蕎麦彷徨

ひとりの素人が蕎麦について考えてきたことを書きしるすブログ

蕎麦界の展望 (10)

2006-07-31 | 蕎麦界の展望
「翁」は、自家製粉をすべく東京から山梨に移る。この「翁」は細い山道を登った相当の「山中」にあり、客など来るような場所ではない。私は、この立地を考えただけで、純粋に納得できるそばを求めて突き進む、求道者のような高橋さんの姿をみる。

ここで「翁」は、完全な自家製粉の店になった。高橋さんにとって、製粉できることの喜びは、積年の強い願望であっただけに、とりわけ大きなものであったことだろう。そのことが氏の著作から伺われる。

自家製粉の体制が整えば、求めるのはいい玄ソバしかない。東京時代から始めていた産地巡りは、いよいよ本格化する。それは、関東から、さらに足をのばし全国行脚の旅となる。開店の年にスタートしたこの全国産地巡りは、3年目には、どこでも蕎麦が打てる道具を携え、弟子達とバスで移動できる体制が整ったという。このいい玄ソバを全国から直接集められるという体制が、高橋さんの蕎麦が他を凌駕している根幹である。

高橋さんは、単に全国からいい玄ソバを集めてくるのではなく、いい蕎麦とは何かを広く全国に知らしめた。すなわち、高橋さんの功績は弟子の育成など多岐にわたるが、最大の功績は、いい蕎麦とは何かの日本全国への啓蒙であったと私は捉えている。

蕎麦界の展望 (9)

2006-07-30 | 蕎麦界の展望
高橋さんは、自家製粉どころではなく、そばの自家栽培から一貫した蕎麦への取り組みを考えたのである。

さっそく、長野県の池田町で蕎麦栽培を開始する。栽培すれば製粉が必要になる。この製粉で行き詰まる。氏はすでに石臼は備えていたというから、殻をとることが課題であった。そして、小型の脱皮機を「岩田兄弟工場」に依頼して作製してもらったという。この脱皮機の開発には途方もない幾多の困難が立ちはだかり、すぐれた人々の知恵が結集したに違いない。私は、この脱皮機の開発が自家製粉への大きな一里塚になったのではないかと主張しているのだ。

ところで、池田町での高橋さんの蕎麦栽培は、その後4年間続き終結する。その理由を高橋さんは『そば屋 翁』で次のように述べている。「結論としては、そば屋をやりながら自分の使う分のそばを栽培するのはまず無理だということでした。たとえ一部にしても、まかなおうと考えるのは、コストと時間を考えたら採算に合いません。」

蕎麦界の展望 (8)

2006-07-28 | 蕎麦界の展望
高橋さんは、28才で、いわば、片倉さんに「弟子」入りする形で蕎麦の世界に入る。氏の「すじ」の良さは、卓越していたのだろう。蕎麦を打ち始めてそれほど経過しない、石森製粉で片倉さんがそば教室を開催していたときに、片倉さんの師範代を務めていたというのだから。

高橋さんは、その後、東京南長崎に「翁」を開店する。この店の開店時に、片倉さんに自家製粉の話をすると、「高橋君、十年早いよ」と言われたという。片倉さんの発言の真意がどこにあったかは別にして、注目したいのは、高橋さんの自家製粉に向かう意志が、氏の蕎麦人生のほとんど当初からあったという事実である。美味い蕎麦の王道が自家製粉にあると、この時期に見抜いていたのは驚異である。

この南長崎の「翁」は約10年続くが、この間が、高橋さんにとって蕎麦粉との「闘い」であったのではないか。すなわち、自分の蕎麦打ち技術は高まり、完成度がさらに増していく。しかし、蕎麦そのものが納得する美味さにならない。蕎麦粉に問題があったからである。この拡大するギャップが極大化したときに、高橋さんは「そばの生産から製粉」までに本格的に取り組もうと決意したのではないか。

蕎麦界の展望 (7)

2006-07-27 | 蕎麦界の展望
蕎麦打ちの技術を極め、多くの弟子達を育成した片倉さんの功績は計り知れないほど大きい。それゆえ、私は、氏の活躍した時期を、現在の蕎麦界への発展の第1期と呼ぶことにしている。

続く第2期の萌芽は、片倉さんの弟子やそれに近い人達の中で、氏が内包していた問題点を克服しようとする中から現れた。完成度の高い自家製粉への流れである。すでに述べたが、それは、玄ソバから「抜き」を取ることであり、石臼による製粉である。とりわけ、前者を可能にした「小型の脱皮機」の開発がキーポイントとなった。

片倉さんは、極めて多面的な側面をもっていた。それゆえ、氏の弟子達の向かった方向は多岐にわたる。もちろん、片倉さん流の蕎麦「料理店」的流れは、主流を形成して行った。その中にあって、メニューを絞り、「せいろ」に集中していった一群の人達がいた。この人達が第2期の黄金時代を築いていったのである。その中心にいたのが、言うまでもなく、「高橋邦弘」その人であった。

蕎麦界の展望 (6)

2006-07-26 | 蕎麦界の展望
片倉さんが、自家製粉に取り組んだのは、大森時代に築地に出した支店と、昭和16年に大森から浦和に移った後の浦和時代である。いずれも石臼の手挽きによる製粉であるが、玄ソバから「抜き」はどのように取っていたのか明らかではない。しかし、ここが不十分であったのではないだろうか。

もう1点。石臼についても指摘しておきたい。氏は『手打そばの技術』の中で、石臼について述べている。しかし、その項目を仔細に読めば、幾つもの重大な問題がある。私が、このブログで展開した石臼についての理論からすればその問題点は余りにも大きい。片倉さんの石臼では、いい粉は挽けない。

前後するが、片倉さんの自家製粉が不十分であったことを、『手打そばの技術』の中から考えてみよう。
氏は「二八そば」を「並そば」と呼び、その本の中で詳しく打ち方を説明している。「さらしなの生一本」についても同様である。しかし、「並み粉の生一本」すなわち十割そばについては「補注」でほんの少し触れ、打ち方についてはいろいろあるとしながら、糊状にして打つ方法を紹介している。水だけで打つのではない。

これは何を物語るのか。
片倉さんの腕をもってすれば十割そばなど打つことは容易なことであったはずである。そうであるのに、十割蕎麦の扱いがほんの少ししかないのは、蕎麦粉自体に問題があったからではないか。あるいはその理由の1つであったからではないか。自家製粉で本当にいい蕎麦粉ができたなら、「並み粉の生一本」を蕎麦の全ての「基本」にしていたはずである。

すなわち、片倉さんが抱えた問題は、自家製粉の完成度が不十分であったこと、石臼の完成度が低くかったことであると、私は考える。

蕎麦界の展望 (5)

2006-07-25 | 蕎麦界の展望
片倉さんは、昭和8年に店を新宿から大森に移す。この大森時代の「一茶庵」は、使用人が20名近くもいたというから大盛況であった。

この大森での「一茶庵」は、「種もの」のメニューはさらに充実し、ご飯ものも提供していたという。一説には、魚介類を新鮮に保つために、大きな生け簀や氷冷蔵庫までも備えていた。しかし、こうした店の方向は、蕎麦そのものをより美味しく進化させ、発展させるためによい方向だろうか。否である。豊富なメニューの数を扱いながら、「せいろ」の質を高めるのは至難の業である。

「せいろ」の美味さを決定するのは、蕎麦粉であり玄ソバである。片倉さんの蕎麦粉はどのようなものであったろう。製粉所から提供される蕎麦粉にはその質において問題がある。それゆえ、片倉さんが自家製粉にどのように取り組んでいたかを検討してみる必要がある。

蕎麦界の展望 (4)

2006-07-22 | 蕎麦界の展望
片倉さんは、困難な「さらしなの生一本」にあえて挑戦することによって、蕎麦打ち技術を極めた。それによって蕎麦界に確固たる地位を築いた訳だが、それは一体どん意味を持っていたのであろうか。

「さらしなの生一本」への関心の高まりは、「師客」であった高岸や小林の助言に基づくものであったが、片倉さん自身の性質からもその蕎麦に向かうのは必然的なものがあったのではないか。魯山人から影響を受けたという器への関心の高さを考えても、凡人の嗜好とは異なる。さらには、音楽にも(例えば、ベートーベンなどは3番や5番は聴かず、他の交響曲を好んで聴いたという)、絵画にも親しんでいたという。おそらく、身近にいた人は、他にもこうした氏の人となりを示す幾つもの例を知っているだろう。

しかし、「さらしなの生一本」は現実的な蕎麦ではない。日常的な蕎麦ではない。さらしな粉は、大量の蕎麦から少量しかとれない。それは、店の「看板」になりえたとしてもメニューの中心にはなれない。事実、新宿「一茶庵」の人気メニューは「とろそば」であったという。この事実は重い。

「さらしなの生一本」に取り組んだからこそ、技術を高められ、人を引きつけた。しかし、その蕎麦は、多くの人が日常的に支持する蕎麦ではなかった。私はここに大きな問題を感じる。

蕎麦界の展望 (3)

2006-07-21 | 蕎麦界の展望
新宿「一茶庵」の「師客」の一人に、作家・小林蹴月がいた。この小林を通して、片倉さんは、信州・川上村の海瀬館という旅館で、本物の「さらしな生一本」に出会ったという。これを契機に、さらに本格的に、このとてつもなく難しい蕎麦に取り組むことになる。

そして、おそらく、店を新宿から大森に移す頃には、すなわち、氏が30才前後の頃には「さらしな生一本」を打つ技術は相当なレベルまで達っしていたのではあるまいか。これを可能にしたのは、片倉さんの「さらしな生一本」に向かう志の高さであり、もって生まれた器用さなどであると思われるが、氏の道具への並みならぬ関心も忘れてはなるまい。この道具へのこだわりが、後に、「さらしな生一本」を切りべら60本の世界までもたらしたのではなかろうか。

この「さらしな生一本」の蕎麦打ちに立ち向かったからこそ、氏が希有の蕎麦打ち技術を獲得できたのである。そして、まさにそのことこそが、多くの人を引きつけ、後世に多大な影響をもたらしたのである。

蕎麦界の展望 (2)

2006-07-20 | 蕎麦界の展望
手打ち蕎麦の技術を、片倉さんは、どのように獲得していったのか。

片倉さんは、23才(数え年)の時に「ごくふつうのそば屋」で「1週間の見習い」のみで、新宿に「一茶庵」を開いたという。それ以後も、氏には蕎麦打ちそのものを教えてくれる師匠はいなかった。師と仰いだのは、文筆家・高岸拓川や早稲田大学総長の高田早苗などの、師が「師客」と呼ぶ客達であった。とりわけ、自ら最高の師と仰いだ高岸からは、蕎麦だけでなく広範囲に渡り様々なことを学んでいる。

私にとって興味深いのは、大著『手打そばの技術』の中で、その高岸が「きみはやれば、『さらしなの生一本』が打てるまでに出世する。そこまで研究すれば、おそらく、手打そばでは最高のものではないかと思う。」と言われたという点である。尊敬する師からこう言われたら、「さらしなの生一本」に、それ以降、真剣に取り組んだとしても不思議ではない。

実際、氏はその「さらしなの生一本」にどう立ち向かっていったのか。


蕎麦界の展望 (1)

2006-07-19 | 蕎麦界の展望
今後の蕎麦界がどのような方向に向かっていくのか、あるいは向かって行くべきなのかは、蕎麦の関係者にとって、大いに関心のあるところであろう。私は、食べる側から蕎麦の世界に足を踏み入れた者だが、この観点から蕎麦の将来を展望してみたい。それには、蕎麦の歴史を少しばかり紐解くことから始めたい。

現在の蕎麦打ちの世界に、片倉康雄さんがもたらした功績はとてつもなく大きい。今、最も活躍し、いい仕事をしている多くの蕎麦職人の方々は、片倉さんの影響を大なり小なり受けているのではないだろうか。それでは、なぜ、氏の影響がそれほど大きなものであったのだろう。

その理由として、片倉さんが東天紅の「日本そば大学講座」で講師を務めるなど積極的に弟子の育成に取り組んだとか、人を魅了するカリスマ性があったとか様々な理由が考えられるだろう。しかし、私には、当然のことながら、氏の蕎麦打ち技術の完成度が並外れて高かったことが第1の理由であると思われる。

では、氏はその技術をいつ、どのようにして身につけていったのであろうか。そして、それはどのような帰結をもたらすことになったのであろうか。