ぐるぐる自転車どこまでも

茨城県を自転車で散歩しながら,水戸藩の歴史について考え,たまにロングライドの大会に出場,旅する中年男の覚書

天狗党を訪ねての旅~追憶

2013-11-25 21:41:52 | 自転車
ちょうど1年前の今頃だけれども、天狗党の足跡を自転車で走ったことを思い出した。
突然、天狗党の道をすべて自転車で旅してやろうと思いたった。
今さら青春の時代の彷徨でもないので、中年的危機というものかもしれない。
手帳をみたら全行程の走破は日程的にきつかったので、とりあえず大きな山越えのところだけに絞って挑戦した。
1500mから2000mくらいの峠を越えるのだ。
とくに、岐阜から福井へ山越えをする国道はとんでもない悪路だった。
国道とはいうものの名前ばかりで、対向車がすれ違うのが難しいくらいに狭くぐねぐねと曲がりくねり見通しができないし、急峻な谷の崖を削ってへばりつくような悪路なのにガードレールもろくにない危険な道だった。
申し訳程度に谷側にガードレール代わりにロープが張ってあったので、怖いもの見たさに谷底を覗き込んだら、谷底ははるか下にありまったく見えなかった。
最後の集落を過ぎると、見かけたのは工事関係者の3人だけだった。
谷間から顔を出した峠の頂は、少し白くなっていた。
数日前に降った雪が峠付近に残っていたのだ。
3時間も細く曲がりくねった山道を走ったあげく、雪のために通行止めを知らせる標識がちょこんと置いてあった。
その標識からはここから先は絶対通らせないぞという強い意志は感じられなかった。どうしても行きたいなら止めはしませんからといった感じだ。
朝、7時に麓の町の駅を出てもう5時間も過ぎている。
いまさら戻ることができないところまで進んでしまっていた。
戻るべきか否かを逡巡したものの、引き返すことを考えたら憂鬱な気分になったので、かまわずに乗り越えて峠越することにした。
最後の集落から、何十キロも民家はまったくなく、熊が出没するような場所だった。気温も3度くらいで、吐く息が白かった。
空元気を振り絞るために、鈴を鳴らし、歌を歌いながら、自転車で坂を上った。
数日前に降った雪も、幸いにそれほど残っていなかったので、なんとか峠を越えられたが、状況次第では遭難してもおかしくはないくらいのひどい場所だった。
峠への坂が急なため、予定時刻よりも大幅に遅れてしまい、途中、このままだと遭難するかもという恐怖で悪寒のようなものを感じたこともあった。
携帯食を持参してはいたが、3個分しか残っていなかったし、夜になったら氷点下になり凍えてしまうおそれもあった。
また、まずいことにこの国道はこの季節にはまったく車が通らないのだ。国道とは本当に名ばかりの山道なので、晩秋にもなると、一般人が通行することはないのだ。もし、ここで行き倒れにもなったら、道路管理者や物好きの人間が通るのを待つしかない。それもいつになるのかわからない。
心配し過ぎかもしれないが、冬用のテントや寝袋を積んでくればよかったかなとも考えた。
悪いことを考えだすとどんどんとそちらへの空想が膨らみ、不安が大きくなり、心の中の大半を占めるようになる。
そうなると心も身体も何かに縛られたように固くなってしまうのだ。
カラ元気でも出さないことには不安に押しつぶされてしまう。
思い出せる限りの歌を適当に歌ってみた。
たぶん、子どもの頃に見ていたテレビのヒーローものの主題歌やクレージーキャッツのホンダラ節の一節の「一つ山越しゃホンダラかホイホイ」とか何度も繰り返していたような気がする。
そうこうしているうちに、もううんざりするばかりに繰り返された「今度こそこれを曲がれば絶対に頂上が見えるはずだ」というカーブの連続も、本当に最後のカーブとなり、切り通しの向こうに福井の山が見えた。
そのときの安堵感は言葉に表すのは難しい。
あらかじめ吉村昭の小説を読んで予想はしていたものの、ふつうなら真冬にこんな場所を越えられるはずは無いと確信した。
当時の天狗党の人々を動かしていたのは、激しい熱を帯びた狂気のようなものではなかったろうか。
人が人生の中で峠を越えるには、そのような激しい何かが必要なのだろう。
峠の頂上に至ったときに感じたことを今になってとつぜん思い出した。

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