好奇心旺盛なおばさんのワクワク日記

勉学優先のセン業主婦!
遠くに見える富士山を眺めつつ、ワクワクしながら学習などにいそしむ日々を書き綴っています

『古事記』の「序」について

2013-05-22 22:51:16 | 古事記
先日手元に届いた『古事記年報』(55号)掲載の論文「古事記、上聞に達せず」(菅野雅雄)を読んで気になることがありました。
この「編集後記」によると、奈良の大会で菅野先生の研究発表(『古事記』天覧に供されず)の後、中村啓信先生とのハイレヴェルの応酬が繰り広げられたとのこと。
それで、気になることの解明につながるヒントになるものは無いかと中村先生の『古事記の本性』を開いてみました。
この本を買った時には、「難しいなぁ~~~、いつもの先生のお話とは全然違うわぁ~~~」
と、ほとんど読んでいませんでした。 

最近になって、予習・復習もしないで先生のお話をただ伺っているだけでは後悔することになりそう!もっとしっかり勉強しなくてはと強く思うようになりました。
本を開けば、そこには先生に書いていただいた「更上一層樓」の文字が。
先生に申し訳ないです!! 

その中村先生の序文に今更ながら「なるほど!」と思われる文章がありました。
以下は抜粋です。

(p.2) この目に見えないものを掘り起こして、白日のもとに顕らかにする。本書中の論文は基本的にこの認識の上に立って書いたものである。

(p.5) つまりどこにも、なににも書いてないから、いわば目に見えない問題と言うことになる。目に見えないものを見えるものにする。そのカードが・・・

前述の菅野先生の論文を読んで気になりだしたことは、『古事記』の「序」の内容についてです。
菅野先生の論文とは直接関係は無いのですが、この論文を読みながら、ふと「序」を書いたのは太安万侶だろうけれども、「本文」を撰録したのは別人ではないのかと思ったのです。
つまり「序」に書かれている内容は、目に見えない部分(史料として現れないもの)について粉飾があるのではと・・・。

本文は別人が撰録したと仮定すると、今まで矛盾すると言われていたこの部分は説明できる、この説もこれで説明がつくし、と次第に思いは別人説へと傾いていきました。
そう言えば、稗田阿礼=山上憶良説なるものもあったっけ? 

そして「序」について誰か何かに書いてなかったっけと本棚を探し、手にしたのが『古事記のひみつ』(吉川弘文館:三浦佑之)です。
〈古事記「序」という存在〉の見出しのもとに“本文と「序」とのギャップ”と題して以下のことが。

 いずれにしても、「序」の冒頭に置かれた内容の紹介は、本文とのあいだに大きな齟齬をもつ作文である。そしてそうなってしまったのは、本文を撰録あるいは執筆した人物と、「序」を執筆した人物とが別人であるからだと考える以外に理由を見いだせない。そして、別人の手になるといわれれば理解しやすい齟齬である。

恐らくこの部分が記憶の片隅に残っていたのでしょう!
それで、「本文」は別人が書いたのではとの考えが浮かび、もしそうであるなら「序」に書いてあることと矛盾が生じ、「序」の内容そのものを疑ってみる必要がある、ということに。

『古事記』の「本文」を書いたのはいったい誰?
「序」に書かれていることは真実ではないの?
「更上一層樓」!!

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デジャブとDjVu

2013-05-22 20:43:23 | 日記
昨夜、仕事から帰ってきて隣室で食事をしている息子に向かって、「デジャブって知ってる?」と聞いてみた。
「きしかんでしょ」
「えっ、かしかん?」
「きしかん!!」
「えっきしかん? きしかんってなに?」
と今度はこちらが聞いてしまった。 

「デジャブってパソコンで資料を見る時の、PDF見たいなもののことなんだけど・・・」と言うと
「いきなり知ってる?って聞かれたら、ぱっと思い浮かぶのは既視感だけど・・・」
「そりゃそうだね! いきなり言った方が悪かったね」と会話しつつ、ネットで「デジャブ」を検索をしてみる。

『デジャヴュ(デジャブ)』とは、フランス語。一度も体験した事がないのに、すでにどこかで体験した様に感じたり、過去に夢などで見た様に記憶錯誤する事。

「なるほどねぇ~~、既視感ってフランス語からきてるんだね! お母さんもこういうの体験したことあるわ! へぇ~~~、こういうのデジャブっていうんだぁ~~!」
といまさらながら感心して言うと、息子曰く「昔っからいわれてるんだけど・・・」




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