koshiのお部屋2

万年三歳児koshiの駄文のコーナーです。

龍馬伝-第21回「故郷の友よ」

2010年05月24日 20時30分42秒 | 龍馬伝

遂に容堂が牙を剥き,武市半平太が捕縛された一幕でした。
半平太と愛妻富の切なさが伝わる内容でしたね。
子は無かった夫婦でしたが,誰よりも夫婦仲が良かったと伝わっています・・・。
補吏も無粋な・・・というか残酷な・・・と思いましたが,藩の役人とは大殿の命令は絶対ということでしょうから,ああなってしまうのでしょうか・・・。
ただ,半平太は上士格でしょうから,出頭命令が来て自ら出向いたのが正しいのではないかと想像されます。
いずれにしても従容としていたのは事実でしょうし,獄のあったとされる南会所の獄吏が勤王党に同情的で,家族や勤王党の面々との連絡を取ることはできたということですが・・・。


半平太の捕縛が文久3(1863)年9月。
長州藩が京都での勢力を失った八月十八日の政変,そして瓦解した天誅組の変の直後になります。
平井収二郎ら上士3人が切腹をしてから数ヶ月,京都の長州政権瓦解と共に牙を剥いた容堂は,本当にとんでもないと思います・・・。
そして捕縛に当たった吉田東洋縁故の後藤象二郎や乾退助が維新後まで生き残ったのも歴史の皮肉かもしれません・・・。
また,薩会同盟と天誅組の暴発に関して何も無かったのも説明不足と思います。
あれだと朝廷内の政争で長州系の公卿が失脚したことのみが原因となり,薩摩・会津への長州の恨みの伏線としては弱い気がしました。


以蔵の捕縛は翌元治元(1864)年4月になります。
武市捕縛後,半年以上何処で何をしていたのか不明です・・・。
次回は以蔵捕縛が中心になるのでしょうか・・・。
翔鶴丸での品川出航が文久3年暮れですから,その日にあったとされる「片袖」事件は描かれるのでしょうか・・・。
そう言えば,同年春~夏と思われるおりょうとの出会いもまだ無い・・・。
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2 コメント

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初めまして! (桔梗)
2010-05-27 11:37:21
歴史は幕末が好きで「龍馬伝」楽しく&興味深く見ています。

でも好きといっても特別その時代を勉強したり資料を調べていたわけではないので、今回見て、ふ~んそうだったんだ、とか、本当にこんなことがあったんだろうか?・・と思うこともしばしば・・。 (突っ込み多し。 笑)
いろいろ知りたくてあちこちのブログを見ているうちに、私の疑問に答えてくださっていたり、同じ感想をもたれていることに共感しておじゃましちゃいました。

3月には高知に行き、4月には2度京都に行って、龍馬さんのお墓参りをしてきました。
近くの霊山歴史館にも・・。
今回「龍馬を切った刀」が展示されてました。
高瀬川沿いの木屋町巡り、 龍馬をかくまっていた「酢屋」、そのあと「近江屋」に移ったとか・・。

在住の神戸にも龍馬の情熱をかけた海軍操練所があったんですね。
熱い思いでやっとできた操練所がなぜあんなに短期間に閉鎖になったのかこれまで疑問に思ってましたが、それも今回を機会にわかってきました。
インターネットはありがたい。(笑)

以蔵がなぜ勝の用心棒になったのかも、ほんとのところよくわかりません。
またいろいろ教えてくださいね。



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お出でくださいまして,ありがとうございます (koshi)
2010-05-30 21:29:12
桔梗さん,今晩は,そして初めまして。
せっかくお出でいただいたのにレスが遅くて大変失礼しました。
歴史がお好きということで,あちこちを旅されておられる様子,羨ましい限りです。
私も,若い頃はよくそうしてあちこち出歩きました。
東山の高台にある墓地にもいらっしゃったのですね。
私も随分前に行きました。
龍馬と中岡の像も見ましたし,八坂の塔から清水寺に至るあの界隈は,私が京洛で好きなところの一つですので,上洛する度に訪れるようにしています・・・。
高瀬川沿いの木屋町や先斗町界隈も風情がありますね。
武市半平太の寓居も付近にありました。
土佐はいかがでした?
坂本龍馬歴史館が随分立派になったようです。
私が行ったのは10年以上前ですが,町自体が鏡川に囲まれたまさに「河内」といった感じでした(藩祖山内一豊が河内を高知とした)。
神戸にご在住とはこれまた羨ましい限りです。
神戸海軍塾の跡には行かれました?
もしブログ等のコミュニティをお持ちでしたら,そちらで語っていただけると有りがたいです。
・・・で,本日も第22回の感想をアップしましたので,お読みいただけると幸甚でございます・・・。
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