蕎麦彷徨

ひとりの素人が蕎麦について考えてきたことを書きしるすブログ

蕎麦界の展望 (6)

2006-07-26 | 蕎麦界の展望
片倉さんが、自家製粉に取り組んだのは、大森時代に築地に出した支店と、昭和16年に大森から浦和に移った後の浦和時代である。いずれも石臼の手挽きによる製粉であるが、玄ソバから「抜き」はどのように取っていたのか明らかではない。しかし、ここが不十分であったのではないだろうか。

もう1点。石臼についても指摘しておきたい。氏は『手打そばの技術』の中で、石臼について述べている。しかし、その項目を仔細に読めば、幾つもの重大な問題がある。私が、このブログで展開した石臼についての理論からすればその問題点は余りにも大きい。片倉さんの石臼では、いい粉は挽けない。

前後するが、片倉さんの自家製粉が不十分であったことを、『手打そばの技術』の中から考えてみよう。
氏は「二八そば」を「並そば」と呼び、その本の中で詳しく打ち方を説明している。「さらしなの生一本」についても同様である。しかし、「並み粉の生一本」すなわち十割そばについては「補注」でほんの少し触れ、打ち方についてはいろいろあるとしながら、糊状にして打つ方法を紹介している。水だけで打つのではない。

これは何を物語るのか。
片倉さんの腕をもってすれば十割そばなど打つことは容易なことであったはずである。そうであるのに、十割蕎麦の扱いがほんの少ししかないのは、蕎麦粉自体に問題があったからではないか。あるいはその理由の1つであったからではないか。自家製粉で本当にいい蕎麦粉ができたなら、「並み粉の生一本」を蕎麦の全ての「基本」にしていたはずである。

すなわち、片倉さんが抱えた問題は、自家製粉の完成度が不十分であったこと、石臼の完成度が低くかったことであると、私は考える。