1976年、FMラジオから流れてきた森田童子のアルバム「マザースカイ」を偶然聴いて、衝撃を覚えた。
「ぼくと観光バスに乗ってみませんか」
「海を見たいと思った」
「ぼくたちの失敗」…
自分の心の感情を、歌にして、ギターを弾きながら、語るように、嘆くように、時には叫ぶように歌う。
森田童子が何を思い、伝えたいのか、不安な学生生活の中、耳を傾けていた。
情報誌の「ぴあ」で森田童子をチェックし、西荻ロフト、下北沢屋根裏、目白の東京カテドラル聖マリア大聖堂などで開催されたライブコンサートに出かけた。
西荻ロフトでは、椅子に座りギターで弾き語りをする童子を、前列の床に座って、見上げるように聴いていた。
曲の合間では、歌と同様に、自分の気持ちを独り言のように童子は話し、聴衆の反応を求めたり会話することは無かった。
素顔は謎だった。
2018年4月に65歳で亡くなったことが伝えられ、少しずつ、森田童子のことがわかってきた。
住んでいた家を、歩いて、探し求めた。
それらしきところを探したが、見つからず、足が重たくなってきた。
すると、道路の向かい側の家を見つめて、じっと立っている女性がいた。
幼稚園バスが到着し、園児と女性が去った場所に立ち、その家を見つめた。
探し求めていた家が、そこにあった。
周りの風景が一致していた。
死後2年半が過ぎ、家は取り壊されて、跡地には別の家が新築されていた。
苦労して住んでいた場所を見つけて写真を撮ったものの、この写真は使えないことは分かっていた。
電車で帰ろうと、駅の改札で、スイカが弾かれた。2度目で気付いた。手に持っていたのは、郵貯カードだった。疲れていた。
久しぶりに小銭で切符を買い、電車に乗って帰宅した。
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その夜、就寝中の午前3時にひらめいて、目覚めた。
Googleのストリートビューで探せば、その場所の過去の映像が残っているのではないか。
過去数回撮影された映像が、10年前まで残っていた。撮影地点を変えれば、別の写真が得られる。(写真は全てGoogleです)
上の写真は2010年2月。
夫の前田亜土さんが亡くなった頃のもの。
玄関の灯りは、夫を待っているのだろうか。
森田童子の活動期間は、1973年(20歳)の西荻ロフトから1983年(30歳)の新宿ロフトまでの10年だと思う。
8年間の地方都市コンサートは、舞台設備のない小劇場、幼稚園、集会場が多かった(朝日新聞「夜想曲」より)
引退後、この土地に新しい住居を構え慎ましく暮らしていた。
この家で、ギターを手に自分の気持ちを歌うことはあったのだろうか。
家の外周とフェンスの間には、植物がいっぱいで、大きく歩道にはみ出した大木もある。壁には夏蔦が繁っている。
幸せを感じる。
表札には、手書きで「前田」とある。
イラストレーターだった前田さんの直筆かな。森田のサインとは「田」の字体が違う。
その後の写真を観ると、持病のせいで、手入れが大変になってきたのか、庭木は少しずつ消えていった。
亡くなった後の2018年6月には、蔦が2階の窓まで覆っていた。
2019年5月、家から鳩が飛び立つのをレンズは捉えていた。
マザースカイのサブタイトルは、「きみは悲しみの青い空をひとりで飛べるか」だった。
「悲しみの青い空を、飛んでいくのか」と、童子が問いかけているように感じた。
こんにちは。
かなり前のforever-greenさんの ブログで森田童子さんのことを読みました。ずっとずっとファンでいらしたんですね。あなたさまの青春の一端を垣間見た気が致しました( ´ー`)
ありがとうございます。
童子は、飾ることなく、自分の気持ちを歌うところに惹かれました。
同世代ですね。
森田童子は、自分の世界を崩さず、貫いていました。
尋ねた土地の登記簿(誰でも閲覧可能)では、前田美乃生さん死去後、中西さん(弟)に相続されていました。なかにし礼さんの姪っ子でしたね。