うさこさんと映画

映画のノートです。
目標の五百本に到達、少し休憩。
ありがとうございました。
筋や結末を記していることがあります。

0258. Peep 'TV' Show (2004)

2008年05月26日 | 2000s
ピープTVショー / Yutaka Tsuchiya
98 min Japan

Peep 'TV' Show (2004)
監督・脚本・編集:土屋豊、撮影:二宮正樹、美術:江田剛士、共同脚本:雨宮処凛、出演:長谷川貴之(長谷川)、ゲッチョフ詩[しおり](萌)、上田昭子(ナゴミ)、梨紗子(梨紗子)


日々、複数の場所で盗撮した映像をウェブサイト"Peep 'TV' Show"で流しつづける唇ピアスの青年を軸に、二〇〇二年の八月十五日から、九一一テロの一周年にあたる九月十一日までを日誌的な演出でかさねていく。あのテロの当日、テレビに映し出される映像を美しいと感じた、という感覚が青年の動機の底にある。現実と映像の境界が崩れた世界のなかで「現実」をもとめて覗き見をつづける青年や、ネットやカメラを経由した「現実」の希薄感を生きる人びとを、ドキュメンタリーの雰囲気で仕上げたフィクションのヴィデオ作品。

この作品もつねづね「政治性」で語られているようだが、そうではないだろう。映像がもたらす現実感からの乖離がテーマではないのか。そこに着目するなら、この作家の感覚はむしろ健全で、オーソドックスでさえあると気づく。現実はカメラによって略奪されつづけてきた。「まさにこの瞬間を薄切りにして凍らせることによって、すべての写真は時間の容赦ない溶解を証言している」とスーザン・ソンタグはすでに一九七七年に書いている。多木浩二がくりかえし引くように「写真は美しすぎる」のである。ましてその薄切りを重ね合わせて瞬時に編集、発信し、世界に伝播する機能をそなえた映像メディアには、圧倒的な現実溶解力と自己増幅力がある。現実をすりかえる、その異様な力を感じとった自己の疑問と不安に、いわば素手で向き合った作品である。

ピアスの青年は、小箱や靴などあちこちに小型カメラをおいて、渋谷の町や人波を写していく。それと知らずに写される人びと。店内の盗難防止カメラを監視する若者や、セックスサイトをみて自慰をする若者など「見られる」人びと、「見られることを意識する」人びとがつづく。

ゴスロリの女性は渋谷の街路に座るピアスの青年を訪れ、「なにみてんの」とたずねる。彼は「現実」とこたえる。青年は頭から布をかぶって視界を遮断している。かわりに覗きカメラに映ったもののほうを現実として見るわけである。この演出をふくめ、脚本は全体にもうすこし象徴性を高めて凝縮することができたようにみえる。幼い感じがそのままに投げ出されている瞬間も多かった。けれど凝縮を拒む、希釈された日常という実感が作者の意図でもあるのだろう。

次第に青年のサイトを眺めるようになる人びとの姿も描かれていく。ゴスロリの女性やひきこもりの男性など、誰もが、どこかでなにかを盗み見たり、見られたりしている拡散した日常が、覗き見をしている青年のサイトを覗き見する姿へとすこしずつ収斂していく。

ピアスの青年はビニール袋に猫をいれて密封した状態をライヴ映像で流し、窒息させるかをオンラインで問うたりする。ここは唯一、胸が悪くなった。きわめて具体的に、抵抗できないまま暴力をうけている生きものの身体が描かれているからだろう。

やがてゴスロリ女性は青年と接触するようになり、盗撮に参加しはじめる。ピアスの青年は自分も猫のようにビニール袋に入って叫んでみせたりもする。ネットでこれをみた女性は悲鳴をあげる。ただ、猫のシーンとは逆に、ここはリアリティーがない(笑)。暴力とは自発的に無傷で止めたり、かんたんにリセットしたりできるような遊戯性をゆるさない水準にあるもののはずなのだ。

九月十一日、「そしてぼくは三機目を待ちました」とピアスの青年は打つ。あのテロの映像を壁一面に映しながら、暗い部屋でピアスとゴスロリの二人はただ座っている。「ここが、ボクたちのグラウンド・ゼロ」というメッセージが映し出されて、作品は終わる。




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