沖縄での一人暮らし

延べ8年間、沖縄で一人暮らしをしました。歴史・自然・文化を伝えます。

北海道開拓の村

2024-07-31 | 国内旅行

「北海道の旅」の最終日です。

【北海道開拓の村】

明治~昭和初期の北海道開拓時代に建設された建物を、この土地に移築・復元したもの。

北海道百年記念事業として1983年にできた野外博物館です。初めて来ました。

【馬車鉄道】

動力の馬くんです。1日に270mを13往復してます。休憩時間かな。


こちらが客車。

【札幌停車場】
村の入口の管理棟。65歳以上は入園無料。うれしいね。

【旧小樽新聞社】

新聞を読むと、当時の様子がわかる。

【開拓使工業局庁舎】

道路・庁舎・学校の建設、機械・農具、車両製造など、北海道に必要なものを作った。
ビヤ樽だね。開拓使物産局醸造ビールまで造るとは、すごくない?
この商標。どこかで見たような。
サッポロビールの由来を調べると「1886年(明治19年)に官立醸造所の払い下げを受け、翌年、渋沢栄一らが札幌麦酒株式会社を設立し、製造販売を行う。」
この写真の2年後に渋沢栄一らに払い下げられたんだね。

【青山家漁家住宅】
小樽沿岸でニシン建て網を経営した漁家。小樽に旧青山別邸があったね。
ボランティアが詳しく説明してくれて嬉しい。

この模型で、初めてニシン漁がわかった。
沖(右側)から来るニシンは、1ヶ統(長さ60m、幅20m)の建網で仕切られて、左側の四角いかご網に入る。隣のかご網には移動できないため、自分の統に入れば大もうけ。
なかにし礼の兄の正一は、実家を担保に入れて得た30万円で増毛のニシン漁の1ヶ統を3日間だけ借りた。
ニシンが一回入れば100万円、3日間入れば300万円になると夢見て。
鰊番屋
小平町の花田家(5ヶ統で200人)が大きかったね。小樽総合博物館運河館の屏風絵にあった。

広すぎて、回りきれないので、引き返します。
【旧大石三省堂支店】
本屋かと思ったら、お菓子屋だった。1955年まで帯広で営業を続けた母屋と工場。

【武岡商店】
米穀、雑貨、荒物などを扱ったと。人形風景は質屋みたいな印象だけど。

【武井商店酒造部】
清酒「松の露」「玉の川」を造っていたと。

【三河本そば屋】
」は「ます」と読むそうだ。「豆腐あり」とか使われたらしい。
入園無料だったので、お土産を買いました。
『尋常小学修身書 巻一』
明治43年から大正6年まで使用された児童用の国定教科書
巻一は絵が中心で、途中からカタカナが出てくる。小学校一年生かな。
何を学んだのかというと、次の25項目。
「よく学びよく遊べ。時刻を守れ。勉強せよ。友達は助けあえ。けんかをするな。元気よくあれ。体を大切にせよ。行儀良くせよ。整頓。モノを粗末に扱うな。親の恩。親を大切にせよ。親の言いつけを守れ。兄弟仲良くせよ。家庭の楽しみ。天皇陛下。忠義。過ちを隠すな。嘘を言うな。自分の物と人の物。近所の人。思いやり。生き物を苦しめるな。人に迷惑をかけるな。良い子供。」
(左)24「人に迷惑をかけるな」 右23「生き物を苦しめるな」 
大事なことだね。

エスコンフィールド

2024-07-29 | 国内旅行

富良野から札幌まで約2時間、100km。

途中で、三笠高校生レストランに立ち寄ってスイーツを購入。

札幌のホテルに予定通り14時に到着。車を預け、地下鉄に乗り、JRで北広島へ。

北広島駅からシャトルバスでエスコンフィールドに到着。

飲食物を持ち込んでいないか簡単な手荷物検査があって、入場。
札幌ドームは、球場手前のスーパーで弁当買って持ち込む人が結構いたけど、それはないね。
建物内には、お手頃価格で魅力的な食べ物屋さんがたくさん。
日本初の開閉式屋根付き天然芝球場場内を一回りすると、大きな壁画がありました。
ファイターズが育て、今やMLBで活躍する二人。
高さ70mのガラスの壁。センター奥は天然芝が育つよう光がよく入るようになっています。
ドーム球場ですが、試合のない日は屋根を開放できる仕組み(国内では2箇所目)です。
バックネット裏。どの席からでも、見やすい。収容人数は3万5,000人。掘り込み式のフィールドから地上4階まで観客席。
アメリカの設計事務所がデザインしたので、足下も広い。
ネットで予約しましたが、直ぐに売り切れるようです。ここは2階席です。
シート選択の際、グラウンドの見え方が表示されており凄い。
映像と音響がすごいよね。
映像は、幅86m高さ16mの世界最大級のLEDビジョンが、一塁側と三塁側に2つもある。
両軍の選手の情報、試合経過など反対側からでもよく見える。

応援に駆けつけたチアガールも、大きな画面に映し出される。臨場感あるね。
400台のスピーカーが迫力ある音響で、空き時間でもお客さんを全く退屈させない。

こちらは、熱心に応援するお客さんをカメラが抜いているところ。
面白いパフォーマンスは最後にプレゼントが貰えるので、応援にも熱が入る。

他球場とは何が違うのか調べと、エスコンフィールドでは「映像・照明・音響を一元的に制御するシステムがあり、場内約600台のデジタルサイネージにリアルタイムに映像を映し出し、照明・音響と連動したエンターテインメント性の高い観戦体験を提供する。ホームランやファインプレーの際にも迅速に再現できる」ようだ。

さらに、今年6月末から、全長約180mのLEDビジョンが、1塁と3塁内野席(3階)に登場。
大型ビジョンの映像と連動したコンテンツや、インプレー中は選手情報や他球場情報などが表示される。
試合開始前の新庄監督。目立ってます。
ソフトバンクのステュアート・ジュニアが凄すぎて、ファイターズがなかなか打てない。
ファイターズに10年活躍した近藤健介選手のホームランを見れて、良かった。
エアコンも効いていて快適です。

こちらは人気のキツネダンス。
ビールの売り子スタッフも球場を盛り上げるアイドルなんですね。
応援して楽しんで、7回まで見て、シャトルバスに乗ってホテルに戻りました。

シャトルバスから駅に向かう際、予感がして、地元の老夫婦の後を必死に小走りでついて行くと、何とホーム直通エレベーターで始発に滑り込むことが出来ました。

お爺さん北広島駅でスイカはねられてたけど突破しました。大胆な。
札幌では突破出来ず、駅員さんが飛んで来ました。楽しかったです。

旭山動物園と富良野

2024-07-26 | 国内旅行

稚内から240km走って旭川に着きました。今回の旅は1日200kmくらい走るのが平均なので、半日で240km走ったのは少し疲れました。

【旭山動物園】

水中のカバさんを見て、疲れが直ぐに取れました。

こっちに向かってくる-。


横を向いた-。

巨体だけど、水中ではピョーンと身軽だ。

短い後ろ脚。使わずに移動してる。
陸上にいるカバの姿からは全く想像できない、飼育員だけが知る動きを来園者に見せるのが旭山動物園。

あざらし君とご婦人。
ペンギン君たち。
今、清掃中なので、大人しく待機中です。

陸上ではヨチヨチ歩きだけど、水中では空飛ぶペンギンになる。

こぢんまりした動物園で、説明ボードも手書き。でも見応え十分でした。
 
【展望花畑 四季彩(しきさい)の丘】 
美瑛(びえい)町にある。アイヌ語で「ピ・イェ」(油のある所)から来ている。
なだらかな丘と樹林、農作物の黄色や緑がパッチワークを作る景色が美しい。
正面は富良野岳、雲に隠れた十勝岳。10月~6月は入園無料。
 
ナデシコです。これからどんどん成長し、お盆の頃が圧巻だとか。

花菱草(カルフォルニアポピー)
植え付けています。腰が疲れそうです。大変だね。

ペチュニアだね。
これを大きくしていくって、水やり、施肥、雑草取りなど管理が大変だ。


コレを考えた人は偉いね。遠くの農作物とスケール感が繋がってるね。
北海道の風景が、ここで花畑に変わる。

ラベンダーです。

【ホテルナトゥールヴァルト富良野】
50品目食べ放題に飲み放題。焼き肉、ホタテ・カニ海鮮焼き。胃袋が二つほしいー。

食後は談話室でコーヒーを。スキー場のロッジだね。
ゲレンデに面した、家族連れに人気のホテルでした。温泉もありお勧め。
翌朝は、富良野に戻ります。
 
【日の出公園ラベンダー園】
上富良野町にあります。
富良野は、アイヌ語で「フラヌイ」(臭いの強い所)、または「下る川」を意味する「フラ・ヌィ」から来ている。
どっちなんだろーね。

ここは、ラベンダーだけを植えてます。開花時期をずらしているのかな。

ブルーキャットミント。 「かみふらの日の出公園」が正式名なのかな。

コレは何?絵画かな。

小屋の中から外の景色を撮影すると、まるで額縁に入れた絵のように見えます。これは「ピクチャーウインドウ(写真窓)」と呼ばれます。窓枠が額縁の役割を果たし、外の景色を切り取って絵画のように見せるんです。とてもおしゃれですよね。

近づくと、絵画も大きくなる。(当たり前だった)

【ファーム冨田】
中富良野町にある。
富良野市と上富良野町と中富良野町は、昔は一つの村(富良野村)だった。
しかし、中富良野は湿地帯で土地改良が大変だったから、上富良野が中富良野を切り捨て分村したらしい。
1958年、冨田氏(開拓者の子孫)はラベンダー栽培を始めました。香水用のラベンダーオイルを作るためです。1970年には、北海道全体で5トンのラベンダーオイルが生産されましたが、その後、合成香料や貿易の自由化によって価格が下がったため多くの農家はラベンダー栽培を断念し、ラベンダー栽培農家はほぼファーム冨田だけになってしまいました。

1971年、ラベンダー畑の風景が国鉄のカレンダーに掲載され、全国に紹介されました。その結果、観光客が次第に訪れるようになりました。ファーム富田は、ポプリ、オリジナル香水、石けんなど製品開発も進め、観光農園として事業を拡大しています。


ファーム冨田は入場料無料です。

ラベンダーソフト350円。ラベンダーティ360円。リーズナブルな価格

外国人観光客も多かった。

ラベンダーオイルの製造機器。

二階のショップではラベンダー香水なども販売していました。
開拓精神を感じました。

稚内から旭川へ

2024-07-23 | 国内旅行

【離島行きフェリー】

630発礼文島行きサイプリア宗谷号、715発利尻島行きアマポーラ宗谷号が見えます。

離島航路なのに、村営では無く民間フェリーです。それに稚内が出発拠点。旅行者には便利です。

沖縄のフェリーは村営。離島が出発拠点だったので、1日1往復の島だと離島に行くのは不便だった。


【稚内駅】
宗谷本線の終点、新しくなってます。

最北端の線路 最南端から北へ繋がる線路はここが終点です。
宗谷本線稚内駅 昭和3年12月26日開駅  指宿枕崎線西大山駅 昭和35年3月22日開駅 
と書いてある。

運賃表を見て、びっくり!
稚内から札幌まで約400kmで10,560円(特急自由席)
東京ー名古屋(のぞみ利用)約366kmも10,560円で、同じ料金。
北海道は広いというか、県庁に行くのも片道1万円もかかるのでは経済的に大変だ。
所要時間は、札幌まで特急で5時間。のぞみは東京名古屋間が1時間40分。
懐かしい夜行列車はダイヤから消え、今では夜行バスになっている。

駅を突き抜けて、線路は北に延びていた。

【稚内港北防波堤ドーム】
線路の先は防波堤ドーム。
1936年に完成。樺太がまだ日本だった戦前の話。ここから樺太行きの船が出ていた
波しぶきを避けて安全に船に乗れるよう作られた。
稚内から樺太(サハリン)までの連絡船は、当時は8時間かかった。

ガソリンを26L給油して、国道40号を通って、旭川を目指します。
【道の駅なかがわ】
岡山から自転車で来た青年と会いました。若い冒険家だ。
【北海道命名の地】 音威子府(おといねっぷ)村
谷沿いに「北海道命名の地」の看板を見つけた。
探検家 松浦武四郎が松前藩や幕府の命を受け蝦夷地を探検。アイヌ民族・文化を研究し、アイヌ文化を知って理解して貰おうと尽力した。
松浦は、北海道の地名9000箇所をアイヌ人への聞き取りによって収集した。
音威子府を探検中に、アイヌ語の「カイ」が「この土地で生まれた者」を意味すると教わり、1869年に「北加伊(カイ)道」)を考案。それが北海道になった。
偉大な人だ。
 
【道の駅びふか】
約3時間かかって、到着。
美味しそうな牛乳、かぼちゃあんパン、チーズクリームパン、人気の揚げたてコロッケ(北あかり)。

入口にパンが並んでいて、正面では何種類も揚げ物。いいね。

高速道路はまだ一部だけ。道の駅で休憩しながら走行します。

【道の駅もち米の里☆なよろ】
看板商品の「ソフト大福」は何種類もある。もち米で作った大福、美味しいよ。
近くの幌加内(ほろかない)町は日本一のそば生産量(作付面積・収穫量)だと。お世話になってます。
こちらはもち米だね。
もち米を作るときは、稲の花粉が混ざると品質が落ちるので、地域で一斉にもち米に取組んでいるんだね。

【面白いバス停】
これなんだろう。「42線」
羊さんじゃ無くて番号の方。バス停の数字が39線,40線,41線、42線と変わっていく。
調べると、開拓時代に農地整理が行われた際、土地が整然とした碁盤の目状に区分けされたため、番号の付いた「線」や「号」で呼ばれ、今も続いていると。

こちらも、味のあるバス停。さび付いてるね。
運行会社は「士別軌道」
「軌道」とあるが、既に鉄道事業は廃止され、今ではバスだけを運行。
行き先が士別とスクール。調べると、学校路線の巡回バスのようだ。
沖縄でも、学校の登下校時間帯だけ運行するバスがあったね。

続く。

サロベツ原生花園

2024-07-17 | 国内旅行

【利尻礼文サロベツ国立公園 サロベツ湿原センター】

環境省のビジターセンターと湿原を歩いて回れる木道があります。

なかなか良い施設です。豊富町にあります。


サロベツはアイヌの人達がサル・オ・ペッ(湿原を流れる川)と呼んでいたことに由来します。
面積6700ヘクタールの広大な湿原。ラムサール条約にも登録されている。
正面の山は、利尻島の利尻山。利尻富士と呼ばれている。

【エゾカンゾウ】
調べたら、禅庭花(ゼンテイカ)の別称で、各地ではニッコウキスゲなど別々に同定されて名前が付いているらしい。

一つの花は一日しか咲かず、朝に咲いた花は夕方にしぼむが、次々と開花するため長い期間花を楽しむことができる。サロベツ原野のエゾカンゾウの大群落は有名らしい。いいね。

木道は、ゆっくり歩いて30分で1周できる。

ビジターセンターに戻ったら。木道を歩く前にチェック。
見たのはニッコウキスゲじゃ無かったと思ったが、今になって、同じ花だとわかった。DNA情報による植物分類とかしてるのかな。同定は難しいね。
【泥炭産業館】
サロベツ原野には植物の残骸が分解されず堆積しており、泥炭地として資源開発された時期がある。石炭の一種で乾燥させれば石炭のような燃料にもなる。ビジターセンターの隣に泥炭産業館があり、その歴史などが良く分かる。

【道道106号線】
日本海沿いを走る道道106号線に戻り、北を目指す。
自転車とすれ違ったので、一枚撮りました。
この風景が見たかった。こういう景色を走ったら、ずっと忘れられないだろうね。

助手席から写して貰った。果てしなく続く道。いつまでも走っていたい。

宗谷本線の車窓から見て、ここは日本なのかと衝撃を受けた風景を思い出す。
抜海駅は乗降客が少なく、今年度末で廃止が決まったそうです。さみしいね。

【浜勇知園地】 稚内市抜海
森繁久弥さんの歌碑がありました。
「浜茄子の 咲きみだれたる サロベツの 砂丘の涯の海に立つ富士」森繁久弥

小さな池がありました。夏にはコウホネという睡蓮に似た花がさくので、この休憩所はこうほねの家と呼ばれています。
利尻富士がきれいです。

冬場は厳しいのだろうと想像します。地吹雪等で視界が悪くなることが多く、通行止め規制されることがしばしばあるそうです。

【ノシャップ岬】
アイヌ語のノッサム(岬のそば)が語源だそうです。ここで日本海は終わりかな。
【エゾジカの帰還】
稚内市内の宿泊先に行こうとしたら、ちょうどエゾジカ家族も家路に着くところでした。
ホテルの夕食はブッフェ形式で、カニやホタテも食べ放題。

オホーツク海です。北防波堤ドームが見えます。

もう夜明けです。緯度が高いと、朝が早いなあ。

日の出は、午前3時47分! 
朝食は、午前5時30分!!

日本銀行券

2024-07-14 | 生活

新しい日本銀行券に両替してもらった。

AA147872。発行から10日。幸運にもAAで始まる若い番号だった。
【世界初の紙幣ホログラム】
津田梅子さんが、まっすぐ正面を向いてます。

しかし、紙幣をちょっと傾けると、横を向いてしまいます。凄くないですか?
映画ハリーポッターで新聞の写真が動くシーンがあったけど、お札とは日本の技術凄い…
【津田梅子の花と植物】
津田さんのホログラムには梅、ぼたん菊、朝顔、萩、桔梗、桜の6種類が描かれ、と裏面のを加える8種類の植物
「これは、クイズ問題に出ますね!」とHBC北海道放送のインタビューで答えたら、「何種類答えられますか?」と逆質問された。

渋沢栄一さんはヤマザクラと街路樹のの木。

北里柴三郎さんはヤマザクラのみ。したがって、津田梅子さんは華やかであると言える。

【目の不自由な方への対応】
新札を見て気づいたのだが、右上の斜め線の位置が、それぞれ違う。手の感触で分かる。
千円札は右上と左下、五千円札は中央の上と下、一万円札は左右の中央である。
加えて、人物の横にうっすらと千円札はⅠ、5千円札はⅡ、一万円札はⅢの線が盛り上がっていて、指で感じることが出来る
なかなか、やるじゃない。
【いろいろな工夫】
詳しく見ると、いろいろ工夫が凝らしているのがわかる。
普通、お札は誰が触ったかわからないので観察しないけど、発行されたばかりの新札なら、手にとって隠された工夫を見つけ出すのも楽しいかも。
額面の金額以上の価値があると思った。

外国人観光客に、新札のセット券を記念に販売したら売れるかも。
3枚セットで16000円、10枚ずつセットで16万円。日本のお土産になるね。

羽幌炭鉱

2024-07-10 | 国内旅行
【オロロンライン】
道の駅おびら鰊番屋で、タコ専門店の美味しそうなおつまみを購入。
袋の裏に、良く分かる地図があった。オロロンラインは、鳥の名前が由来。
小樽から稚内までの海沿いを走るオロロンラインは距離が長く、一日ではたどり着けない。
小平町のやや北に位置する羽幌(はぼろ)温泉を目指す。
【羽幌】
名は、アイヌ語のハポロペッが由来らしい。
羽幌は、かっては国内屈指の炭鉱の街だった。
今では、甘えびの水揚量が日本一らしい(羽幌町HP)。
 
【はぼろ温泉サンセットプラザ】
源泉掛け流し温泉がある。温泉は、道具持参で地元の方も利用してた。
夕食がいいね。ビールを少しと熱燗だね。
はぼろは、炭鉱の街だった。山の中に遺跡があるらしいので出かけてみた。
【羽幌炭鉱】
1874年、石炭鉱脈が見つかるが輸送手段がなく、各社による小規模な採掘。
1941年、羽幌炭鉱鉄道が、炭鉱と鉄道を一緒に行い、国鉄羽幌線の羽幌と結び地域の足となった。
良質石炭を年間100万トン産出する一方で、ジャンプ台建設やスポーツ振興など地域発展に貢献したが、断層にぶつかったこと、石炭鉱業再建整備臨時措置法の期限等を理由に、1970年閉山を決定。
3000万トン以上の資源と7500人の関係住民を残して、30年で鉄道も廃止(バス転換)された。
 
この巨大な建物は、採掘した石炭を貯蔵する貯炭場。
こちらは50年前の住宅の跡だね。
人はいなくとも、家の周りには残された草花が美しく咲いていた。

羽幌炭鉱鉄道病院の跡。
大倉山ジャンプ台と同じ大きさのジャンプ台があり、羽幌炭鉱スキー部には笠谷昌生(札幌五輪ジャンプメダル独占時のコーチ。金メダルは弟)が所属していた。
炭鉱アパートは、「幸せの黄色いハンカチ(1977年)」のロケ地になった。
1969年に完成。水洗トイレ完備。家賃、光熱水費は会社負担。住民の入居は1年だった。
羽幌町へ戻る。
羽幌鉱山鉄道(廃止)の線路の橋脚が残されていた。
 
【羽幌町郷土資料館】
羽幌炭鉱や鉄道の歴史が良く分かる。

開坑と鉄道建設

写真に、当時の人々の暮しがあった。
【オロロンライン】
羽幌から稚内を目指して、海沿いの道を走る。
牛がいた。のどかで、健康そうだ。
国鉄羽幌線(廃止)の線路の橋脚が残されていた。
【天塩町サラキシの漁港】
アイヌ語で葦のたくさんあるところの意。
【オトンルイ風力発電所】
オトンルイは、アイヌ語で「浜にある道」という意味がある。
幌延(ほろのべ)町の風力発電プロジェクトに基づき、3セクで設置。後にJFEに売却。
高さ99メートルの風車が28機、長さ3キロにわたり並ぶ。西風を受けてヒュンヒュン回る。

【幌延深地層研究センター(日本原子力研究開発機構)】
高レベルの放射性廃棄物(いわゆる核のゴミ)の最終処分には地層処分技術の開発が必要で、ここは堆積岩のモデルとして期限を決め調査研究だけを実施していた。
人工バリア(ガラス固化体、オーバーパック、緩衝材)で1000年以上外部と遮断する技術。

人工バリアの実物模型。
国内では堆積岩と結晶質岩の2箇所で調査研究しているが、両者の結果に違いがあるのだろうか。

石狩挽歌と鰊番屋

2024-07-08 | 国内旅行

【石狩挽歌記念碑】

なかにし礼の実家があった小樽市。

青山氏の鰊御殿(貴賓館)に石狩挽歌記念碑があり、なかにし礼直筆の歌詞が彫られている。

1975年のヒット曲だが、記念碑建立が22年後の1997年になった理由は、1996年に兄の中西正一(森田童子の父)が72歳で死去し、ようやく記念碑建立に応じたと、なかにしは『兄弟』に記している。

【石狩挽歌は中西一家の実体験だった】

兄の正一が、小樽の実家を担保に借金して増毛の網元からニシン漁の権利を3日間借りた。

最終日の1947年3月22日の未明。魚が入らず失敗したと中西家全員があきらめたときに奇跡が起きて、遠くの海から大量のニシンが、網に押し寄せる奇跡が起きた。兄23歳、礼8歳の時だった。

海猫が鳴くからニシンが来ると、ヤン衆(ニシン漁の出稼ぎ漁師)が騒ぐ。

雪に埋もれた番屋の隅で、私は夜通し飯を炊く。

燃えろかがり火 朝里の浜に 海が銀色ニシンの色よ。

ソーラン節に頬そめながら 私は大量の網を曳く。

 
【ニシン漁の衰退】
ニシン漁は1910年以降、北海道西側沿岸で栄え、漁で財を成した網元によるニシン御殿が各地に建ったが、1955年以降、すっかり獲れなくなってしまった。
挽歌とは、死を悼む歌。石狩地方のニシン漁が途絶えたことを歌う悲しい歌なのだった。
 
あれからニシンはどこへ行ったやら オタモイ岬のニシン御殿も今じゃさびれて オンボロロ オンボロボーロロー沖を通るは笠戸丸 私は涙でニシン曇りの空を見る
 
【増毛町の朱文別の浜】
増毛は、アイヌ語のマシュケ(カモメの多いところ)が由来。
77年前、中西正一は朱文別のニシン漁で1ヶ統(幅20メートル、長さ60メートル)の権利を3日間買った。増毛には100ヶ統以上あり、ニシンが入ったとしても百分の一の確率。
一攫千金のギャンブルだ。鰊の大群が押し寄せる群来(くき)の時は、明け方の海が乳色・銀色に染まる。
 
しかし、今では、海岸浸食から守る離岸堤が沖合に並び、海岸にはテトラポット。もはやニシン漁が行われることはなさそうだ。


【日本最北の酒蔵】
増毛にある国稀(くにまれ)酒造。日本最北にある酒蔵。


清酒も美味しいが、酒粕焼酎「泰蔵」も人気だ。

【国稀の蔵元限定商品】
  • 国稀 酒粕焼酎泰蔵 木樽貯蔵(30度)
スコッチウイスキーのような香りと琥珀色が飲んでて楽しい。
 
【ニシン丼】
石狩市の道の駅厚田で頂いた。
【恩納村のお土産】
石狩市は沖縄県恩納村と友好都市。懐かしいシークワーサーポン酢やじゅーしぃに出会えた。

【旧花田家番屋】
増毛の北に位置する小平(おびら)町にある。アイヌ語のオッペが町名の由来。
「道の駅おびらニシン番屋」に隣接する国指定重要無形文化財が花田家のニシン番屋。
北海道最大の規模で、往時は200人の雇い人が生活できた。

夜通し飯を炊く。




漁の道具も展示されている。

ニシンを背負うもっこ。
小さいのは子供用。


【北海道の鰊番屋】
 
 
【礼文島の鰊番屋の思い出】
私の最初の北海道の宿は、1977年9月24日(土)礼文島の桃岩荘YH。ニシン番屋だった。
前日、羽田17:15発の全日空で千歳に、21:10札幌発の夜行で稚内に早朝の6:25到着。
夜が明け始め車窓から見えた景色は、森林も家もなく大平原と砂丘。
8:10発の定期観光バス3時間コースで、最北端の地、稚内公園、ノシャップ岬を巡った後に、稚内12:40発のフェリーで礼文島15:10着。迎えのジープに乗り、海岸沿いのニシン番屋を利用したユースホステルに16:20到着した。宿泊者は50名程だった(当時の旅日記より)。

北海道オロロンライン

2024-07-06 | 国内旅行
北海道西北部を日本海に沿ってオロロンラインを北上してきました。
小樽、羽幌、稚内、富良野、札幌の5泊6日で走行距離1180キロ。
 
目的はいろいろありますが、
1)鰊(にしん)番屋 2)サロベツ原野 3)旭山動物園 4)富良野ラベンダー 5)エスコンスタジアム 6)北海道博物館・北海道開拓の村・ウポポイ など。
新札発行でHBC取材、空港直行バス運休など思いがけない出来事もありましたが、よき旅でした。
 
【小樽総合博物館 運河館】
  • 小樽に運河があるのは何故か。
  • 日本銀行小樽支店を始め各銀行が設置され、北海道の金融経済の中心となった理由は何か。
小樽と言えば小樽運河と倉庫。北前船主が建てた倉庫が博物館になっています。
運河館で目を引くのが立派な屏風絵小樽から約100km北の留萌郡小平(おびら)町の花田漁場で行われたニシン漁1903年に描いたもの。翌年開催された米国セントルイス万博に出展された。

屏風絵には、ニシン漁場の仕事の様子が緻密に描かれており、それを紹介する。

定置網に押し寄せるニシンの大群を大タモですくい上げる作業歌が、ソーラン節の起源となった「沖揚げ音頭」
ヤーレン ソーラン ソーラン ソーラン ソーラン
にしん来たかとカモメに訊けば  わたしゃ発つ鳥 波に聞け
チョイヤサエンエンヤーーーァサーァノ ドッコイショ  ハードッコイショドッコイショ
どう考えたって大変疲れる作業。腕や腰を痛めるね。かけ声で重労働をがんばる。

ニシンは一斉に来るので、学校も休みになり、お金にもなったので周辺の人々が手伝った(花田番屋)。

実際の写真を見ると、まあ大変な様子です。絵なので、ここはきれいに描かれています。

カズノコは栄養価も高く貴重ですが、当時は干物にしたようです。

状態が良い大きなニシンは頭や内臓を取り除き、見欠きニシン(ニシンの干物)
一尾ずつ手作業だが、貴重な保存タンパクとして内地に北前船で送られ、大きな収入源となった。

見欠きにはできないニシンは肥料に。ゆでて、油を抜いて、絞って、乾かして。

ニシン粕(煮沸したニシンから魚油を搾り取ったかす)は、肥料として大変重宝され、北陸や西日本に運ばれ、稲、ミカン、菜種、綿花などの肥料になった。

押し寄せるニシンの大群を漁場で待ち受けた大勢の人が加工して小樽へ運んだ。
北陸など北前船の船主達が、海を埋め立てて運河を作り、倉庫を建てた。
倉庫の保管料で稼ぐとともに、北海道への移民者が求める物資を北前船で運び、栄えた。
ニシン漁場の写真 (余市)
下は、群来(くき)と呼ばれ、ニシンの群れが押し寄せているところ。

小樽市鰊御殿(にしんごてん)
断崖の上にある赤い建物。土砂崩れで防止対策しており休館中です。
こんな断崖絶壁です。
貴賓館(旧青山別邸)
青山家は、ニシン漁で巨万の富を築き繁栄した。これは娘のための別荘(国の登録有形文化財)。
日本銀行小樽支店の金融資料館
新札発行の展示を見ていたら、HBC北海道放送「今日ドキッ!」の取材を受け驚いた。
どこから来たか。日銀小樽支店を知った理由。来週から発行される新札についてどうも思うか。デザインについてどうか。偽造防止策についてどうか。
など詳しくインタビューされました。丁寧に答えましたよ。