岡崎直司の岡目八目

歩キ目デス・ウォッチャー岡崎が、足の向くまま気の向くまま、日々のつれづれをつづります。

希望の島フォーラム 5

2008-02-18 00:32:40 | 建見楽学


公設の海水温浴施設、「潮湯(しおのゆ)」がある上弓削に周り、合間を見て周辺探索。
向こうに神社が見えるので行ってみる。

希望の島フォーラム 4

2008-02-18 00:29:23 | 地形観察


弓削島の向こうには生名島と岩城島。

手前が生名(いきな)で背後の高い山が岩城(いわぎ)の積善山。頂上は春には桜の名所となる。
因みに、西予市宇和町の石城(いわき)地区とは浅からぬ縁もあり、中世の頃宇和の庄を領していた西園寺氏の一部が岩城島に流れ、この島には黒瀬という姓が多かったりもする。西園寺の居城だった宇和の黒瀬城や、石城地区との関係の不思議さが、ここに来ると一層感じられる。

希望の島フォーラム

2008-02-17 23:12:21 | まちづくり


(財)松下政経塾26期生の兼頭一司さんが弓削島に住むこととなり、これからの地域づくりをテーマに「希望の島フォーラム」が開催された。
 我々「えひめ地域づくり研究会議」のミニフォーラム実施も兼ねていたが、多くの地元の参加者があったことは嬉しかった。

 基調講演では、神野直彦東京大学経済学部教授により「地域と人間の回復」が語られた。
 現在、日本が置かれている危うい現況について、分かりやすく何を今後の指針とすべきか示唆に富む話を伺う事が出来た。
 それはまた、大衆的貧困を克服するための工業社会が終焉を迎え、スウェーデンやキューバの事例を上げながら、環境と文化による地域経済再生へのアドバイスでもあった。
平成の合併で、我々の愛媛県では70市町村が20市町(11市9町)になり(松野町が鬼北町に入ると19市町)、13の村が消えた。しかし、そんな自治体数の効率化は日本だけだという。フランスやドイツの自治体数は、それぞれ3万5千とか1万8千という数字。3千数百の日本が今回の合併で1000近くに効率化されたのとは全く状況が違っている。
 例えば、1町3村が合併した上島町などは、人口が8000人となったが、ヨーロッパなら立派に“市”である。(日本では、人口3万人以上が市の概念)
 かつて農業国だった人口800万人のスウェーデンでは、第二次世界大戦後、1950年代から工業社会への推移が始まり、2500あった市町村が278に効率化された。(それでも自治体平均人口は3万人に満たない。日本の場合は約12万人)その過程で、暮らしは豊かになったが、農業を捨てたその新しい国で、国民は他人同士になった、と揶揄される。

 
 

弓削でミニフォーラム

2008-02-17 22:45:08 | まちづくり


上島町へ行ってきた。

と言っても、それが直ぐにどこかと分かる人は、南予にはそれ程多くない。
読みは“かみじまちょう”。
ひょっとしたら、失礼ながら愛媛県内、合併後の20市町の中で最も知名度的には低いかも知れない。
しかし、それは今や愛媛最北端の町となっていて、弓削町・岩城村・生名村・魚島村の1町3村が合併して上島町となっている。他の“しまなみ”の島々は全て今治市となったことを考えると、何とか地域のアイデンティティを守った結果としての“上島四島”だったりもする。

写真は、地元の方々が作った手作り模型で、至近距離からの撮影のため画面に入ってないが、本当は右方向少し離れた場所に魚島諸島がある。
この模型は、せとうち交流館内にある図書館に置かれていた。

写真右、二つの島がつながっているのは、佐島と弓削島を結ぶ弓削大橋。

写真で読む「僕の見た大日本帝国」

2008-02-09 23:42:57 | 良書紹介


面白い本を読んでいる。
外から眺めてみて初めて分かる“日本”というものがある。

この「僕の見た大日本帝国」は、かつて日本の領土だったエリアを丹念に周った著者の目が、豊富な写真を使って、ナニゴトかを伝えようとしている。

今の平和な日本の国内に住む日常感覚からは、多分ゼッタイに考え付かない感覚に違いないが、あるべきハズの無い場所に突然現れる鳥居や日本の家屋など、そうした想定外な事柄を眺めていると、歴史の臨場感とはこういうものかとも思わされる。

庄屋兵頭家長屋門、続報。

2008-02-06 12:20:17 | 建見楽学


昨日は、長屋門調査に当たっていた町見郷土館の高嶋学芸員から嬉しいニュースが。

何と、棟札の発見。早速、写真を送ってもらった。

写真ではくすんでいて、字がハッキリと読めないが、文政三年と墨書されている。
つまり1820年、今から188年前の建物ということになる。
時代は、翌21年に伊能忠敬が「日本與地全図」を完成させ、25年には外国船打ち払い令、28年にはシーボルト事件など、外国の影がチラホラする幕末騒然の少し前。まだこの辺りではのどかな太平の夢をむさぼっていた?頃か。

この板の裏書には、三崎西組の大工源屋源治の名を筆頭に多数の関係者の名も。
松山から駆けつけて頂いた建築士福岡氏のお陰もあるが、こうして、ある熱意を持って調べる人の存在がナニゴトかにつながっていき、地域の歴史文化発掘に結びつく。
地上の埋蔵文化財は、まずそれを掘る人の存在が不可欠でもある。

三崎庄屋・兵頭家10

2008-02-04 23:24:32 | 建見楽学


明治十五(1882)年建築の新蔵。

この蔵は素晴らしい建物で、入り口が観音開きの土戸を始めとして五重の扉で構成されている。
外部からは伺い知れないが、床下には瓶がいくつか埋め込まれていて、珍しい仕掛けとなっている。
平成元年の取材の際には、床板をはずしてこの目で拝ませてもらったが、何でも湿気対策らしいとのその時の話だった。が、以来今までそのような建物の仕掛けを他で見たことはまだ無い。
幸い、この貴重な蔵はこのまま残される。

ただ、長屋門は流石に江戸期の建物であるため、老朽化により解体のやむなきに至ってしまった。狭い通りに面して、万が一瓦などが落ちて周囲の方にご迷惑をかけては、という心配や維持費の問題など、事は一様ではない。
今回は町見郷土館の迅速な緊急対応により、最低限度の記録調査となりそうだが、佐田岬半島の近世史を彩る貴重な建築物が消滅する事の大きさを、多少の関わりを持つ中でかみしめている。