今更留学記 Family medicine

家庭医療の実践と、指導者としての修行も兼ねて、ミシガン大学へ臨床留学中。家庭医とその周辺概念について考察する。

大リーガー医”に学ぶ―地域病院における一般内科研修の試み

2008-04-19 15:19:07 | 教育
大リーガー医”に学ぶ―地域病院における一般内科研修の試み



医学生の時に舞鶴市民病院に見学に行きました

既に自分の研修病院も決まっており

「どうしてもっと早く見学に来なかったんだろう?」と後悔しました

その後も「舞鶴で学べたらなあ~」という憧れ(後悔?)は消えることがありませんでした

思えば現在の職場に転向した時も「舞鶴出身の指導医が入った」というニュースが大きな後押しをしたのを憶えています

そして今更レジデント(研修医)を受け入れる自分の根底には、「大リーガー医」に揉まれていない劣等感のようなものがあるのかもしれません

この本は以前に購入していたのですが、最初の方しか目を通していませんでした

途中まで読んで、「うらやましすぎて」読むのを辞めてしまったのかもしれません

「留学が決まった今こそ、読む時だ」 というわけです

この本の前半は大リーガー医との交流が描かれていますが、本当の収穫は後半部分の医学教育、医療倫理などに対する松村先生の洞察でした

これらの文章が書かれてから数年経っていますが、時代を先取りしていたり、未だに大きな問題として横たわっているトピックばかりです

いわゆる書評としては、例えば黒川清先生の書評をご覧下さい


私はこの本で一番好きな部分を引用します

ちなみにこれは小浜逸郎さんの『癒しとしての死の哲学』からの引用です

好きなフレーズとして引用を引用するのは大変失礼な話ですが、「松村先生が何故このフレーズを引用したか」というところまで考えて、私の心におちた言葉なのでご容赦ください

日本人は、要するに「相手を気にする」ことで「自分を立たしめる」民族なのである。日本人は格別「相手の立場を慮ってあげる」思いやりのある優しい民族なのではない。また、特に「真実と対面することから逃避しようとする」臆病な民族なのでもない。相手と自分との関係に配慮することを通じてはじめて自分を実現させようとする民族なのである。
 したがって、親しい者の癌について告知することをためらうという心情には、関係性の維持というところに自己存立の根拠をおいている日本人特有の実存構造が映しだされているといえるだろう。これは、いいことでも悪いことでもなく、ただそのようにしかありえないというにすぎない。そして、この構造はなかなか変わりそうもないだろう。

がん告知で本人に真っ先に告知するのは、理屈から言えば至極真っ当です

本人が一番希望する治療を選択するのも当たり前の理屈です

家族、親戚と意見が合わず、本人の意向が必ずしも反映されないことはよくありますが、

それを解決する考え方として

一人称、二人称、三人称の区別をはっきりさせる
  • 一人称=本人
  • 二人称=近い家族
  • 三人称=他人(医療関係者、遠い親戚)

例えば「自分は告知してほしいが、夫に告知するのはかわいそう」

あくまで一人称が優先というのが原則

考えがぶれる人は自分が何人称で考えているかを顧みるとぶれない

割とクリアな考えだと思っていたのですが、現場では必ずしもしっくりきません

その理由の一つが分かったような気がします

小浜逸郎さんの言葉を借りれば

「日本人は一人称と二人称が相互依存している」とでもなるのでしょうか

患者さん本人の一人称を優先し、家族の二人称を後回しにすると、家族の一人称があやうくなり、患者本人も家族との二人称が崩れることで、自分の一人称もぶれる

松村先生曰く、こういった考察は他流試合(異文化との)でこそ磨かれます

他流試合をしにいく私にとって、大変良いおさらいになったことは確かです