脱皮機の位置づけ
日本の蕎麦は、「砂場」、「更科」、「藪」の3系統が並立し進展してきた。一部を除いて、これらの中には新しい発展の萌芽はなかったように思われる。その中で,新しい蕎麦の流れを起こしたのが、片倉康雄さんだ。まさに現在進んでいる蕎麦の発展の礎を築いたと言えよう。私は,これを、蕎麦の発展の第1期と呼ぶことにしている。
続く第2期は、片倉さんの教えを直接、間接的に受けた、きらきら星の如く現れた一群の人達であった。その中の先鋭的な人々が自家製粉に向かって行った。それが高橋らであった。彼らは、納得できる蕎麦を打つには、製粉所から提供される蕎麦粉では無理があると考えた。そこで、自分で製粉しようとした。石臼と脱皮機が必要であったが、石臼の方が手に入れ易かったのだと思う。それまでなかった小型の脱皮機は本当に必要だったと思う。第2期の発展の出発点となったのは、まさにこの脱皮機の開発ではなかったか。すべて新たなことへの発展は、発想の中からしか生まれないが、必ず見える形で残るのだと思う。
(なぜ、第1期の地平を開いた片倉さんは、次の世代に乗り越えられなければならなかったか、そして、第2期の限界はどこにあり、どう止揚されなければならないかについては、後に詳述したい。)
最近、石臼による製粉のみで「自家製粉」の店というのが多くなった。これは明らかに,他から「抜き」を提供されている。「抜き」にしてからの時間の経過等様々な問題が付きまとう。上記の脱皮機の開発さえ進めていった蕎麦店のことを考えればあまりにも安易ではないか。
日本の蕎麦は、「砂場」、「更科」、「藪」の3系統が並立し進展してきた。一部を除いて、これらの中には新しい発展の萌芽はなかったように思われる。その中で,新しい蕎麦の流れを起こしたのが、片倉康雄さんだ。まさに現在進んでいる蕎麦の発展の礎を築いたと言えよう。私は,これを、蕎麦の発展の第1期と呼ぶことにしている。
続く第2期は、片倉さんの教えを直接、間接的に受けた、きらきら星の如く現れた一群の人達であった。その中の先鋭的な人々が自家製粉に向かって行った。それが高橋らであった。彼らは、納得できる蕎麦を打つには、製粉所から提供される蕎麦粉では無理があると考えた。そこで、自分で製粉しようとした。石臼と脱皮機が必要であったが、石臼の方が手に入れ易かったのだと思う。それまでなかった小型の脱皮機は本当に必要だったと思う。第2期の発展の出発点となったのは、まさにこの脱皮機の開発ではなかったか。すべて新たなことへの発展は、発想の中からしか生まれないが、必ず見える形で残るのだと思う。
(なぜ、第1期の地平を開いた片倉さんは、次の世代に乗り越えられなければならなかったか、そして、第2期の限界はどこにあり、どう止揚されなければならないかについては、後に詳述したい。)
最近、石臼による製粉のみで「自家製粉」の店というのが多くなった。これは明らかに,他から「抜き」を提供されている。「抜き」にしてからの時間の経過等様々な問題が付きまとう。上記の脱皮機の開発さえ進めていった蕎麦店のことを考えればあまりにも安易ではないか。