「翁」は、自家製粉をすべく東京から山梨に移る。この「翁」は細い山道を登った相当の「山中」にあり、客など来るような場所ではない。私は、この立地を考えただけで、純粋に納得できるそばを求めて突き進む、求道者のような高橋さんの姿をみる。
ここで「翁」は、完全な自家製粉の店になった。高橋さんにとって、製粉できることの喜びは、積年の強い願望であっただけに、とりわけ大きなものであったことだろう。そのことが氏の著作から伺われる。
自家製粉の体制が整えば、求めるのはいい玄ソバしかない。東京時代から始めていた産地巡りは、いよいよ本格化する。それは、関東から、さらに足をのばし全国行脚の旅となる。開店の年にスタートしたこの全国産地巡りは、3年目には、どこでも蕎麦が打てる道具を携え、弟子達とバスで移動できる体制が整ったという。このいい玄ソバを全国から直接集められるという体制が、高橋さんの蕎麦が他を凌駕している根幹である。
高橋さんは、単に全国からいい玄ソバを集めてくるのではなく、いい蕎麦とは何かを広く全国に知らしめた。すなわち、高橋さんの功績は弟子の育成など多岐にわたるが、最大の功績は、いい蕎麦とは何かの日本全国への啓蒙であったと私は捉えている。
ここで「翁」は、完全な自家製粉の店になった。高橋さんにとって、製粉できることの喜びは、積年の強い願望であっただけに、とりわけ大きなものであったことだろう。そのことが氏の著作から伺われる。
自家製粉の体制が整えば、求めるのはいい玄ソバしかない。東京時代から始めていた産地巡りは、いよいよ本格化する。それは、関東から、さらに足をのばし全国行脚の旅となる。開店の年にスタートしたこの全国産地巡りは、3年目には、どこでも蕎麦が打てる道具を携え、弟子達とバスで移動できる体制が整ったという。このいい玄ソバを全国から直接集められるという体制が、高橋さんの蕎麦が他を凌駕している根幹である。
高橋さんは、単に全国からいい玄ソバを集めてくるのではなく、いい蕎麦とは何かを広く全国に知らしめた。すなわち、高橋さんの功績は弟子の育成など多岐にわたるが、最大の功績は、いい蕎麦とは何かの日本全国への啓蒙であったと私は捉えている。