倒した者にとっては,やはり坂本龍馬=竜馬がゆくの図式から脱却するのは容易ではありません。
以前述べたように,龍馬を扱った作品としては山岡荘八の「坂本龍馬」,それ元にしたコミカライズ作品である「坂本龍馬」(後半は作画担当の横山まさみちのオリジナル),風巻弦一の「青春坂本龍馬」,そして「竜馬がゆく」をベースに著者の思いによって脚色された「お~い龍馬」(原作:武田鉄矢,画:小山ゆう)といった諸作品に触れてきましたが,はっきり言って,「竜馬がゆく」を凌ぐものは,質量ともに存在しなかった・・・というのが,個人的な印象です。
では20世紀のスタンダードたるのが「竜馬がゆく」としたら,21世紀の新しい龍馬像は本作が担ってくれるのでしょうか・・・。


脚本を書き下ろした福田氏は,「竜馬がゆく」に傾倒し,きっと何度となく読み返したことでしょう・・・。
その上で新たな龍馬像を・・・という気概を持ち,執筆に当たっているのではないか,と思われます。
その辺りが,今回のような新たな解釈となって現れたのではないかと思います。
龍馬と勝の邂逅は,千葉重太郎に誘われて,神州を穢す異狄との交易を薦める奸物勝を斬るという名目で行われたのが通説となっているのでしょうが,敢えてそれを採用せず独自の解釈が為されたということでしょうか・・・。
勝を知るきっかけを加尾に,そして後に神戸海軍塾を経て亀山社中へ入る饅頭屋長次郎を勝の弟子として配したということでしょう・・・。
激烈な尊攘思想を持つ三条実美に仕える加尾が勝や松平春嶽との接点が有る筈もなく,饅頭屋が名字帯刀を許されて武士となったのは翌文久3(1863)年のことですから,ちょっと(否かなり)設定に無理があったと思います。
意欲と気概は買いますが,敢えて奇を衒わず重太郎と共に勝を斬りにいくという設定の方が自然だったと思われます(佐那に「私も参ります」と言わせて絡ませるとか・・・)。


築地にあったと思われる幕府の海軍操練所(講武所)に中浜万次郎が講師として勤めていたのは事実でしょうし,咸臨丸が停泊していた可能性も有ったでしょう。
尤も,あの咸臨丸と呼んでいた船は観光丸でしょうかね。
私は長崎のハウステンボスで一度見たきりですが・・・。
もしかすると,江差の開陽丸かもしれません・・・(自信は無い)。


ついでにもう一つ突っ込みを入れれば,千葉定吉・重太郎父子は鳥取藩の剣術師範であり,松平春獄の越前藩ではありません。
尊王攘夷はこの時代の言わばトレンドでもあり,反体制を標榜する現代の(否,私が若い頃の左傾化した)若者と同様のということかもしれません。
御親藩である水戸藩が,勤王を掲げる水戸学の中心となったというのは,歴史の皮肉かもしれません・・・。


・・・で最後に,やっぱり合わないよあの勝は・・・(通称は麟太郎ではなく安房守,或いは房州でしょう・・・)。
福岡出身の彼に伝法な江戸弁は無理があったし,アクの強い俳優には歴史上の偉人は無理があったのかもしれません・・・。


それにしても,今回打っていて一発変換しない言葉の何と多いことか・・・。
講武所,麟太郎,安房守,房州,御親藩,操練所,春嶽,尊攘,奸物,異狄等々・・・。
実に疲れました・・・。
(あ゛,せっかく久々に出たのに,おねいさんのこと書かないでしまった・・・。広末に比べて格段に扱い悪いよな・・・)
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龍馬伝-第15回「二人の京」

2010年04月12日 21時01分32秒 | 龍馬伝
やはりここに来て進行がゆっくりとなってしまいました。
「お前に会いに来たんじゃ」
わざわざ京に上ったということは,やはり加尾が本命という設定か・・・。
前藩主山内容堂の妹・友姫が三条公睦に嫁ぐ際に友姫の御付役として京に行った訳だから,一介の脱藩浪士が会えるのでしょうか・・・。
・・・で,兄に龍馬さんとは関わるなと言われちょる・・・と言いつつ逢い引きするとは・・・・・。
やたらその場面が長く,家族で見ていてどうしようかと思ったじゃないか・・・。


そうしているうちに同じ日に以蔵が越後浪士本間精一郎を斬っている・・・。
文久2(1862)年閏8月21日のことだから,閏8月22日に江戸の桶町千葉道場に入っている筈の龍馬が京に居るはずありません・・・。
・・・て,以蔵と遭ってしまった・・・。
タメ口利くのか以蔵・・・。
この頃には,既に目明し文吉まで殺っていた???


龍馬と加尾が遭ったのは,三条木屋町の辺りという設定でしょうか・・・。
オープンセットっぽい背景でしたが,流れているのは高瀬川ということでしょうか・・・。一昨年暮れ,久々に上洛して東山界隈から祇園を経て木屋町・先斗町にかけて歩いたことがありましたが,堀端柳と淡い花街の照明が何とも言えぬ情趣を醸し出しておりました。龍馬伝紀行で紹介された武市の寓居跡も見た記憶があります。
残念ながら,あの界隈で飲んだことはありませんが(土佐藩邸近くの河原町でなら有ります),お気に入りの「餃子の王将」も有り,また歩いてみたくなりました・・・。


加尾が三条家を致仕した理由は,本当のところ何だったのでしょうね。
同年10月に致仕しているようですので,真相は分かりません。
翌年収二郎が切腹,3年後には西山直次郎を婿養子として迎えてますが,この時点で加尾は数えで25です。
当時としては,完全に婚期を逸しています・・・。
で,過激な尊王攘夷論者の三条実美が,幕府軍艦奉行の勝を推挙するのでしょうか・・・。
それを何で加尾が知ってるんだ・・・。


一方弥太郎君は,脱藩労使探索任務を放棄して無断帰国したので,職を免じられて農民同様の暮らしをしていました。
二本差しが何とももの悲しい味を出していました。
虚しい怪気炎をあげると,例の「弥太郎行進曲」が全開となります・・・。
あと4年,安芸で虚しく過ごすんでしょうか・・・。


来週から三度江戸が舞台となります。
おねいさんも出てくるようだし・・・と思ったら,何なんだよあの勝鱗太郎は・・・(絶句・・・)。
アクの強い俳優は,役所が難しいですね・・・。
4年前の五島吉兵衛役は良かったんですけど・・・。
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龍馬伝-第14回「お尋ね者龍馬」

2010年04月04日 21時27分38秒 | 龍馬伝

第二部開始・・・ということで,ものものしく始まりました・・・。
久々に登場(正月の第1回以来)の坂崎紫欄が大金持ちとなった弥太郎と話すシーン。
しばらくぶりなので,どうもその展開がしっくりきませんでした・・・。


先に惣之丞が,次いで龍馬が上坂。
これまた久方ぶりぶりのピエール溝渕と再会します。
どうやら茶屋酒が飲める茶店のようでしたが,道頓堀とか心斎橋とかの設定なんでしょうか・・・。
・・・で,脱藩してきたと惣之丞が言って,ピエールが追いかけることに・・・。
そうしているうちに,龍馬くん捕縛(本作では刺殺)を命じられた弥太郎くんが,下横目として上坂してきます。
・・・で,都合良くばったり出会う二人。
まっことTVとは便利なもんぜよ・・・おまけに弥太郎はその後マッハを凌ぐ光速で土佐へ帰るし・・・)。


龍馬は九州に行っていたと言い(事実でしょう。「竜馬がゆく」では描写がなかったと思いましたが,下関の豪商白石正一郎を訪れ,九州各藩を歴訪したと想像されます。勿論薩摩には入れなかったことでしょう・・・),弥太郎との再会を心から喜びます。
・・・といっても,こちらは先週見ていますので,全く感慨が湧きませんが・・・。
で,龍馬は弥太郎に,
「こんなことをしても何にもならんから土佐へ帰れ」
と諭します。
しかし,収まらないのが今一人の下横目の井上佐一郎でした。
周囲に
「一両ずつやるぞ」
と扇動し,刀を抜きます。
・・・で,龍馬に小太刀であっさりやられて・・・。
こんな街の中で刃傷沙汰やったら,町奉行所の役人が飛んでくるでしょうに・・・(大塩平八郎の30数年後の後任??)。
どうも,そのあたりのリアリティの欠如が気になります・・・。


一方武市は吉田東洋を斬り,念願の挙藩勤王を達成し。
幼い藩主豊範を傀儡として朝廷(というか三条実美)へ攘夷断行を奏上し,一気に幕府へ圧力をかけようとします。
やがて,賢候と呼ばれ勤王を旨とする前藩主豊信(容堂)が土佐へ戻ったことで,土佐勤王党は大喜びをしますが,容堂が真っ先にやったのは勤王党の弾圧でありこれによって土佐勤王党はせいぜい1年半の天下となり・・・というのは後の話。
取り敢えずは,半平太くんは我が世の春というところでしょうか・・・。
・・・で,面白くない以蔵くんは,とんでもないことをしでかします。


下横目として藩士の周りをかぎ回る井上佐一郎を大坂で絞殺。
死体は,惣之丞とピエール,そして龍馬と弥太郎が飲んでいた辺りに放置され,うっすらと霜をかぶっていました。
そういえば,暗殺のために酔った井上を待つ以蔵も寒さに震えていました・・・って,ちょっと待てよ。
龍馬の脱藩が文久2(1862)年3月。
下関の白石正一郎を訪れたのが翌4月初め。
江戸の千葉道場へ行ったのが閏8月だから,心斎橋筋での井上佐一郎絞殺は8月初旬の筈・・・。
全く,こんなことを素人に突っ込まれんじゃねーよ・・・。
これじゃ「天地人」並じゃないか・・・。


突っ込みついでに言いますが,井上暗殺は以蔵の単独犯ではありません。
確か仲間が3人居た筈です。
だいたい以蔵が仮に膂力に自信があったとしても,大の男を素手で殺るのは無理でしょう・・・(刺殺・斬殺ならともかく)。
だから,散々酔わせて4人がかりで絞殺し,死体は道頓堀に投げ込んだ筈です(心斎橋筋から道頓堀の中心の戎橋まで,先日偶然歩いてみましたが,300mは有ります・・・)。
だから,以蔵の単独犯+寒い時期,というのは多分に無理があります・・・。


来週は京で加尾と再会するようですね。
何かそれに時間を取られそうです。
ここに来てまったりと進みそうなのが意外ですが,だったら 第一次寺田屋事件についても丁寧に描いて欲しかったです。
何せ,寺田屋のお登世は龍馬とは因縁浅からぬ存在となりますので・・・。


・・・ということで,またもや突っ込みを入れてしまいましたが,楽しみにしているからこそ裏返しに・・・ということで,ご容赦いただきたいと思います。
番組末の「龍馬伝紀行」(・・・という題名でしたっけ???)にて,ようやく武市が上士と郷士の中間的階級である白札であることが語られましたが,遅いって・・・。
来週京だから,江戸でおねいさんが出てくるのは早くて再来週か・・・。
・・・なんてこと書くから,私にはジャニーズ系男性アイドル目当てでTVや映画を見るコギャル(死語か?)やおねいさんを批判する資格は全く無いことに・・・。
日記@BlogRanking


龍馬伝-第13回「さらば土佐よ」

2010年03月28日 21時04分58秒 | 龍馬伝
弥太郎が龍馬に毒を盛る・・・。
ダークサイド半平太にダークサイド象二郎。
どちらも完全に暗殺を策謀する陰険な策士と成り果てています・・・。
以前も述べましたように,土佐時代の龍馬と弥太郎の接点は殆ど無かったと思われますので,さすがにこの設定にはぶっ飛びました・・・。


・・・で,惣之丞に脱藩を薦められる龍馬。
その地図を発見する権平兄。
止めない乙女姉。
吉村寅太郎の脱藩(実は翌年一時帰参)に果たして,龍馬が影響を受けたのかどうか・・・。確かに武市の挙藩尊攘に限界を感じていたという点では一致しますが,吉村の目指していたのは寺田屋事件(後に龍馬が補吏に踏み込まれたのではなく薩摩藩の方)を初めとする諸藩による蜂起でしょうから,龍馬とは相容れぬものがありますので,武市のやり方に限界を覚えた龍馬と沢村が一緒に脱藩を・・・というのが真実ではないでしょうか・・・。
ただこの後,吉田東洋を斬った那須信吾,大石団蔵,安岡嘉助も脱藩していますし,北添佶摩,池内蔵太,望月亀弥太,望月亀弥太といった土佐藩士は文久2(1862)~3年にかけて多くが脱藩して主に長州藩を頼り,池田屋事件や禁門の政変で命を散らすことになりますので,土佐勤王党は完全に一枚岩ではなく,武市の挙藩尊穣に疑念を持っていた者が多かったということでしょう・・・。
むしろ長州藩の暴発に「義挙」を感じての脱藩だったということかもしれません。
つまり,この時期の土佐藩士による脱藩は後を絶たなかったということであり,原因は上記土佐勤王党の非一枚岩と,尊皇攘夷を標榜しながら実は保守,という前藩主山内容堂による勤王党弾圧にあったのでしょう・・・。
そうした意味では,幕末の四賢候の一人に数えられる容堂ですが,彼の尊穣思想はあくまでも上士階層以上に適用されるものであり,幕府に逆らう気など毛頭も無かったと思われます(これは島津久光も同様でしょう)。
ですから,武市らが口にする尊穣など片腹痛し,ということでしょう。
このあたりに土佐藩の悲劇の元があったと言えるのではと思います。
尤も,藩の上層部が保守的だったのは,薩摩も長州も同様だったでしょうが・・・。


龍馬の愛刀は陸奥守吉行では無かったようです。
乙女姉が刀を出したということは,やはりお栄姉は既にこの世の人ではなかったということでしょうか・・・。
ま,坂本家が全面的に龍馬の脱藩を支援したとは思われませんが・・・。
和霊神社に参拝していたとか,五台山に登っていたとか,挿話には事欠かないようですが,生まれ育った土佐との別れに,龍馬はどんな思いを持ったのでしょう・・・。


しかし,弥太郎と龍馬が絡みすぎです。
下手すると,生涯に数えるほどの接点しか無いと思われたこの2人がですよ・・・。
そんなしょっちゅう会うわけ無いじゃないですか・・・。
・・・で,来週大坂で会うんでしょうかね・・・。
ということは,以蔵も大坂に居るはず・・・。
さて,どうなることか,楽しみに待ちたいと思います。
・・・で,NHKのサイト見たら,来週大坂,再来週京(また長々と広末出すんだろうな・・・)ということで,最初の江戸遊学と違ってゆっくり語られるようです・・・。
ということは,佐那おねいさんはあと三週間は出ないことに・・・(泣)。
ここに来て,急に進行がゆっくりになったのは何故なのでしょう・・・。
日記@BlogRanking

龍馬伝-第12回「暗殺指令」

2010年03月21日 22時03分02秒 | 龍馬伝
初っ端は土佐勤王党結成シーン。
龍馬も忸怩たるものを感じつつも血判押します。
・・・ということは,文久元(1861)年9月か・・・。
結成の一ヶ月後に龍馬が入った筈ですので・・・。


・・・で,上士恐るるに足らず・・・と,鼻息荒い勤王党の面々ですが,中でも平井収二郎は,すっかり浮かれて龍馬にも加尾のことで何とも思っていない・・・と言います。
で,沢村惣之丞が登場。
武市批判をして周囲の顰蹙を買います・・・。
周知のように惣之丞は翌年3月に龍馬と共に脱藩し,後に海援隊士となった男だけに,伏線を張ったということでしょう・・・。


・・・で,沢村から長州の久坂義助の噂を聞き,無性に会いたくなります。
そして,武市に長州へ行かせてくれと頼む龍馬。
どうなんでしょうね・・・。
史実では翌年1月のことですし,その間に前回も書いた丸亀等での剣術修行(という口実で,近隣諸藩の動きを偵察というのが本音でしょう)がありますから,そのあたりがオミットされ,あっという間に5ヶ月たってしまいました・・・。


久坂玄瑞(義助)というと,激烈な攘夷思想を持ちながら怜悧な若者・・・というイメージを私が一方的に思っていただけでしょうが,それにしてもあの久坂は何なんでしょうね・・・。
熱血漢で一本気の若者・・・という設定なのでしょうが,悲憤慷慨のあまり絶叫までして,挙げ句の果てに龍馬に脱藩をそそのかす・・・。
龍馬の脱藩に沢村や久坂を伏線にするあたり,ちょっとあざといような気がします。
おそらく龍馬は,一連の黒船騒ぎや安政の大獄,桜田門外・坂下門外の変等を通じて,威勢の良いだけの攘夷に懐疑的になると共に,武市の進めようとする藩ぐるみの尊皇攘夷にも限界を感じた・・・というのが真相と思われます・・・。
ただ,そう考えると,脱藩直前の長州行での出来事は確かに龍馬にとって,脱藩の背中を押す直接的なものとなったのかもしれません・・・。


その間武市は,参政吉田東洋に藩ぐるみの攘夷を直訴し,足蹴にされるという屈辱を味わいます。
・・・で,暗殺指令・・・ということでしょうか・・・。
う~ん,有り得ない・・・。
弥太郎は弥太郎で,いつの間にやら可愛らしい奥さんもらって,鼻の下を伸ばしている・・・。
そこへ龍馬がやってきて,相変わらず平行線の会話をします。
何かよう分からん・・・。
そんでもって,東洋と一緒に武市を足蹴にした後藤がやってきて・・・。
え゛,暗殺指令とは,武市が東洋を龍馬に・・・だけではなく,後藤が龍馬を弥太郎に・・・。
そんでもってダークサイド武市は,二重人格に・・・。
さっぱりわやや・・・。


これで,第一部は終わりだそうです。
何か,9年間があっという間でした。
何だかんだ言って面白いのは良いのですが,考証と設定に甘さを感じるのは私だけなんでしょうか・・・。
もう少し丁寧に各人物を描いてくれると良いのですけど・・・。
次回は第二部開始と同時に脱藩と東洋暗殺が描かれるのでしょう・・・。
姉のお栄の自害と愛刀陸奥守吉行のくだりは語られるのかどうか・・・。
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龍馬伝-第11回「土佐沸騰」

2010年03月14日 19時18分03秒 | 龍馬伝
まずは弥太郎くんです。
諸外国と対等に・・・と思いきや,丸山遊郭で藩費を100両使い込んでお役ご免に・・・。で,またまた龍馬くんと接触・・・


万延(1860)元年3月3日の桜田門外の変が語られ,井伊大老暗殺にダークサイド半平太がやたら盛り上がる・・・。
しかし,泥まみれでしたね。
桜田門外の変,というと,粉雪を散らしてというイメージが一人歩きしていますが,もしかするとあのように泥まみれだったのかもしれません・・・。
そうしているうちに,池田寅之進事件(井口村刃傷事件)が起きます。
因みに,それは文久元(1861)年3月4日のことと言いますから,桜田門外の変の丁度1年後となります。
このあたりも,まるですぐ起こったような感じで,どうも違和感があります。
上士と郷士が一触即発となって,池田の切腹で収まったのは史実でしょうが,東洋が龍馬を呼んで上士に・・・というのは,幾ら何でも作りすぎでしょう。
ただ,龍馬にとって藩ぐるみの尊皇攘夷は無理があることを悟らせるに足る事件だったとは思いますが,土佐勤王党の結成はその半年後になります。
なのに,即刻結党されてしまいました・・・(をいをい・・・)。
どうみてもあれは過激なテロ集団にしか見えません・・・。


では,その間龍馬はどうしていたのでしょう・・・。
そのあたりを丁寧に描いて欲しかったです。
例えば,藩主の妹と一緒に三条家に行く加尾のことが描かれたり(そういえば,きょう初めて広末出なかった),小栗道場での様子が描かれたり・・・といった具合です。
で,来週までにまた1年たってしまい,脱藩となりそうです・・・。
どうも,長州藩訪問と四国剣術修行がカットされそうな・・・。


龍馬が,本格的に天下の風雲の中に出て行くのは,確かに脱藩してからでしょうが,第一次~第三次土佐編と第一~第二次江戸編をもっと丁寧に描いて欲しかったです・・・。
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龍馬伝-第10回「引きさかれた愛」

2010年03月07日 19時36分49秒 | 龍馬伝
え゛,もう北辰一刀流免許皆伝か・・・。
ということは大獄の前年である安政5(1858)年だから,藩から1年遊学期間を延長されたことも触れられていないし,せっかく松陰や桂を出したのに松下村塾のことも触れられていない・・・。


・・・で,タイトルバックが終わると,いきなりおねいさんとの修羅場が・・・。
土佐に大事なものが・・・,とは何なのでしょう・・・。
大事な者ということじゃないでしょうね・・・。
しかもおねいさんに,さよならと言われてあっさり居なくなって・・・。
泣かせてしまったじゃないか・・・。


日米修好通商条約締結,井伊大老が云々・・・と言っているうちに土佐に着いた龍馬。
鉄砲風呂のような変な風呂を乙女姉さんに湧かして貰って,入っていたのはともかく,女性のためのサービスカットには,背中の鬣は有りませんでした・・・。
・・・で,加尾に言ってしまった・・・。
をいをいいいのか・・・,江戸のおねいさんはどうするんだよ・・・。
収二郎が激怒するのは見え見えだ・・・。
しかし,加尾と武市が最大のミスキャストと思うのは私だけでしょうか・・・。
加尾が藩主の妹に従って三条実美のもとに行ったのは史実ですが,隠密であった筈もなく,妙ちくりんな設定にぶっ飛びました・・・。
だいたい平井は上士です。
だからこそ妹を藩主の妹に付けることができたのです。
郷士(敢えて下士とは言わん)の妹が,そんな役目できる筈もありません・・・。


・・・で,武市が・・・。
何なんだよ・・・。
この時期の武市は,土佐勤王党の結成に躍起になっていたはずです。
龍馬も勿論それに加わります。
武市・平井-攘夷,龍馬-非攘夷という図式が勝手に脚本家の頭に出来上がっているとしかん思われません・・・。
勿論,龍馬が唯々威勢が良いだけの攘夷論に懐疑的だつたことは間違いないと思います。
しかし,この時期の龍馬は武市の盟友として後の土佐勤王党に参加する準備期間だった筈です。
土佐で何をしていたのかは推測の域を出ませんが,土佐勤王党結成の文久元(1861)年までは,武市たちと時勢を論じたり日根野道場で後進の指導に当たったりしていたのではないでしょうか・・・。
土佐勤王党結成の年に「小栗流和兵法三箇条」一巻を伝授されていますので・・・。


しかし,毎回毎回広末を出すのは何なんでしょう・・・。
ご当地出身だからなのか,脚本家・演出家の趣味なのか分かりませんが,今回のようなエピソードが有ったとは到底思われません(じゃ佐那はどうなんだよ・・・)。
あれでは龍馬は二股かけたとんでもない奴ということになります・・・。
つまり,余計な1回だったと・・・。


次回はもう土佐勤王党結成のようです。
3年たっていますが,どうなんでしょう・・・。
剣術修行と称して四国各地を回る話は有るのでしょうか・・・。
また,武市の命で龍馬は長州を訪れて久坂義助(玄瑞)と会いますが(それは脱藩直前の文久2年か・・・),そのあたりはどうなるのでしょう・・・。
来週時点で,龍馬の命はあと6年なんですけど・・・。


(弥太郎くんに触れませんでした。長崎行きは史実でしょうが,江戸で昌平坂に学んだとか,安積昆斎に付いたというひと言が欲しかったです。それにしても,しょっちゅう龍馬と接触しますな・・・)
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龍馬伝-第9回「命の値段」

2010年02月28日 20時45分04秒 | 龍馬伝
番組中ずっと,17時50分の津波の警報区域を表示した地図が出ていました。


あっという間に江戸に戻った龍馬。
いきなり修羅場が待っていました・・・。
しかし,まともな役を見るのは初めてですが,かくも変かいっけい重太郎。
良い若旦那役なのですが,どうも違和感があります・・・。
で,妹を何としても龍馬とくっつけようと,良い人ぶりを発揮します・・・。
・・・で,修羅場から逃げ出す朴念仁の龍馬。
だから,加尾さんにあんなこと言うから・・・。


一方,武市さんは藩ぐるみの攘夷断行,という野望を持っていました。
江戸に来てもその過激さは変わりませんでした。
山本琢磨とは,龍馬の従兄弟に当たる沢辺琢磨のことですね。
当時は,山本数馬と名乗っていたと思われます。
あまりストーリーとは関係のないエピソードかな,とも思うのですが,龍馬と武市は果たして絡んでいたのでしょうか・・・。


しかし,龍馬の居場所はいっこうに分かりませんね。
土佐編でも,弥太郎が50km離れた高知城下にちょくちょく出現していましたが,江戸での龍馬は鍛冶橋の土佐藩邸に居るのか,桶町の千葉道場に寄宿しているのか,そのあたりがはっきりしません。
ただ,重太郎と飲んでいて,佐那に迫られて逃げ出したところを見ると,藩邸詰めということになるのでしょうか・・・。


各藩の攘夷派が集まるくだりは,ちょっと作り過ぎかと思いました。
安政3(1856)年時点では,日米修好通商条約に調印はしておらず,過激な攘夷思想が加熱するのは,もっと後と思うのですが・・・。
さらに,この時点では龍馬は勿論,武市も桂も江戸遊学の最大の目的は剣術修行だったのではないでしょうか。
江戸の三大道場は,神田お玉ヶ池・桶町の北辰一刀流千葉周作(この年1月に亡くなっているので龍馬は直接周作に習っていません)・定吉道場玄武館(塾頭;龍馬-但し安政5年以降),麹町の神道無念流斎藤弥九郎道場練兵館(塾頭:桂),アサリ河岸の鏡心明智流桃井春蔵道場士学館(塾頭:武市)ですから,この3人はどう考えても剣術修行に来ていたことになります。
おそらく,安政~万延年間に各藩の攘夷論者と交わっているうちに,武市は藩ぐるみの攘夷断行を考えるに至ったのではないでしょうか・・・。
ただ,そうした意味でも龍馬にとって,この第二期江戸遊学は意義のある時期だったと思われます。
剣術修行と刻々と変化する時勢,そして列強の進出・・・と,龍馬がいち早く攘夷の無意味さを悟るのは,日米修好通商条約調印のこの時期を江戸で過ごしたことが大きいのでは・・・と考えてしまいました・・・。


弥太郎くんは,獄舎で変な老人に商売の極意を聞かされていましたね。
天啓ということなのでしょうが,実際どんなもんでしょう。
作り話としたら面白いかもしれませんが,人間の指向・思考というものは,そんなふうに一瞬の出会いによって形成されるものかどうなのか疑問が残ります・・・。
蓬髪垢顔の弥太郎くんは,見事に周囲の囚人たちに融合していましたね。
一瞬,誰が弥太郎くんか分からなくなったくらいですから・・・。


私が不覚にも骨抜きにされた貫地谷しほり嬢は,今回残念なことに凛々しい稽古着姿ではなく,艶やかな島田が似合っていました。
・・・にしても,おたまで兄を叩くとは・・・。
うーん,でもあそこで逃げ出した龍馬は,やはり朴念仁ということでしょう・・・。
因みに家格が・・・ということですが,千葉道場を起こした周作は家は我が県北部の馬医者の子ということですから(近年は岩手県陸前高田市出身という説が有力らしい),高知城下の裕福な郷士である坂本家とはさほど家格が変わらないのでは・・・,と思ってしまいます。


あ,そうそう,北辰一刀流について突っ込みをひとつ。
本日珍しく打ち込み稽古の場面がありましたが,北辰一刀流では竹刀を構えた際に,どんな相手の動きにも対応できるよう,常に剣先を鶺鴒の尾の如く動かしていたそうです。
それがどうも描かれていませんでした。
ま,どうでも良いことですけど・・・。
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龍馬伝-第8回「弥太郎の涙」

2010年02月21日 19時20分46秒 | 龍馬伝
言ってしまえば,本来接点が無い筈の龍馬くんと弥太郎くんの友情物語でした。


弥太郎父(弥次郎)たこ殴りのシーンからスタート。
何で龍馬が関わるんだ・・・。
そして,江戸での弥太郎の生活ぶりが・・・と思ったら,ピエール溝渕に手紙を渡され・・・。
行進曲に乗せて,マッハで土佐に走る弥太郎。
30日かかるところを16日とはとんでもない韋駄天ぶりを披露。
で,奉行所に直訴して逆に投獄され,村を追放される・・・筈・・・。
なのに,何で龍馬と八平が出くわすんだ・・・。
以前も述べましたが,龍馬は高知城下本町筋,弥太郎は東に50km程行った安藝の出身なので,接点は有り得ません。
弥太郎の住居の設定が不明のまましょっちゅう接触するので(後で吉田東洋邸前で,安藝郡井ノ口村と言っていましたが),どうも違和感がありありです。
で,すっかり攘夷の暗黒面に陥ったダークサイド半平太に散々嫌みを言われる。
藩を利用してやる・・・とにやりとする半平太。
半平太は藩ぐるみの尊皇攘夷を断行すべく土佐勤王党を結成したのであり,藩主を初めとする組織そのものを否定したり潰したりするような意図は全く持ち合わせておらず,むしろ逆で,藩組織そのものを尊重していたのではないかと思われますので,どうもこの設定意図が分かりません。


で,龍馬は加尾に・・・。
をいをいどうするんだそんなこと言って・・・と思いましたが,考えてみたら龍馬と加尾の間に何かがあったとすれば,第一次江戸遊学を終えて土佐に帰ったこきの時期が一番しっくりくるのか・・・とも思い直しました・・・。
安政末年に加尾は三条家に伺候するので,龍馬よりも先に土佐を去ったことになるし・・・。
でも考えてみたら,確か平井家は上士じゃなかったでしょうか・・・。
そんな家のおひい様に手を出せるんか・・・。
しかも儒教道徳にがんじがらめのこの時代に,肩を並べて歩くなんて・・・。
有り得ない・・・と断言しましょう・・・。


で,龍馬と弥太郎は父の無罪を東洋に直訴します(これも有り得ない)。
弥太郎が東洋に引き立てられる接点を・・・ということなのでしょうが,傲岸不遜な東洋に一蹴される。
ようわからん・・・。
で,龍馬に喰ってかかる弥太郎。
捨て台詞を残してやけくそになって,雨の中去っていきます・・・。
で,安藝奉行所の門扉に落書きする弥太郎。
予想通りやってきた龍馬。
見えすぎるぞ展開・・・。
そんでもって,奉行所にあんなことしたら死罪じゃないのか・・・。


龍馬が江戸行きを渋っていたのは,弥太郎の一件なのか,それとも加尾のことなのか,よく分かりませんでした・・・。
で,今回龍馬と弥太郎は何回高知と安藝を往復したのでしょう・・・。
で,弥太郎投獄。
獄舎の中で随分元気だったようですが,命は奪われないと確信してのことでしょうか・・・。


次回はいよいよ江戸編第二部です。
佐那おねいさんが登場するので楽しみです(をい)。
で,半平太はこの時期一体誰を殺ろうというのでしょう・・・。
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龍馬伝-第7回「遙かなるヌーヨーカ」

2010年02月14日 21時36分30秒 | 龍馬伝
BS-Hiで見損ねたので,8時過ぎからビデオ回しました。
あっさり江戸編が終わって,第二土佐編の開始です。
帰国した龍馬を待っていたのは武市道場に集う過激な攘夷思想を持つ郷士たちでした・・・。
白皙の巨人で誠実な人格者といったイメージを勝手に私が持っていたのが悪いのでしょうが,どうもこの半平太は過激で暗すぎます・・・。


で,のっけから弥太郎くんは玉砕してしまいました・・・(泣)。
ま,弱冠20歳の失恋ですから,ありがちなことです・・・。
このあたりで,例の「弥太郎行進曲」が久々に全開!!!
で,間が悪いことにばったり龍馬と会って,吉原行ったか?と聞く。
朴念仁の龍馬にそんな話題が通じる筈もなく,河田小龍の元へ。
・・・で,弥太郎だけでなく半平太まで居るし,過激な郷士連中まで大勢居る・・・。
で,小龍の西洋文明論に憤激して皆席を立つ。
憤激したのは半平太も同様で,ついでに弥太郎が嫌みを言って挑発。
龍馬が止めに入るのを小龍先生は,にやにやして見守る・・・。
・・・で,裕福な坂本家にまでやって来る・・・。
春猪ちゃんと遊んでいる・・・と思いきや,突然倒れる父八平・・・。
何て忙しい展開なんだ・・・。


作中でも二条城の襖絵を修復したことと,中浜万次郎の取り調べに当たったことが語られていましたが,万次郎に聞いたことをもとに「漂巽記略」なる著書にまとめたということです。
西洋文明の先進性と米国のデモクラシーをこの時代に提唱した先見の明のあった人物として,龍馬に与えた影響は極めて大きいと思われます。
維新後は琵琶湖疎水工事記録画を残しており,絵師としても相当な人物だったということでしょう。


・・・で,その小龍先生は坂本家にすっかり居着いてしまったようです・・・。
「竜馬がゆく」では,気難しい偏屈な老人として描かれていたようですが,本作では先の見える開明的な人物として描かれています。
病床の父八平とあれこれ話しているうちに坂本家と龍馬を賛嘆し始める・・・。
そうしているうちに,一家で桂浜に出かける龍馬。
をいをい,父ちゃん大丈夫なのかよ・・・。
こうして見ていると,桂浜は高知城下から目と鼻の先に思われますが(私も子どもの頃「竜馬がゆく」を見ていてすぐ近くだと思っていました),城下から10kmはある筈です。
だから父ちゃんの寿命縮んだんじゃないか・・・。
ついでに弥太郎くんのおうちは現在の安芸市でしょうから,それこそ数十キロも東になります。
土電も無いご時世に,城下にやってくるのは不可能でしょう・・・。


・・・ということで,今回もあっという間の45分でした。
ストーリーがあまり動かず,前回・前々回よりはあっさりとした印象でしたが,やはり江戸編第二部が待たれます・・・。
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龍馬伝-第6回「松陰はどこだ?」

2010年02月07日 20時45分33秒 | 龍馬伝
前半は吉田松陰による下田踏海,後半が第一期江戸遊学終了が主な内容でした。
今回もあっという間に45分が過ぎてしまいました・・・。


先ずは,松陰の下田踏海に関して。
最初にことわっておきたいのですが,「松陰」は号であり(寛政三奇人の一人である高山彦九郎からとったらしい),名は寅次郎ですので,この時期はどうなんでしょうね。
果たして,松陰を名乗っていたのかどうか・・・。
で,桂にとって松陰は何の師匠だったでしょう??
このあたりは何も語られませんでしたが,松陰が桂や久坂,前原といった若者に尊攘思想を説いたのは,おそらく下田踏海に失敗して長州に送還されて野山獄に繋がれた後,松下村塾を継いでからのことではなかったでしょうか・・・。
当時松陰が藩から命じられていたのは,山鹿流兵学の啓蒙だった筈です。
ですから,後(文久年間)の長州藩暴発の引き金ともなった激烈な尊攘思想は,その後の数年で培われたのではないでしょうか・・・。
桂は実際黒船密航に希望したという話ですが,慰留されて思いとどまり,お咎め無しとなりました。
ですから,今回のように直接関わっていたら,間違いなく龍馬共々連座したことでしょう。
さらに,あの海岸がどこか説明されませんでしたが(番組終わりの「龍馬伝紀行」で初めて下田の二文字が明かされました),龍馬と小五郎は江戸からあっという間に下田に着いて(踊り子号より速いぞ),いとも簡単に松陰を見つけました。
本当にTVとは便利です。
しかし,松陰と共に黒船密航したのは金子重輔だけと思っていましたが,今一人町人が居たなんて初耳でした(出典は有るのでしょうか)。
それに,漕ぎ出しただけで終わってしまい,一体黒船に辿り着いたのかどうかは語られませんでした。
実際は漕ぎ着けて乗船したものの,条約締結を最優先したペリーとしては厄介者を抱えたくなかったので解放したのが真相だったことでしょう。
さらに桂に関して言及すると,このペリーの二度目の来航に関して,韮山代官所の江川太郎左衛門と共に視察をしていますので,今回のようなエピソードは断じて有り得ないことになります。
また,自首した松陰と金子の護送に唐丸駕籠が使われていましたが,あれって斬刑の決まった重罪人用ではないでしょうか・・・。
安政6(1859)年に江戸で斬刑に処された際に使用されたのではないでしょうか・・・。
だとしたら,松陰=唐丸駕籠というイメージが一人歩きしてしまったということになります・・・。
松陰を演じた生瀬勝久さんは,「ごくせん」の沢渡教頭のイメージが強かったせいか,どうも老けすぎの気がしました。
多分,私の脳裏に30年以上前の篠田三郎のイメージが有ったのでしょう・・・。


後半は,龍馬の遊学終了でした。
千葉道場に戻った龍馬ですが,遊学の期限が終了し江戸を去ることになります。
「こちらで剣を学んだ1年あまりの日々は・・・」
と,定吉大先生に挨拶しておりましたが,大きな矛盾にどれぐらいの方が気付いたでしょうか・・・。
時系列を追ってみると,嘉永6年4月に龍馬が江戸に着き,千葉門に入門。
その2ヶ月後にペリーが来航し,龍馬は道場を出奔。
翌年2月,ペリーが再び来航し江戸へ上陸。
3月に日米和親条約が締結され,ペリー艦隊は下田へ回航。
6月に龍馬は土佐へ帰国の途に就きます。
つまり2度のペリー来航の間,龍馬は千葉道場から出奔していた計算になります。
だから,あのままだと千葉道場で修行したのは実質5ヶ月となってしまいます・・・。
ちょっとなぁ・・・。


さて,土佐の弥太郎くんは,城下で半平太くんと出会います(今回はあの駕籠は背負っていませんでした。私塾の運営が軌道に乗ったのでしょうか・・・な訳ないか・・・)。
そこで,建白書が採用された半平太くんは不採用に終わった弥太郎くんに嫌みを言います。
誠実な人格者として知られた武市瑞山の姿は微塵もありません。
で,得意の絶頂にあった半平太くんは,参政吉田東洋にやり込められて,東洋を恨んで歯噛みしますが,暗殺事件が起こるのは8年先の文久2(1962)年ですので,土佐勤王党結成よりはるか以前のこの時期に伏線とするにはどうかな・・・と思います。
で,弥太郎くんに思わぬ話が・・・。
加尾さんの口利きで商人が出資???
藩費にせよ私費にせよ遊学には藩庁の許可が要るでしょうから,どんなものでしょう・・・。
因みに弥太郎は東洋の私塾に通っており,それによって後に東洋に登用される(洒落にもならん)訳でしょうから,江戸遊学も東洋の口利きだったのではないでしょうか・・・。
・・・で,加尾さん置いて江戸へ行くんか・・・と思ったら,いきなり告白しちゃいましたね・・・・・。
弥太郎敢え無く玉砕・・・と思いきや,カットか・・・。
で,今回も「弥太郎行進曲」は不発に終わります・・・。


・・・ということで,またしても無用な突っ込みをしてしまいましたが,楽しませていただきました。
ただ,どうも武市にせよ松陰にせよ谷原小五郎でさえもキャラが立っていない印象は否めません。
無茶苦茶な例えですが,「のだめ」や「ガンダム」が群像劇として面白いのは,各登場人物の個性がそれぞれ立っているからだと思います。
そろそろ,龍馬,弥太郎父子,千葉父子以外にもキャラが立つ場面がもう少し欲しい気がします・・・。
来週からは約2年に渡る第二期土佐編ですね。
父八平の死と絵師河田小龍との出会い,さらには弥太郎との再会もありそうですね。
貫地谷しほり嬢が出なくなると思われるのが残念ですが(今回はのっけからご登場でした・・・。しかし,龍馬にせよピエール溝渕にせよ,妙齢のおねいさんに「千葉の鬼小町」なんて言うか・・・),第二期江戸遊学安政編を心待ちにしようと思います。
実際は無かったと言われる安政庶流試合の場面は描かれるのでしょうか・・・。
龍馬と小五郎,ついでに半平太が実際に立ち会うというシチュエーションは,確かに極めて魅力的だと思うのですが・・・。
つまり安政年間まで,龍馬も小五郎も半平太も一回の剣客であったということなのでしょう・・・。
(しかし,谷原小五郎が黒船??の模型を制作していました・・・。結構精巧でしたが,小五郎は私同様の趣味が・・・???)
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龍馬伝-第5回「黒船と剣」

2010年01月31日 20時17分09秒 | 龍馬伝
ペリー来航ですが,あっという間に終わってしまいましたね。
前回前々回と黒船のシーンを結構引っ張ったので,品川~浦賀の防御陣地を舞台に,いろいろと有るかと期待したのですが・・・。


実際のところ,ペリー来航は確かに一大エポックでしたが,初めて鎖国をしている我が国にやってきたのがペリーではないことは,高校の日本史の教科書にも載っています。
1792年にロシアのラックスマンが根室にやってきたことはよく知られていますが,文化5(1808)年には英国軍艦フェートン号が長崎港に強行侵入(オランダ国旗を掲げて侵入)。1825(文政8)年にはそれを受けて異国船打払令(無二念打払令)が出されていますし,1837年(天保8)年には米艦(但し非武装)モリソン号を浦賀砲台が砲撃するというモリソン号事件が勃発(幕府の対外政策を批判した高野長英や渡辺崋山が捕縛された所謂蛮社の獄が有った)。
さらにはその5年後,その反省と圧力から幕府は天保の薪水給与令を発令。
難船に限っての給与を認めました。
こうした背景には,勿論近海に頻繁に出没する異国船の情報もありましたが,何よりも保守的で閉鎖的に見える幕府が,しっかりとアヘン戦争と南京条約の情報をつかんでいたということが大きかったと思われます。
ですから,ペリーの2度目の来航やハリスの来航を受けて,日米和親条約・日米修好通商条約に踏み切ったというのも単なる阿部正弘や井伊直弼の独断ではないと思われます。
このあたりが,後に倒幕の原動力となった所謂雄藩が攘夷の不可能を悟り開国へ転じたことへの伏線となっているのかもしれません・・・。


但し,ペリー来航に際して幕府も諸藩も大混乱となり,今日語られたように戦国時代以来の鎧を持ち出したり,釣鐘を大筒に見立てた楠木流軍学をやったりしたのは事実でしょう。
多分龍馬のように甲冑を持たない諸藩の下級武士は,撃剣の胴を付けたと考えるのが普通では,と思われます。
ですから,そのあたりをもっと丹念に追い,黒船体験が龍馬の将来に与えた影響の大きさを醸出させるような演出が欲しかったような気もします・・・。
異国船を見に行って桂と出会う,という設定は,やはり「竜馬がゆく」の影響でしょうか・・・。
その黒船ですが,サスケハナを旗艦にミシシッピ,サラトガ(WWIIの空母は何代目?),プリマスの4艦から編成されておりましたので,ペリー艦隊という程の規模ではなかったということになりますが,当時の日本人はその巨大さと機関が上げる黒煙に度肝を抜かれたことでしょう。
尤も,当時の狂歌である,

「太平の眠りをさます上喜撰 たった四はいで夜も寝られず」

に有るように4隻とも蒸気船(外輪式のフリゲート艦)ではなく,機関を積んでいたのはサスケハナ(下田と芦ノ湖に同名の遊覧船が有ったような)とミシシッピだけで,サラトガとプリマスは風帆船であったことは意外に知られていません。


谷原小五郎は,怜悧な感じがなく至極喜怒哀楽がはっきりしており,親しみやすいキャラとなっていたようですが,果たして桂らしいかどうか,今後を見守りたいと思います。
因みに,意外に知られていませんが桂は医家の生まれです。
確か旧姓を和田と云い,向かいの桂家の末期養子に入り桂姓を名乗った筈です。
和田氏は藩祖とも言うべき毛利元就の系流ということですし,桂家は毛利元就の家臣に桂広澄という武将が居たと記憶しているので(毛利の同族らしい),それと関係しているらしいです・・・(藩閥内閣の代表のように云われる桂太郎も同様)。
桂の江戸遊学は,龍馬の1年前です。
やがて神道無念流斎藤弥九郎道場(練兵館)の塾頭を務め,この時代は剣豪として名を成したとも言って良いかもしれません・・・。
それに,長州人である桂は激烈な攘夷論者であると思うのですが,来週の内容である吉田松陰の下田黒船密航を希望していたという話も有りますので,意外な開明論者でもあり後の長州藩論転換に一役買ったのかもしれません・・・。


さて,黒船ショックにより,龍馬は剣術修行に対して懐疑的になってしまいました。
ついついおねいさんにそれを洩らしてしまい,父や兄には決して言わぬよう,と釘を刺されますが,大先生である定吉老人は龍馬の迷いを見抜き,立ち会って容赦なく打ち据えます(僅か二ヶ月では大先生には勝てる筈ありません)。
で,破門されてしまった・・・???
佐那おねいさんの出番は前回より減りましたが(泣),やはり丸髷+小袖姿より白の羽織に紺袴という稽古着姿の方が萌えます,もとい凜としていて似合いますね。
で,惚れたな,と決めつける兄渡辺重太郎(きんつばが好物だったのか・・・)。
龍馬なら申し分ない・・・とは,何ていい人なんだ・・・というか,僅か二ヶ月では龍馬の剣技はとても千葉門では通用しないのでは・・・。


・・・で,土佐の弥太郎くんは相変わらずの生活をしておりました(否,加尾さんが来ただけ幸せか?)。
父ちゃんは相変わらずの穀潰しだし,藩に上申書を書いていたようですが採り上げられる筈もなく,藩主の豊信に採用されたのは,どう見ても土佐勤王党の首魁にして誠実な人格者には見えず,収二郎や以蔵に亀弥太その他に埋没している半平太くんの案でした・・・って,ご老公と後に呼ばれたとはいえ現役の藩主で,27歳の豊信に近藤さん・・・,そして参政抜擢の吉田東洋さんは38歳でした。
うーん,悪いけど舞踏家の田中泯さん(見たのは「たそがれ清兵衛」以来),風格有るし恰好良いですが,ちょっと老けすぎでは・・・。


・・・と,またしても突っ込み+余計なことをぐだぐだと書いてしまいましたが(殆ど病気だ) ,今週も45分間あっという間に過ぎてしまいました。
前作と相違して概ね評判の宜しいこの「龍馬伝」ですが,やはりついつい無駄な突っ込みを入れながら見るという私のスタンスに変化は無いようです。
ま,面白いから良いのですけど・・・。
来週は,松陰の黒船密航未遂事件(下田踏海とかいうらしい)のようですね。
龍馬も20歳になります。
・・・で,松陰に龍馬が殴られていた・・・???
関わっただけで重罪で,下手すりゃ小塚原行きでは・・・。
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龍馬伝-第4回「江戸の鬼小町」

2010年01月24日 21時15分56秒 | 龍馬伝
いよいよ「江戸編」のスタートとなりました。
龍馬の人生を俯瞰すると,その功績は慶応年間の3年間に集約されている訳ですが,嘉永6(1853)年から元治元(1864)年という少なからぬ年数を過ごした(勿論その間に土佐に帰ったり脱藩したり神戸海軍塾の塾頭を務めたり,勝と長崎に行ったりしていましたが)江戸での生活は,その生涯の中でも最も明るく活気に満ちた時期ではなかったでしょうか・・・。


当時江戸と土佐は片道30日と言われましたが,TVは便利です。
先週,弥太郎を讃岐(仁尾?)か阿波(鳴門?)の何処かに置いて江戸に向かった龍馬と溝渕ですが,一週間で着いてしまいましたね。
途中大坂や京を見たり,東海道筋で冨士を見たり(「篤姫」にそんな場面がありました)・・・といった余計なエピソードは無く,あっさり江戸入りとなってしまいました。
・・・で,この2人はどこに居を構えたのでしょう・・・???
そのあたりが全く触れられませんでした。
おそらく土佐藩邸に寄宿したと思われますが,もしかすると道場に直接住んだ・・・というのも有りかもしれません。


土佐編のヒロインが加尾なら,「江戸編」は何と言っても千葉の鬼小町と言われた道場主定吉の長女佐那です。
龍馬の生涯を彩る3人のヒロインのうち,個人的に最も魅力的なのは何と言ってもこの佐那ですので(笑),ついつい期待してしまいますが,配役発表の際,貫地谷しほり嬢と知って???と思ってしまいました。
どうしても「風林火山」のおみつのイメージが有ったからでしょう・・・。
しかし,本日実際に見てみると凛然とした節度だった美しさが感じられ,嬉しいことに???が杞憂に終わりました。
これで来週が楽しみになります・・・(をい・・・)。


只,相変わらず話の展開には無理があったように思われました。
北辰一刀流千葉道場-つまり玄武館は,当時神田於玉ヶ池にあった千葉周作(我が県出身なのに殆ど知られていない・・・)の道場に対して,周作弟で龍馬の師となった定吉の道場は桶町にあり,周作の道場と区別して小千葉道場と呼ばれました。
龍馬が,入門した嘉永6年当時,定吉は鳥取藩の剣術師範として江戸屋敷詰となっていたので,龍馬と立ち会ったのは息子の重太郎だったことになります(後に重太郎も鳥取藩に仕官します)。
ですから,最初に佐那と立ち会わせて龍馬が負けたという展開は良いと思うのですが,どうもこの龍馬は達観しているのか,女に負けた・・・という悔しさを微塵も持っていないようです・・・。
或いは,土佐の田舎剣法と江戸の大流儀との相違をまざまざと見せつけられて,どん底に叩き込まれるぐらいの描写があっても良かったのでは,と思いました。
実際,千葉道場の稽古の凄まじさは相当なものであったようで,千葉周作の長男と次男が夭折したのは,あまりに激しい稽古のため,という話を聞いたことがあります。
最初に龍馬と立ち会った佐那の激しい竹刀裁きにその片鱗を見ることができましたが(代役だったのでしょうか),その後定吉が佐那に対して
「お前は龍馬に勝てん」
といったことを言った必然性が,私には理解できませんでした。
だって,現時点で龍馬の一敗ですよ。
今一度立ち会って龍馬に圧倒されたなら分かりますけど・・・。
それに龍馬の入門は嘉永6年の4月でしょうから,6月のペリー来航前ということは二ヶ月しかたっていません。
その間龍馬の剣技が飛躍的に向上したとしても,その描写は有りませんでした。
女子どもに稽古を付けて,何故か太鼓を打っていましたが・・・。
因みに,龍馬が北辰一刀流の免許を貰ったのは,その5年後になります。


さて,どう考えても偽手形で打ち首の筈の弥太郎は無事本国に帰り,相変わらずの暮らしをしておりました。
で,半平太と遭って散々毒づいておりましたね。
半平太と弥太郎の接点はどの程度だったのか分かりませんが,地下浪人と藩士の差は歴然としていたでしょうから,タメ口は勿論毒づいたりしたら切り捨て御免ではないでしょうか・・・。
さらに述べるならば,半平太は郷士とはいえ上士同様日傘を差すことを許された「白札」なる階級でした(このあたりに全く本編では触れられていませんが)。
ですから,今回のようなことは有り得ないと思います。
尤も半平太は土佐勤王党の首魁として人望のあった人格者ですから,鷹揚で偉ぶったりはしなかったことでしょうが・・・。
半平太の私塾には,後の土佐勤王党の面々が集っていました。
以蔵にも学問を教えてやるという半平太ですが,どうも私には魅力的な人物に映りません。
後に池田屋で命を落とす望月亀弥太も居るようなのですが,どこに居るのか分かりませんでした・・・。
どうもこのように各々のキャラが立ってこないきらいがある,と思うのは私だけでしょうか。
龍馬,弥太郎,弥太郎父,加尾以外の土佐者は何か埋没しています・・・。
・・・で,弥太郎が半平太に対抗して私塾を開く・・・。
このあたりで既に???なのに,訪ねて来た加尾(もう出番は無いと思ったのに)。
で,
「私に学問を・・・」(絶句)
そんでもって,
「これは夢じゃあ~」
と喜ぶ弥太郎。
波がどっぱーん・・・・・・(抱腹絶倒)


いや,面白かったです。
あっと言う間の45分でした。
かなりの突っ込みどころ満載でしたが・・・。
弥太郎に関して少し付け加えると,実は幼少時に既に文才は相当なものだったらしく,14歳で当時の藩主の前で漢詩を披露したと言われています。
ですから,間違っても裕福ではなかったにせよ果たして鳥籠を売り歩いていたという設定はどんなものかと思います。
江戸に出たのは龍馬より遅く確か安政年間で,昌平黌の安積艮斎に付いたということですので(今なら東大教授に付いたことに),相当な才能・・・ということになりそうです・・・。


千葉重太郎役の渡辺いっけいは,変な役をやらせたらピカイチと思ってきましたが(女房の尻に敷かれる駄目夫,女子高生と援助交際する危ない中年・・・),こんなまともな役柄は初めて見ました。
ちょっと年がいきすぎている感もありますが・・・(どうも千葉重太郎というと,明朗な好青年で江戸っ子というイメージが有るので・・・)
ダークサイドに陥った今川義元とマザコン駄目夫を同時期に好演していた谷原章介の桂はどうなんでしょうね・・・。
怜悧なイケメンというイメージの桂ですが,後年祇園の芸者だった幾松といい仲になっただけあって,朴念仁ではなかったということでしょう・・・。
それにしては,ちくと(土佐弁)饒舌に過ぎるような気もしましたが・・・。
饒舌と言えば,龍馬もこの時点ではあっちのことを知らない割に,佐那に対しては妙に饒舌でしたね。
父の訓辞を守って女色にふけらず・・・と,おねいさんの前で言ったらどん引きされるでしょうけど・・・。


・・・ということで,ぺりーがやってきました。
道着のまま飛び出した龍馬は,来週そのまま浦賀に行くのでしょうか・・・。
江戸から浦賀までは17里は有りますので,一度藩邸から招集がかかって武装して・・・ということになるのでしょうか・・・。
楠木流軍学-大筒に見せかける釣り鐘の話は出てくるのかどうか・・・。
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