koshiのお部屋2

万年三歳児koshiの駄文のコーナーです。

真田丸-第1回「船出」

2016年01月10日 21時54分45秒 | TV&エンターティメント

18時から録画し,19時からビデオを回して見ました。
30年前の1986(昭和61)年1月は,まさにNHKの当時の水曜時代劇「真田太平記」が佳境を迎えていました。
そして,真田の由縁の地である上田や別所温泉,松代を訪れたのは,その翌月になります。その帰途,中央本線の急行アルプス車内から岩殿城跡がよく見えました(大月駅)。
当時の地名で言えば,甲州巨摩(こま)郡から信州諏訪郡・佐久郡,そして真田一族が蟠踞した小県(ちいさがた)郡の風物が好きで,若い頃は幾度となく上記中央線や信越線沿線を見て回ったことがあります。


そうした中で,「真田太平記」の原作(文庫本で全14巻)を読んだのは,昭和の終わりの頃でした。
脇の知識が極めて豊富で,独自の史観を以て語られる司馬遼太郎の歴史小説とは異なり,池波正太郎のライフワークとも言うべき「真田太平記」は,正統派の歴史小説とでも位置づけるべきでしょうか。
天正10(1582)年春の武田氏滅亡と,それから僅か三ヶ月後の本能寺の変に始まり,40年後の真田伊豆守信之の信州松代移封までの真田一族の激動の軌跡が,鮮やかに描かれており,一瞬たりとも弛緩する場面が無く,月2回新潮社から刊行される新刊が楽しみで,七ヶ月掛けて全14冊を読み切った記憶が有ります。
そのTV版で真田安房守昌幸を演じたのが,先年惜しくも亡くなられた丹波哲郎で,役作りのために,何十回も原作を読んだということでした。
重厚にして大胆な用兵をし,抜け目がないようでいて女に甘い・・・という原作通りの昌幸像を見事に作り上げていたと思います。
そして兄信之(初名信幸)役を演じていたのが渡瀬恒彦で,弟の幸村は何と,本日昌幸を演じていた草刈正雄でした。
水曜日に胸をときめかせて,夢中になって見たあの頃から30年もの年月が経ったことを痛感せざるを得ません・・・。
ですので,ぼそぼそとした喋りは,間違い無く丹波のおじさまを意識してのものでしょうし,丹波昌幸が作中で思案する際に胡桃を握ってごりごりさそせていたので,本日も草刈昌幸の傍に胡桃が置いてあったのを見て,思わずにんまりとしてしまいました。
三谷幸喜独自の遊び心だったのかも知れません・・・。


・・・ということで,私の目の前には「真田太平記」の文庫本と,DVDBoxが有りますので,如何に三谷幸喜が,30年に亘って続いている私の呪縛を解き放ってくれるかが,個人的には最大の課題となります。
しかも,大河ファンの方には,大変申し訳ないのですが,ここ数年大河ドラマは悉く外しておりまして,「江」は8月,「清盛」は3月,「八重の桜」は6月,「官兵衛」は3月,そして昨年の「花燃ゆ」に到っては2月に視聴を断念してきたという経緯があります。
その前の「天地人」と「龍馬伝」は,コンプリートしましたが,半分意地と惰性で見たきらいは否めず,どうも09~11年にかけてNHKが威信をかけて完成した「坂の上の雲」にすべてエキスを吸い取られたのではないか・・・とすら勘ぐってきました。
故に,毎年この時期は,どうか重厚にして史実に忠実な骨太な歴史ドラマを見せてくれ・・・という願いでいっぱいになります。
ですから,もしかすると今後この「真田丸」について書くとすれば,大河ドラマを毎週楽しみにしている方や,堺雅人や大泉洋のファンの方々にとっては,甚だ不愉快なものとなる可能性が大です。
ま,以前も,「天地人」や「龍馬伝」に対してぼろくそ書いたら,茶化した物言いは止めませんか,とか,あんな素晴らしい歴史考証(どこが素晴らしいのか聞きたいくらいですが)を誹謗するとは実に怪しからんとか,貴重な反論をいただいたことがあるのですが,
ま,素人の私が書くことですから,そのあたりは
「また書いてやがる。しょーもねーなー」
と,笑って看過していただけると幸いでございます・・・。


・・・ということで,本編について(前振り長すぎ)です。
風雲告げる天正10年2月,木曽谷を押さえる武田方の地方大名木曽義昌(自称木曾義仲子孫)が織田方に寝返ったところから始まります。
舞台は信州諏訪郡上原城(茅野市上原)。
織田・徳川連合軍による甲州侵攻作戦は,伊那口,木曽口,駿河口から始まったと考えられます。
真っ先に綻びたのは,上記木曽義昌の裏切りによる木曽口で,義昌の裏切りに怒った武田勝頼は1万の大軍(大将は勝頼従兄弟の信豊)を差し向けましたが,鳥居峠の戦いで惨敗。その辺りを,もう少しきちんと語って欲しかったですし,信濃の小笠原が裏切ったというのは,明らかに考証不足です。
信濃守護職の末裔である小笠原氏の当主長時は,天文17(1548)年の塩尻峠の戦いで勝頼の父武田晴信(信玄)に敗れて没落し,所領を失って上方の三好長慶や越後の上杉謙信を頼って亡命状態にあり,この時期は既に織田家に使えていた筈です(前年天正9年の京都御馬揃えにも出ています)。
或いは,客将として蘆名盛氏に仕えていたことも考えられますので,信濃にいて武田に反旗を翻したとは思われません。
あと,上原城に,果たして穴山梅雪(信君)は居たのでしょうか・・・。
梅雪は駿河江尻城主ですので,言わば対徳川,対北条の最前線です。
動ける筈もなく,また,裏切って徳川軍を駿河口から手引きした訳ですから,木曽義昌討伐には動員されていないと思われます。
梅雪にせよ,小山田信茂にせよ,後で裏切る訳ですから,出しておいた方がわかり易いということでしょうか・・・。
そして,「真田太平記」の序章の舞台となった伊那口の高遠城攻防について触れられていないのは,全くの片手落ちと言うべきでしょう。
武田勝頼の凋落に拍車を掛けた大きな原因となった訳ですから・・・。
信玄の末子,仁科五郎盛信の壮絶な戦いぶりと最期は,きちんと語られるべきと思いました。


信幸・信繁兄弟(と,姉の村松殿)を別にすれば,役者さんたちはさすがに上手かったと思います。
特に勝頼役の平岳大さんは,さすが大河で主役を張った父の薫陶宜しく,髷と甲冑姿が凄く似合いましたし,高嶋政伸の北条も,莫迦殿ぶりに期待が持てそうです。
内野聖陽の家康が爪を噛んだのは,「影武者徳川家康」の影響でしょうか(実際,そういう癖があったということらしいですが)。
う~ん,1回見ただけで評価をするのは,いささか早計に過ぎますし,まだまだ今後に期待すべきなのでしょうけど,どうかな・・・。
武田氏が滅亡した当時の,真田家の武田氏内部での立ち位置がどうであったか,果たして跡部勝資が言ったように,仕えて日が浅いのか,その辺りは,真田氏がどうして武田家に仕えるようになったのか,その経緯を語らなくてはなりません。
それこそ,9年前の「風林火山」の時代について述べなければなりませんので,次回語ることができれば・・・と思います。
ワープロ2ページ半程,キーを叩いてしまいましたので,今宵はこれまでにしたいと思います・・・。


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1 コメント

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お久しぶりです! (小袖)
2016-01-13 00:06:44
本当にご無沙汰して申し訳ありませんm(__)m
なかなかPCに向かう事が出来ず時々は読ませて頂いてましたがコメントできなかったのです。
昨年の奈良の旅行もコメントしたかったのですが、そのうちと思いながら日々が過ぎてゆきました。

そして、今日PCで久しぶりに仕事をした後、何気なくkoshiさんのページを開いたら真田丸の感想があまりにも素晴らしくて、出てきてしまいました(笑)

お父上真田昌幸が草刈正雄だったのには私もにんまりしました。

ストーリーは本当におっしゃる通りで、いきなり武田が滅亡しちゃったよ!と思ってしまいました。
真田に関しては、忘れてる部分が多いので、ここで勉強させて貰います(^^)

私も最近の大河は途中で見なくなってしまうので、今回は期待してたのですが、どうでしょうね?
私がブログ再開して感想を続けたいと思うようなドラマにして頂きたいです(笑)

また来ますのでよろしくお願いしますm(__)m
ちなみにTwitterで一字違う名前でフォローしているのは私です!
あまり活動してないですけど・・・
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